星読みのアトリと狼の娘-7
目を開けると、幕屋の中だった。真上には分厚いフェルトで覆われた屋根があり、外の風が強いのかところどころたわんで揺れていたが、中は暖炉であたためられて寒くはなかった。しっかり掛け物と毛皮に覆われて少し熱いくらいだ。頭上の幕屋の骨組みには、布や道具を入れた革袋、果ては調理器具までが挟み込まれている。雑多な生活感にあふれたここは、旅暮らしの簡易的な天幕ではない、遊牧民の幕屋にちがいなかった。
「目が覚めましたか。お痛みはどうですか」
「…………少し」
女性の声がして、起き上がろうとすると左肩に激痛が走った。うめいて、慌てて近付いてきた女性の力を借りて身体を起こす。養母よりも少し若い、壮年の痩せた女性だった。アトリは幕屋の奥に寝かされていた。
「傷はきれいにして今のところは膿みも熱もありませんが、無理はいけませんよ」
「はい――あの、ありがとうございます」
この女性には見覚えがあった。おそらく族長の妻だ。去年も世話をしてもらったが、あの時はアトリやリコに対して警戒心が強かった。それを思い出しながらまず礼を言うと、彼女のほうもおどろいた様子でアトリを見つめた。その視線が頭の上から顔、目を通って傷口へ向かうのを感じる。当然、アトリは頭を覆っていなかった。
「――礼を言わなければならないのはこちらの方です。息子を取り戻してくれたこと、感謝の言葉もありません」
取り戻したのではなく、狼が返してくれたのだと言おうと思ったが、すぐには言葉が出なかった。アトリが黙っていると彼女は温めた乳を器に満たしてくれた。
「手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫です。片手は無事ですから」
そうですか、と答えて彼女は立ち上がった。熱いくらい温められた乳に口をつける。冬場で少し味は薄いが、身体に染みてほっとした。
「夫を呼んで参りますので、少しお待ちくださいね」
「あの――すみません、おれはどれくらい寝てましたか」
後ろ姿を呼び止めると、彼女は振り返りアトリを見て笑った。アトリの口周りに乳の白いあとが残っていたせいかもしれない。思いのほか優しそうな笑顔にアトリも面食らった。
「半日ほどですよ。今は昼過ぎです」
やがてやってきた族長のホウエンは、来るなりアトリの横に腰を下ろし、深々と頭を下げた。草原の誇り高い遊牧民、大きな一族を束ねる族長たる男のすることとは思えず、アトリは慌てた。
「やめてください。頭をあげて――」
「アトリ殿。わが息子を取り戻し、狼を退けてくれたこと、礼を言います。本当にありがとうございました」
「あれは違うんです。狼たちがあの子を保護して、家族に返そうとしていたんです。あの子に聞けば分かると思います」
「聞きました。それでもわれらは、あなたに礼を言いたい」
そこでようやっとホウエンは頭をあげ、アトリは彼の顔を見ることができた。眉間に深いしわが刻まれた険しい表情は、少し疲れているようにも見えた。
「あなただけでなく、始祖殿にも。始祖殿がいなければ、狼と通じることはできずあの子は戻ってこなかったかもしれないし、アトリ殿がいなければ始祖殿もここへは来なかったでしょう」
それはそうかもしれない、とアトリが返事に詰まっていると、ホウエンは続けてまた頭を下げた。
「そして謝罪もさせてください。まさかあなたに当たると思わず、我らの弾があなたを傷つけた。本当に申し訳ない」
「いや、これも……おれが勝手にやった結果なので……」
跡取り息子を奪われて報復しない選択はなかっただろうし、少年の上着は狼の毛皮と紛れていた。弾が当たったのは我ながら不運だったと思うが、アトリはそれ自体を糾弾するつもりはなかった。
少し考えて、アトリは乳の器を絨毯の上に置き、まっすぐ座りホウエンに向きなおった。彼もまた顔をあげ、アトリを見つめ返す。アトリほどではないが背の高い男だったが、それでも見下ろすかたちになった。
「……リコはこの冬ずっと、どこかで誰かが呼んでいると言っていました。おれたちはその呼び声を追ってきたんです。狼の声――最終的にはあの子を返すためにおれたちを呼ぶ声になったけど、結局のところ、この寒さで飢えて、助けを呼んでいたんでしょう。本格的に人の群れを、人間を襲い出す前に遠くへ導くことができて良かった。人にとってだけでなく、狼にとってもきっとよくない結果を招いたでしょうから」
ホウエンは不思議そうな顔をした。アトリ自身も、自分が狼と人間とどちらの立場になってものを言っているのかよく分からなくなっていた。たぶんこれが、リコがいつも感じているどっちつかずの気持ちなのだろう。
「あなたは不思議な方だ、アトリ殿。――草原の生まれではなかったのだな」
どきりとしたが、金髪も青い目も、隠すものも隠れる場所もない。あきらめて潔く、はいと頷いた。
「生まれは知りません。赤子の頃に拾われたので――リコと同じで、おれ自身自分のことがよく分からない。だからおれは、リコの狼の部分も人の部分もひっくるめて、認めてやりたいんです」
リコを始祖殿と崇める彼らが居心地悪くて、去年はすぐにここを離れた。けれど今は、それも当然かもしれないと思える。リコにそのような力があることは事実で、同時に無邪気で無力な少女でもある。それだけなのだ。
「始祖殿は、狼と共に去ったのでは?」
「ちがいます。リコは、おれのところに帰ってくると約束した。狼たちを十分遠くまで連れて行ったら、戻ってくるはずです」
ホウエンは複雑そうな表情でアトリを見た。若者の戯れ言にあきれているようにも、信頼関係を羨望しているようにも見えたが、それはアトリの希望が含まれていたかもしれない。理解し得ないとは思うが、それも仕方のないことだ。理解を強要することもできまい。なにもかもがちがくとも、理解しあえずとも、認めあうことはできる。
「その――治療ありがとうございます。よければ、このあとしばらく、あなた方の土地で野営させてもらってもいいですか。リコが戻ってくるまで待つと約束したんです」
「それは、もちろん。この先われら一族は、あなたやそのご親族、ご友人に至るまで、手厚くもてなし道行きをお助けすると誓いましょう。怪我のこともありますし野営と言わず夜はこちらで休んで――他にも、できることがあればなんでも言ってほしい」
自らの生活を苦しくしてでも、旅人をもてなし受けた恩は子孫に至るまで返すのが草原の流儀である。いりませんと断ろうとして、アトリは考えを改めた。跡取り息子を助けた恩と銃で撃った詫びを、彼らに返させておいた方がよさそうだ。せっかくなので草原のやり方に則って、もらえるものはもらっておく。アトリはこの草原で、星読みとして生きていくと決めたのだから。
「それなら、ひとつ――とても面倒なことを頼みたいのですが」
ぜひ、とホウエンは身を乗り出した。
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