星読みのアトリと狼の娘-6
「――っぐ、くっそ……」
――撃たれた。熱のあとに激痛が走る。傷口を手でおさえると、どろりと血でぬめる。反対側にも穴があって、どうやら弾は抜けていた。
考えてみれば当たり前だった。あれほどリコも狼も吠えあって、お互いの場所を知らせていたのだ。それを聞いた遊牧民たちは、怯える馬を奮い立たせ犬を走らせ、ここまで追い付いてきたのだろう。跡取りを奪われたと思い込んでいる彼らが狼を撃とうとするのは自然なことだった。
「アトリ!!」
「くるな、リコ!」
アトリは制止したが、リコはもう既に転がるようにコゲから降りて、こちらに走ってきていた。ばん、ばん、と乾いた銃声が続き、アトリは舌打ちして子供二人を抱きかかえた。少年が悲鳴をあげ、はじめてその声を聞いた。見れば、先ほどまで少年になでられて幸せそうに目を細めていた雌狼が、身体を低くして怒りをあらわに唸っている。
「やめろ、行くな! リコ、やめさせろ!」
「みんな、待って!」
アトリの体の下から、リコが叫んで手を振る。狼の言葉ではなく人の言葉のままだったが、今にも駆け出していきそうだった狼たちが地面を掻きつつ踏みとどまり、不満そうな視線がリコに集まった。狼は、もはや人間と同様自然に翻弄される草原の隣人ではなく、大いなる力もつ始祖の獣らしい猛々しい表情でアトリたちを囲んでいた。
――銃声がやんだ。次の弾込めまで、少しあいだが開くはずだ。
痛みをこらえて、アトリは起き上がった。リコが顔をあげ、アトリをまじまじと見てまっさおになった。肩の傷はおさえても血が止まらず、濃い藍色の上着の色を少しずつ変えていく。ほんの一瞬くらりとした。飛びそうになった意識を奥歯を噛んでつなぎ止め、アトリはリコを見下ろした。小さな娘の金の瞳は涙をいっぱいにたたえて震えていた。
「リコ、おまえに頼みがある。リコにしかできないことだ」
「――やだ」
「狼を……仲間たちを連れて、どこか遠くへ逃がしてやってくれ。おれはもう、一緒に行けない」
リコはいやいやと首を振った。涙がこぼれてぽろぽろと頬に流れる。アトリはリコと同じように震えている少年を横に座らせ、言い聞かせるように続けた。
「おれがこの子を返す。だからリコは、狼たちを助けるんだ。誰も追いつけないようなところまで連れて行ってやれ。狼はおまえを呼んでいた。おまえならできるだろう、始祖の狼の娘である、おまえなら」
「いやだ、できない!! リコはアトリといっしょがいい! ちがうもん、リコは、アトリの……アトリの……!」
幼い、がむしゃらな必死さは金の瞳をますます獣らしく輝かせた。リコは両手をぎゅっと握りしめ、口にできない言葉を探して首を激しく振っている。
こんな時なのに、アトリはリコがかわいくて仕方なかった。この前の晩にアトリが編んでやった長い三つ編みも、イリスにもらった腕輪をうれしそうにクルクル回していた細い手首も、新しい冬の上着を着せてやってニコニコ笑いながら踊るように大地を踏みしめていた小さな足も、アトリの名を呼んで時に生意気なことを言って困らせる元気のいい口も、なにもかもがかわいい。
愛おしさを込め、血のついていない方の手で乱れた前髪をかき分けると、リコは額をアトリの胸に押し当てた。出会った頃からリコがよくやる仕草だった。
「わかってるよ。おまえは、おれの大事な娘だ。だから、おれの――おれたちのところに帰ってきてくれるだろう?」
リコははっとアトリを見上げた。瞳の輝きがまた少し増して、ますます星のそれに近くなったような気がした。もしかするとそれは血を失って視界が霞んでいるせいかもしれなかったが、アトリは最後の力を振り絞ってリコを抱き上げ、コゲの上に乗せた。
「コゲを貸してやるから、この狼たちを、どこか遠くへ連れていくんだ。それから帰って来い。おれはここでおまえを待ってるから」
コゲの鼻面も叩いて目を合わせ、頼むぞ、と声をかける。さまざまな旅を共にした相棒は、心得たように尻尾を振った。一方リコの尻尾はしょんぼりと力なく垂れたままだったので、アトリは頼りなげな小さな娘を見上げて、震える手を握って呼びかけた。
「リコ、おまえを信じてるから言うんだ。おまえの力も、おまえの強さも、本当はおれと同じさみしがりなところも信じてるし、狼の部分も人の部分も愛してる。戻ってきたらまたあちこち旅して、いろんなものを見に行こう。だから、行ってこい」
「……アトリも、ほんとうはリコといっしょにいたいの?」
「そうだよ。当たり前だろ」
いつかも同じことを聞かれた。その時と同じ答えを返して、アトリは少し笑ってしまった。するとリコも、涙に濡れた頬でいつものようにくふっと笑って、わかった、と小さく頷いた。
「よし行けっ」
リコはもう一度うん、と答えて自らコゲの手綱をとった。背筋をぴんと伸ばして感情のままに尻尾が大きく膨らむと、馬上の小さな身体が何倍にも大きく見えた。まるで天からの恵みで最初に生まれた命、始祖の狼そのものだった。
――アオオオオオオオン!!
ためも前触れもなく、リコは一声吠えた。周囲で警戒態勢を取っていた狼たちがおどろいてリコを振り返る。雄狼が立ち向かうようにリコの眼前に躍り出て、耳を立てて低く唸った。群れに敵意なす人間たち、愚かで弱い生き物を食らい尽くそうという動きで、それを止めるなら始祖へ歯向かうことも辞さない様子だったが、ものの数秒でそれを止め、尻尾を下げ後ずさりリコに道を譲った。群れの頭がリコに変わったのだ。
リコはなにも言わなかった。手綱を引いた様子すらなかった。けれど次の瞬間、コゲは全速力で走り出し、周囲の狼はそれを追いかけあっという間に駆け去って行った。リコはもう、アトリを振り返りすらしなかった。
十数頭の白灰の獣たちが星明かりに照らされて、雪と霜に覆われた丘の向こうに消えていく。大きな栗毛の馬も、その力強い走りで巻き起こる砂煙も、すぐに見えなくなった。まばたきもせず呼吸すら忘れそれを見送っていたアトリは、風の音しか聞こえなくなってようやく詰めていた息を吐き出し、どさっとその場に座り込んだ。
「……だいじょうぶ?」
問われて、そういえばもう一人子供がいたことを思い出す。少年はまだまだ怯えた様子で、けれど心配そうにアトリを見つめていた。まだ丸い子供らしいふっくらした頬は寒さで朱に染まっていた。
「大丈夫……だけど、くそ、いってぇ……」
必死だったときは忘れていた痛みがよみがえり、アトリは左肩を押さえた。当然ながらまだ血は止まらず、焼けるように熱かった。なにかしなければと思うが直視できないといった様子で半身を引きながら、アトリの側を離れられず顔をしかめている少年がおかしくて、ふっと息だけの笑みがこぼれた。よく見れば、丸い目とまっすぐな眉が、アトリを引き止めた青年に似ている気がした。
「……兄さんが心配してたぞ。本当に、無事で良かった」
おどろいて更に目を丸くするので、アトリはますます笑った。リコが遠くに行ってしまったというのに、なぜかしら清々しい気分だった。
リコたちはもう、人間には追いつけないだろう。いなくなって食われたかと思われた子供は狼が保護していた。これ以上のことはない。
リコたちが向かったのとは反対側から、数頭の馬が駆けてくるのが見えた。遊牧民たちだ。狼が去ったのを見て、撃つのをやめて向かってきたのだ。これでこの子も、群れに返すことができる。あとは、リコが帰ってくるのを待つだけだ。
安心したせいだろう。馬上の姿をはっきり認識してあれは族長のホウエンだろうかと思う頃には、意識は急速に遠ざかり始めていた。彼らが馬から飛び降り、少年が駆けよって行くのを見たところで、アトリは意識を手放した。
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