星読みのアトリと狼の娘-5
冬の短い日が傾き始めていた。コゲが全力で疾走している間は気付かなかったが、どうやら空を重く覆っていた雲も流れたらしい。夜に向かい始めているというのに草原は明るく、心ばかりの西日が大地をあたためていた。リコが示した場所でコゲの足を止めると、岩場の影に羊の骨が落ちていた。近付くと群がっていた鳥がギャアギャア鳴きながら飛び去る。骨にはまだ肉の筋が少し残り、血の色も赤黒く真新しい。周囲には狼の足跡があった。昨晩襲われたという羊に間違いなかった。
「ひとのにおいがする」
リコの言葉に、アトリはぞっとして一度コゲから降りた。骨を足でひっくり返して岩場の裏まで確認したが、羊の骨以外の痕跡は見つけられなかった。
「本当に人間の匂いなのか? 血の匂いに紛れてるんじゃなくて」
「ひとのにおいだよ。ひとの血じゃなくて、ひとのにおい」
そこに違いがあるのかは正直わからなかったが、アトリはそうかと答えて再度コゲに飛び乗った。コゲはだいぶ疲れているはずだが、惨状に恐れる様子はない。頼りがいのある相棒に感謝して、一段落したらめいっぱい世話をしてやろうと思った。
「リコ、どっちへ行ったらいい?」
「ええとね……」
リコがあたりを見回して答える前に、しんと冷えた夕方の空気を切り裂く、獣の声が聞こえた。さきほどよりも距離が縮まっているように感じる、力強い狼の遠吠えだった。
狼は遠吠えで意志を伝え合う。アトリはリコとちがってその意味などわからないが、それでもこの声が伝えたいことは理解できた。
「よんでるみたい」
「そうらしいな」
もう一度、こっちだと知らせるように声が届く。リコがアトリを見上げ、もの問いたげに首をかしげた。言いたいことはすぐにわかって、アトリは頷いた。リコは襟巻きを首まで下げ、遠吠えに答えて大きく吠えた。
――ワオオ――……ン
――クオオオ――――ン
返ってきた声は、どこか切なげに響いた。こっち、とリコが指さす方へ、コゲの足は既に向いている。手綱をゆるく握って好きに走らせながら、アトリは、狼たちはどうしたらよいのだろうかと考えた。
激しい夏を経た厳冬期、人も獣も満たされず、じっと春を待つしかない。同じような気候の冬にトゥーラは夫と実子を失ってアトリを拾い、イリスの中で育たなかった子は流れてしまった。それでも人がまだ生きているように、獣たちだって狼だって、悲しみを踏み越え生きているのだろう。生きるためには食べなければならない。人ならば街に身を寄せ商いで助け合うこともできるが、狼たちはそうもいかない。報復に燃える遊牧民の銃から群れを逃して、そのあと彼らはどう生きていけばよいのだろうか。
いつしか北の空は薄紫に沈み、星が瞬き始めた。星の位置で方角を確認しながら、アトリは、曇っていた数日間で暦が先へ進んでいることに気がついた。当たり前だが、すっかり頭から抜けていた。
本来ならもう野営の準備を始めなければならないが、狼は繰り返しリコを呼んでいた。リコもそれに答え啼きあうと、自分の方が異分子に思える。アトリは必死な狼たちに付いていくことしかできなかった。
やがて、本当の暗闇にあたりが呑まれようという少し前、霜を抱いて白く輝いて見える平原に、白い冬毛の狼があらわれてか細く鳴いた。
やっと追いついたとほっとしたのも束の間、どこに潜んでいたのか灰白毛の狼が次々と姿を見せアトリたちを囲んだ。ぐるりと十数頭の狼に囲まれて、アトリはつま先から頭のてっぺんまで緊張したが敵意は感じず、高いところから飛び降りたような不思議な浮遊感があった。
狼たちとリコに、もはや声は必要なかった。リコはコゲの背でほとんど立ち上がるように身を乗り出し、耳と尻尾をあらわにしている。そのリコの狼の部分も緊張している様子はなく、出会えたことにほっとしているように穏やかで、ぱたぱたとアトリの鼻先をくすぐった。
「――――アトリ」
無言で対話していたリコが、不意に振り向いてアトリを呼んだ。
「どうした」
「あの子を、かえしてあげて」
「あの子?」
狼のことかと思った。けれど再び前を向いたリコの視線をたどると、一頭の狼が群れから進み出るところだった。他の狼たちより二回りも大きく、首や手脚はずんぐりと太い。毛並みは針のように鋭く輝いていて美しかった。群れの頭である雄にちがいない。
あの子と呼ぶには立派すぎると思っていると、その横から白いかたまりがおずおずと出てきた。ほっそりした雌の鼻先に押されるようにして出てきたのは、白い毛皮の上着をまとった、ちいさな子供だった。
アトリはコゲから飛び降りて駆け寄った。不安そうだった子供も、その姿を見て途中から走ってアトリに飛びついた。
「よく――無事で……けがはないか」
子供はこくりと頷いた。子供――たしかに、リコと同じくらいの少年だった――が正気を保っていることにほっとして、アトリは大きく息をついた。
「まちがえてつれてきちゃったんだって。元のところにかえしてほしいって」
馬上からリコが言う。子供は放心したようにアトリにしがみついて無言だったが、けがどころか衣服の乱れすらない。体は冷えていたが衰弱している様子もなく、丸一日外で狼と共に過ごしたとは思えないほどだった。
――狼の仔を拾ったら犬の中で育てるし、人の子を狼が助けることもある。
養母が言っていたことを思い出す。狼たちは家畜を奪い食いながら、人の子は守って返そうとしていたのだ。
アトリと子供のもとに、一頭の雌狼が近づいてきた。アトリはもうちっとも彼らを恐れていない自分に気が付いた。雌狼が子供の背に鼻を寄せると、子供の方も顔をあげ両者はしばし見つめ合った。
あたたかい毛皮を着た子供より、痩せた狼の方が弱って見えた。あばらが浮きそうなほどほっそりしたその胴を見て、そうか冬は彼らにとって繁殖期なのだと思い至る。雄のそばに控えて痩せ衰えたこの雌は、ひょっとしたら仔を失ったのかもしれない。
「毛皮がりっぱだったから、狼かと思ったんだって」
リコが通訳する声音はどこかのん気で、アトリの笑いを誘った。ふっとやわらいだ空気に後押しされたように、子供は手を伸ばして狼の頭をなでた。狼はされるがままになっていて、気持ちよさそうに目を細めて少年の手のひらに鼻を押し付けた。
――その時、鋭い銃声が響き渡った。とっさに子供を抱えて伏せると、アトリの左肩を熱が突き抜けていった。
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