星読みのアトリと狼の娘-4
丘の上にあるオボーのしるしには見覚えがあった。昨年の夏にも同じものを見た。彼らホウエンの一族は、冬は山あいの土地に移動していたらしい。平原とはちがって雪が積もらず草の根が露出しているので、数百頭からなる家畜たちを食べさせるのに都合が良いのだろう。いくつかまとまって設営された遊牧民の幕屋や家畜の囲いが見える。
眼下に広がる景色とリコとを見比べて、アトリはしばし考え込んだ。着膨れしたリコがアトリを見上げ、顎にこつんとリコの額が当たった。
「どうするの? アトリ」
「……どうしたらいいと思う、リコは」
いささか情けない返事だとは思ったが、リコが感じるままに馬を走らせた結果がこれなのだから、リコに聞くしかなかった。リコは首を傾げて遠くを見る目つきになった。
「…………わかんない。もっととおくな気もするし、ここでまっていればいい気もするし」
そうか、とアトリは頷いた。リコだって四六時中なにものかの呼び声が聞こえるわけではない。彼らの縄張りに近づきすぎないところで天幕を張って、次の声を待つというのが妥当だろう。
そう思い、主人の決定を待ちきれない様子で足踏みしていたコゲの首を丘の反対側に回そうとしたとき、鋭い鳴き声が聞こえた。緊迫した犬の吠え声だった。
丘の中ほどをよく見れば、小さな羊の群れがゆっくりと移動しているところで、犬はその番犬に違いなかった。もっと大きな群れを想像していたので目に入っていなかったのだ。ちっ、と舌打ちしたがもう遅い。黒っぽい引き締まった体は吠えながら矢のように鋭く丘を駆け上ってきており、その後方には馬影も見えた。
「なにもしない、なにもしないよ」
あっという間にコゲの足元まで迫ってきた犬に、両手をあげて敵意がないことを伝える。人間にも見えるよう空っぽの手を大きく振ったが、犬はひどく警戒したまま体を低くして耳を伏せ唸り続けている。
「アトリ、たぶんこれ、リコのせい」
「ああ…… なるほど。勇敢だな」
彼の目には狼を連れた得体の知れない闖入者に見えているのだろう。もはやアトリには興奮する犬をなだめる術はなく、馬が追いつくのを待つしかなかった。
「何者だ、名乗れ」
ものものしく二頭連れで現れた人物は、頭から足先まで防寒具ですっぽり覆われ、顔はほとんど見えなかった。声もくぐもっていたが、それでも若々しさと緊張が伝わってきて、アトリはもう一度両手を上げた。
「おれは北の星読みの里から来た。トゥーラの息子、アトリだ。ここへは旅の途上で通っただけで、あんたたちの宿営地を害する意図はない。一晩か二晩、天幕を張る許可さえもらえればそれでいい」
「…………アトリさん?」
アトリは口布の下でげ、とうめいた。どうやら昨年の夏のことをよく覚えている人物だ――襟巻きと口布をずらし帽子も外して馬上で軽く頭を下げた顔には、アトリも見覚えがあった。隊商の宿営地で一緒になって、アトリを見出し一族のもとへ案内してくれた、全てのきっかけになった青年だった。たしか、名をオトといった。
「――オト。久しぶりだ、元気そうでよかった」
「……アトリさんということは、そっちは始祖殿か」
もう一人もオトと同じくらいの若者だった。彼も敬意を示すように顔を出し頭を下げて、アトリの前にちょこんと座っているリコをじっと見る。リコは居心地が悪そうにアトリの服の裾をぎゅっと握りしめた。
「オト、おれたちは本当に、ただ通りかかっただけなんだ。リコのことも、放っておいてはくれないか」
「いや――でも、今は――……」
歯切れ悪く口の中でつぶやいて、若者二人は視線を交わし合った。どうやら様子がおかしいと、アトリは眉を寄せた。
昨年リコとアトリの立ち回りは失敗に終わったが、そのあと雨が降り出した。始祖の狼が雨を呼んだ、恵みをもたらしたと彼らはリコを下にも置かぬ扱いで、ごちそうを振る舞い一番良い幕屋で寝泊まりさせ、常時世話役までつける勢いだった。あの記憶がある彼らなら、リコを見たとたん家に招かれてくれと言い出してもおかしくないはずだった。
「……そちらの家畜とは丘ひとつぶん距離を置く。それでよければ、おれたちはもう行く」
「いや、待ってくれ――その、ええと――」
焦ったように馬上で手を伸ばす。カチャンと硬い音がして、よく見れば彼らは銃を持っていた。馬もがっちりとして首筋が丸い立派な若駒だ。放牧の守りとしては物々しい。アトリが気づいたことに向こうも気づいて、二人はもう一度顔を見合わせてから、思い切ったように口を開いた。
「おれたちは今、狼の群れを狩っているところなんだ――始祖殿には、どうかお目こぼしいただきたい」
「狼を?」
「なんで!?」
アトリの疑問に被さるように、リコが悲痛な声を上げた。アトリの服をつかんだまま、コゲから身を乗り出そうとするのでアトリは慌ててそれを支えた。
「どうして、そんなことするの」
幼い疑問に、若者ふたりは答えられない。リコがずっと気にしていたこと、助けを求めるような呼び声はこれだったのかもしれない、とアトリは思い至った。
狼が家畜を襲うことはままあることだ。家畜を襲った狼を駆除の対象とすることもある。けれどリコにとって、とても許容できることではないというのも、また理解できる。
「アトリ、リコが追いはらうよ。また前みたいに狼と話して、どこか別のばしょに行ってもらうから」
リコはアトリを見上げた。金の瞳は、これまでにない焦燥のいろに淀んでいてふだんより暗く見えた。
「子供がひとり、いなくなった。もうみんな、追い払うだけではおさまらない」
思っていたよりも小さかった羊の群れ、斜面にしがみつくように放牧されている家畜たち、色の少ない冬景色の中侘しくただずむ幕屋、武装としても重装備に見える二挺の銃、バートルたち家族のところで見た痩せた羊たち、族長への連絡に返事が来ないと言っていたこと――それらが順に浮かんできて、アトリは小さく息をついた。
「襲われたのか」
「昨日の晩に狼の襲撃があって、そのときいなくなった。羊を何頭かやられて、子供を襲うところを見たわけじゃないが、もしかすると――」
「小さい子なのか?」
「始祖殿と同じくらいの――おれの、末の弟だ」
オトの表情は鎮痛だった。オトの末弟なら、それは族長の跡取りということになる。
リコがごくりとつばを飲み込んでアトリを見上げた。ぎゅっとアトリの服を掴んだ小さな手が震えている。上着ですっぽり覆われた中で尻尾が緊張して膨らんでいるのが伝わってきた。
「……アトリさん、始祖殿と一緒に我が家に招かれていてくれないか。この時期、野宿するより安心だろう」
狼の群れが彼らの銃であっけなく散っていくあいだ、あたたかい幕屋に招かれてのんきに過ごしている場合ではない。けれど若者ふたりは、簡単にアトリたちを見逃してくれそうにもなかった。狼の性質を持つリコは狩りを混乱させるだろう。現に番犬は、リコを狼と見なし今にも飛びかかりかねない。彼らの言葉に、リコは小さく首を横に振った。アトリも答えてうなずく。
アトリはコゲのあぶみに足をしっかり入れ、腿で胴を締めた。リコが頭の帽子をすとんと後ろに落として、ピンととがった耳があらわになる。オトたちがたじろいで、彼らの馬もつられて足踏みした。リコはすう、と大きく息を吸って、曇った空を見上げた。
――アオオオオ――――ン!
ほんものの狼の遠吠えに、アトリとコゲ以外の全ての生き物が浮き足立った。威嚇を続けていた犬は尻尾をくるりと巻き服従の姿勢を見せ、馬も逃げ出そうとその場でぐるぐる回り始める。若者ふたりはそれを制御しようと手綱を引いたが、一番おそれおののいているのは人間の方かもしれなかった。
「行くぞ、コゲ」
アトリが呼びかけるより早く、コゲは走り出していた。あっという間に彼らを後ろに置き去りにして、丘を下る。とはいえ相手は若駒二頭に対し、こちらはアトリとリコ、そしてふたりぶんの荷物を載せて足の重いコゲである。逃げ切れる分は薄かったが、リコがアトリの肩によじのぼるようにして顔を出し、もう一度吠えた。
「こら、危ないだろ」
「見て! いなくなっちゃった」
アトリも首を回して後ろを振り返る。丘の上で右往左往していた馬の姿はもう見えなかった。当然、犬も追ってきていない。どうやら怖がる馬を制御しきれなかったようだ。
「ありがとな、リコ」
リコの背中を引っ張って前に戻しながら礼を言うと、リコはうん、と頷いたあとうなだれた。アトリはリコの身体の前で手綱を持ち直し、薄い胴体を支え直した。そうしないと、へにゃりと折れてしまいそうだった。
「大丈夫だ、あの銃を撃たせやしないさ。やってみよう」
そうすることが本当に正しいのかは、アトリにもわからなかった。家畜や野宿の夜を脅かす野生の獣を追い払ったことはアトリにだってある。結果として命を奪ったことだって一度や二度ではない。ましてや人を襲う群れならば駆除するのが正解に近い気もする。人も獣も生きるためにしていることなのだ。彼ら遊牧民は、多くの家族や家畜を抱えてこのきびしい土地で生きている。
正しいかどうかはわからない。けれど不思議と、アトリに迷いはなかった。リコのためならこうしようと素直に思える。リコがアトリのために何度も立ち向かってくれたように、今度はアトリがリコのために行動するべきだと思った。
リコがまた、うん、と頷いたときだった。
――オオオ…………ン
――ワオオオ…………
どこか遠くから聞こえる、狼の遠吠えだった。脱力していたリコの身体が一気に緊張して、ぞわりと尻尾と耳が立つ。リコの声にはまったく怯えないコゲが、速足をゆるめその場でぐるりと回った。アトリもコゲがこれ以上動揺しないよう手綱を強く引いた。どうどう、となだめるとゆっくり動きを止める。急発進して全力で走ったため、あるいは今の遠吠えのせいか、馬具の下で巨体がじっとりと汗ばんでいるのを感じた。そしてそれは、アトリも同じだった。
「わかったか、リコ」
リコはアトリの声を聞いていなかった。目を閉じて手を耳の側にあて、じっと音を聞いている。あるいはリコにしか聞こえない呼びかけの声が続いているのかもしれなかった。細い手首に光る腕輪は、別れる前にイリスがリコに渡したものだ。耳飾りはできないけどこれなら、と言ってつけてもらうと、リコはたいそう喜んでいた。
「……こっち!」
鋭く叫んで右斜め前方を示す。よし、と答えてコゲを呼ぶと、心得たように向きを修正した。ほんのわずかな時間で、コゲも覚悟を決めたようだった。頼もしい首筋を軽く叩いて、行こう、と声をかけると、相棒はもう一度走り出した。
リコが示したのは北だった。丘を越えるごとに大きな山が近付き、全てを凍らせる、冷たく乾燥して死の匂いがする風が吹いてくる。アトリは唐突に、草原の伝承を思い出した。
天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。
山の頂より清水ありき。清水は命を生み、命は山に育まれる。
清水よりはじめに生まれし狼ありき。狼は強き脚で山を駆け下り、草原に恵みをもたらす。
始祖の狼が運び、天と山からもたらされるのは恵みだけではない。人智を超えたものたちは、死の運び屋でもある。
ならばリコは。始祖の狼の落とし子でもあるリコは。
リコは、なにをどこへ運ぶのだろう。
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