星読みのアトリと狼の娘-3
冬の草原は、全てを凍てつかせる風が死の匂いを運んでいる。大地は全ての音を吸い込んで白く染まり、空はだいたいにおいてどんよりと曇って、昼間でも薄暗い。たまさかよく晴れた日はいつも強風で、氷よりも冷たい風は水も肉も革もすべて凍らせてしまう。太陽がどんなに熱を投げかけても凍てついた氷は溶けず、獣たちは、春に生まれる仔を身ごもった雌を群れの中心に迎え入れて身を寄せ合う。強い雄が周りを囲んで守っているが、弱腰のものや老体が、一匹、また一匹と群れからこぼれ落ちていく。
雪原に置いていかれた獣はよく目立つ。雪に溶けるよう白い冬毛になった狼やユキヒョウ、空からの襲撃者である大鷲が容赦なくこぼれ落ちた獣に襲いかかり、命がつながれていく。あたたかい血が流れ、大地は少しだけ溶ける。そうして奥深いところで眠っていた草原の命に届き、芽吹きのときに備え熱を、全てを溶かす力をたくわえていく。
リコの小さな両手が頬に触れた。手首には腕輪がきらりと光っている。イリスからもらったものだ。子供の体温はアトリのそれよりいくらか高く、アトリはそのあたたかさで凍りついた肌が少し溶けるような気がした。
「アトリの目の色してる」
「なにが」
「空も、氷も」
ああ、とアトリは頷いて、リコの手首を掴むと凍り付いた鍋に当てた。
「やだー、つめたい!」
リコは悲鳴をあげてアトリから逃れようとしたができず、けらけら笑いながら尻尾を振った。粉のようにさらさらした雪が舞い上がって、それを吸い込んでしまったアトリはむせてリコの手を離した。リコはますます笑って尻尾を振り続け、肺が痛んでやめろとも言えないアトリはリコを抱きかかえ地面に倒れ込んだ。そのまま空を仰ぐと、なるほど高く澄んだ空は己の瞳と似ていた。
リコとアトリはふたりぶんの荷物をコゲに載せ、雪原を西へ向かっていた。リコの耳を頼りに、アトリは天候を読み厳冬期でも危なげなく旅ができていた。
冬は街で過ごそうと考えていたのに、結局こうなったのにはわけがあった。
◇
街の顔役の家に泊まり、なんとか女子供を預けること、その対価として差し出す羊の折り合いがついたらしいバートルが挨拶に来たのは、翌々日のことだった。馬を借り、これから家族の元へ戻るのだと、挨拶と協力要請に来たのだ。
「アトリ殿のおかげでなんとか話をつけることができた。そのうえ更にお願いをするのは気が引けるのだが、どうか、家族をこちらへ連れてくる時に協力してもらえないだろうか」
「協力? おれには馬一頭しかいないから、大して協力はできないと思うけど」
そういうことではなく、とバートルは静かに首を振った。
「女子供を連れて移動してくる際に、また先日のようなことがあっては今度こそうちの家族はおしまいです。星読みのアトリ殿に、天候を見て良い日を選んでもらいたい」
「ああ、そういうことなら」
必然的に、アトリはバートルとふたりで彼の宿営地を尋ね、数日滞在して天候が安定している時を選んだ。その中で、アトリはバートルから草原の近況を聞いた。
「族長殿と連絡が取れないんです。冬場はなにかと孤立しがちではありますが、それでも、隣の家族へ伝えていけばいつかは返事が来ていたものの、今年に至ってはさっぱりで」
街へ一時避難をすることを族長に伝えておきたかったのですが、とバートルは続けた。なるほどそれは道理だろう。同時に、去年の夏世話になった家族を思い出す。
ホウエンは、草原の北西に生きる一族の長である。彼らが水不足に陥った昨年の夏、アトリは助けを求められ首を突っ込み、手ひどく失敗した思い出があった。厳格だがアトリのような若輩者を受け入れ、礼儀正しく接してくれる人だった。初対面からアトリは好感を持っていたが、それもリコの姿を知られるまでだった。最終的にはリコが雨を呼んだと感謝してたくさん礼をくれたが、リコのことを始祖の狼として敬い祀りあげるので、アトリは早々にそこを離れた。ものすごく居心地が悪かったのだ。
バートルが最初に名乗ったときも思い出したがが、吹雪の中で深く考える余裕はなかった。バートルは誠実にあの時の口約束を守り、リコの姿のことを誰にも話していない。一族の者から夏の出来事――狼の娘に救われたことも、聞いていないようだった。
「アトリ殿のあの娘御は、いったいどういう出自なのだろうか」
「さあ……わからないんです、本当に。狼の落とし子かもしれないけど、おれは、リコを普通の娘だと思っています」
そうですか、と答えたものの、己を吹雪から見つけ出してくれたリコに、バートルが敬意を持っていることは感じ取れた。
バートルの家族たちはアトリの姿を見て不審そうな顔をしたが、バートルが経緯を説明すると納得して感謝してくれた。痩せた羊とバートルの妻や老母、幼い子供たちを連れて再び街に戻ったときは、前のように吹雪くこともなく、至って安定した旅路だった。
「アトリ!!」
だから、イリスが突進してきた時はおどろいた。アトリは既にコゲからも降りていて、本当に勢いよくぶつかってきたイリスを抱き止めると、彼女は必死の形相だった。
「ごめん、リコがいなくなっちゃった。探してるんだけど、見つからなくて。街の外に出て行ったのかも」
「――いつから?」
「朝ごはんのあと、しばらくはその辺りで遊んでたんだけど――……」
ずっと探しているのだろう。イリスは簡易的な防寒具しか身につけていなかったが、顔は真っ赤で息も弾んでいた。行方不明が数日続いているのではないことにとりあえず安堵して、アトリはイリスを安心させるように言い聞かせた。
「子供の足だ、そう遠くまでは行けない。おれが探してくるから、おまえは家で待ってろ」
「でも――だって――私が――」
首を振って訴えるが、走り続けていたところ急に動きを止めたからか、呼吸が整わず声も途切れ途切れである。横目でバートルを見ると、あとは大丈夫と頷くのでイリスを家まで引っ張って行った。人目がなくなるとイリスはとうとうぽろぽろ泣き出した。大丈夫だよ、とアトリはなるべく優しくさとした。
「見つけてくるから、家をあたたかくして待っててくれ」
「ごめん、私、見てたのに――……」
「リコは突拍子もないとこあるから、仕方ない」
イリスはそれでも自分を許せないように首を振ったが、深呼吸ひとつして落ち着きを取り戻し、ゆっくりアトリから離れた。
「ごめん、探しに行って。お願いね」
ああ、と頷きアトリはもう一度コゲにまたがった。イリスの手前落ち着いていたが、内心ではアトリも不安だった。またいつかのように、リコを呼ぶ声に答えてしまったのだろうか、と。
丘の斜面に見覚えのある帽子の色を見つけて心底ほっとしたし、急いで馬の首をそちらに向けて駆けても、ちっとも距離が縮まった気がしなかった。雪原は普段以上に距離が測りにくい。
「リコ!!」
大声で呼んで小さな後ろ姿が止まってまた安堵の息をつき、ようやっと手の届くところまで来て馬の上に抱き上げると、深い深いため息が出た。
「……おかえり、アトリ」
「おまえもおかえり、リコ」
リコはしばらくきょとんとした顔でアトリとコゲ、周囲を見比べていた。どうしてこうなったのかわかっていない顔だった。わからないならそのままでもいいと思ったが、やがて思い出して状況を理解したのかイリスのようにぽろぽろと泣き出し、アトリはほとほと困り果てた。
「ごめんね、アトリ」
「おれはいいよ。イリスが心配してたから、帰ったら謝ろう」
「ごめんなさい、でも、声がしたの」
アトリの胸板にぎゅっと抱きついて、リコは必死だった。この細い体で、三角の立派な耳で、尻尾で、小さな心で、なにをどう受け止め、考えているのか想像してアトリは冷気のせいではなく胸が痛んだ。アトリ自身にも覚えがあることだった。自分が何者で、どこへ行き、どこへ帰ったらいいのかわからなくなることが、幼い頃よくあった。
「どうしても、行きたくなったの。ごめんねアトリ」
「大丈夫だ、無事で良かったよ」
ゆっくりと馬の首を巡らせて街に帰る間も、結局戸口の外でふたりの帰りを待ち続けていたイリスに飛びついたときも、リコは何度も、ごめんねと謝っていた。バートルにリコが見つかったことを話し、お互いに礼を言って別れてから家に戻り普段通り食事を取って、リコが眠ってしまってから、アトリはイリスにうちあけた。
「リコが気になるものを、おれも一緒に探してやろうと思う。そうでないと、リコがかわいそうだ」
「そう……ね。またこんなことがあっても怖いしね。ごめんね、本当に」
「イリスのせいじゃないよ」
アトリが言い出すのをわかっていたように視線を合わせず、イリスはため息をついた。寝る前なので眼鏡は外していて、沈んだ瞳がよく見えた。
「リコがあれだけ言うんだ。狼に呼ばれているのかもしれない。バートルさんみたいに助けを求めている人や獣がいるのかもしれない。それはたぶん、今行かなきゃわからない」
「行って、どうするの。呼ばれてどこに連れて行かれるかもわからないのに」
「おれにもわからないけど……求められてどこへでも行くのはおれも同じだ。気持ちはわかるし、たぶんリコは、戻ってきてくれるさ」
「……自信があるのね、アトリは」
あえてあっけらかんと言うと、イリスはまだ割り切れない様子でひざかけの毛織物を指先でいじった。アトリは、旅にイリスを連れて行くつもりはなかった。冬場の旅は危険が多いし、人が増えれば荷物も増える。イリスは街に残していた方が安心だった。
「リコは、おまえのところにも帰りたいと思ってくれてるよ」
それでそう続けると、とうとうこらえきれなかった様子でうつむいた。アトリは苦笑して小さな頭を抱き寄せる。柔らかな髪が鼻先に当たって、少し湿った香りがした。
「…………なんか、ずるい。昔は、アトリの方が泣き虫だったのに」
腕の中ですすり上げながら、イリスは呟いた。いつの話だよ、とアトリが苦言を呈すと、少し自分を取り戻した様子で、ふふっと笑った。
「わかった。待ってる。必ずふたりで、帰ってきてね」
「ああ、必ず」
そう答えて口づけると、イリスは涙に濡れた頬でにっこりと笑った。
◇
その日はよく晴れていたので、日が落ちてからアトリは星を見た。冬は空気が澄んでいて、夏場は見えづらい小さな星々までよく観察できる。星明かりが雪原に反射して、大地まで星空のようにきらきらと輝いて見えた。
「アトリ、まだ見てるの?」
分厚いフェルトの天幕から、リコがひょっこり顔だけ出した。もう少しな、と返すとリコはもぞもぞ出てきて、膝を折って座るアトリの前におさまった。
「リコ、知ってるよ。いまは、いちばん明るい星が見えるんでしょ」
「今はまだ見えないよ。一番明るい星はもっと遅くにのぼってくる。リコも、星読みの里の落ちこぼれだな。おれと一緒だ」
からかうように言うと、リコはいっしょだ! とうれしそうに笑った。
地平線に近いところを巡る星はわずかな期間しか見ることができない。その見え方で季節の移ろいを知り、次の春がどのような恵みをもたらすか占い、生き方を探る。
養母は、リコには星読みのことを教えていなかった。リコは星読みにはならないと分かっていたからだ。だからリコは、たまたま聞いた言葉だけを一生懸命覚えていたのだろう。
「リコは、あの星を知ってるか。空にあるたくさんの星の中で、ひとつだけ動かない星だ」
それでアトリは、リコに星を教えてやりたくなった。星読みの里で大事に育てられながらもみそっかすだったこの小さな娘に、自分が持つものを分け与えたくなったのだ。リコは、どれ? と首をかしげてアトリが伸ばした指の先を追った。
「明るい星じゃない。ひしゃくの星の先をたどって――それが、北から動かない極の星だ。北を知りたいときはあれを探せばいい」
「うごかないの、どうして?」
「あれを軸にして空は回ってるんだよ」
ふうん、とリコは答えてパタパタ足と尻尾を動かした。リコの声を聞き進路を決めているが、どうもこの旅の終着点は、北の方角にありそうだった。
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