星読みのアトリと狼の娘-2
草原の東西を結ぶ街道には多くの枝分かれがあって、その多くは道なき道である。点在する集落も、街と呼べるほど大きなものは少ない。しかし冬季は多くの人間がなるべく身を寄せ合って生きようとして、普段小さな集落に定住する者も、少しでも多くの人間や家畜が集まる場所へ向かう。それで、西から北へ向かう街道沿いの小さな街は、夏場より多くの人が集まり、住居の貸し借りをしたり、幕屋を張ったりして過ごしていた。
ここだ、と言ってアトリが入っていったのは小ぶりの幕屋だった。遊牧民の家族が使うものとしては小さいが、旅人の簡易的な天幕よりは大きい。馬だって、一頭くらいなら中に入れることができた。
「おかえりなさい、どうだったの」
中に入ると暖かい空気が満ちていて、柔らかな女性の声に迎えられた。心配そうな表情で駆けよってきた女性は、すぐにバートルに気付いて目を丸くした。少し癖のある黒髪を一つに結えた彼女は、黒縁の眼鏡をかけていた。
「人間を拾ってきたの」
「人間だったんだよ、たぶん。リコが聞いた死にかけの声は」
あらあら、と答え彼女はバートルの上着を剥ぎ取り、靴を脱がせると絨毯の上に招いた。暖炉の火から少し離れたところで指を揉んで血を巡らせているうちに、お茶の準備を始めて良い香りが漂ってきた。その間に、アトリは上着を脱いでコゲの雪を払い馬具を外してやり、リコはあっという間に上着も手袋も帽子も脱ぎ捨てて、女性の元に駆けより背中にぴったりはりついた。
「リコも、イリスのお茶のみたい」
「みんなの分淹れるよ、大丈夫」
外の吹雪はアトリが言ったようにおさまっていたが、それでもまだ風が強い厳しい寒さの日だった。雪洞からここまでは拍子抜けするほど近かったが、それでも雪を漕いで進んでくるのは大変だった。緊張が続いていたが、それがここへ来て、一気に弛緩した。
「お茶飲んだら、街の顔役のところに案内するよ。早いほうがいいだろう」
「顔役のところ? どういうこと?」
馬の世話を終えて絨毯の上にあがってきたアトリが、無造作に頭の布を取りながら言った。イリスと呼ばれた女性が手を止めずに彼を振り向き、身ぶりだけで何かを示した。アトリはそれに応じて、隅の荷物から小さな袋を取り出してイリスに放り投げた。
「バートルさんは、ホウエン殿の縁続きなんだと。しばらく女子供を街に預けさせて欲しいと頼みに来たらしい」
「そうだったんですか。それで昨日の吹雪にあったんじゃ大変でしたね」
彼らはどうやら、族長と面識があるらしい。こちらを見て微笑むので、バートルははい、と重く頷いた。
「本当に死にかけました。アトリ殿とリコに見つけてもらえなければあのまま雪の下に埋もれていたでしょう。感謝しかありません」
「いや、よして下さい。こっちはただ、違うものを探していたら見つけただけなんだから」
アトリは謙遜しながら、今度は器を出してイリスに手渡した。イリスがそれにお茶をつぎリコに渡すと、少女は両手で大事にそれを支えてバートルのところへ運んできた。干し葡萄を入れた、甘くあたたかいお茶だった。
「どうぞ!」
「ありがとう。いただきます」
「イリスのお茶はおいしいんだよ」
「リコ、聞こえてるぞ」
そっと耳打ちするように教えてくれたが、広くはない幕屋でアトリには筒抜けだった。リコはいたずらっぽく笑って耳と尻尾を揺らし、ごめんなさい、とアトリに駆け寄って足に抱きつく。和やかな光景に、頬が緩んだ。
いかにも息があった様子のふたりは夫婦だろうが、リコがその娘ということはないだろう。けれどそう言われても違和感はないくらい、あるいは耳と尻尾さえ見なければ娘だと疑いを挟む余地はないほど、よく馴染んでいる。
雪洞からここまでの道中でバートルの事情は話したが、彼らの正体については結局分からずじまいだった。
「それにしても、遊牧民の方が街にそんなお願いをするなんて、そんなに厳しい状況なんですか」
湯気で眼鏡を曇らせたまま、イリスがバートルの方を振り返った。片手の器をアトリに渡し、もう一つには自分で口をつけると、ますます眼鏡が白くなって表情は読めなかった。
「厳しい状況というか……冬だからというだけでなく、近頃は宿営地のあたりが落ち着かなくて」
遊牧民と街の住人とは、お互いある程度の距離をおきながら付き合っている。遊牧民がもたらす家畜やその恵みがなければ街は維持できないが、遊牧民もまた、自分たちだけでは得られないものを街から買っていて、その間にいるのが商人である。遊牧には広い牧草地が必要で、時にそれは街の縄張りと交差することもあった。だからこそ、お互いに領分を侵しすぎることがないように、慎重な付き合いを続けていたのである。イリスが街の人間なら、疑問に思うのも当然だった。
「落ち着かない、とは? 交易が滞ってるんですか」
「いえ、狼です」
「――狼」
イリスが繰り返して、会話が途切れた。その言葉はどうしても、無邪気な少女の姿と直結した。道中でアトリにこれを話したときも、この単語ひとつでぴりりと緊張が走った。
「狼の群れに家畜が襲われることがたびたびあって、蓄えも減るばかりで――このままでは被害が広がりかねない状況で、女子供は逃がそうということになったんです」
「そう……だったんですね」
静かに答えて、イリスはひとつ息をついた。リコはその隣でぺたりと座り込み、目をぱちくりとしてこちらを見ている。
「そう、それなら私の出る幕はなさそうね。アトリ、よろしく!」
いきなり元気よく言って隣に腰掛けたアトリの背をばしんと叩く。想定外だったらしいアトリはお茶をこぼしそうになって危うく器を持ち直し、じろりとイリスを見下ろした。
「おまえなあ、なんて言い草だよ」
「私は自分にできることがないか探してるだけ。私はあんたに付き合って、この秋の儲けを棒に振ったのよ。アトリがちゃんと養ってよね」
それは、まあ、とアトリが返事を濁す。口ぶりからして、彼女も普通の街の女ではないらしい。ますます、彼らの正体が分からなくなった。
そうこうしているうちにお茶を飲み終わり、バートルとアトリは再び外に出る準備を始めた。それを手伝いながら、イリスが奥の荷物から小包を取り出した。
「あのね、この前顔役のところに、北の商人さんが来てたでしょう。もしまだいたら、これと干し肉や何かを交換してもらってきて」
「まだいるよ。あの人が大げさな話をするせいで、おれはあの家に顔を出しにくくなった」
「そうなの?」
イリスはおかしそうに笑った。アトリは彼女から帽子を受け取って被る。先ほどまでしていたような巻布とは違って簡易的な防寒具だった。
「去年、あの街でカームとおれがやったことを大げさに言いふらすんだよ。街が救われたとかなんとか。話しただろ? 銃を預かって――」
「ああ、そのこと」
理解した様子で、イリスは足元をうろちょろしていたリコを捕まえて顔を見合わせ、また笑った。話の内容はわからなかったが、とにかく疑問だけが増えて、バートルは上着の前を止めながら改めて尋ねた。
「アトリ殿、本当に……いったい、きみたちは何者なんだ?」
アトリは少し困ったように視線をさまよわせた。リコの顔を見て、イリスと目を合わせ、もう一度リコと視線を交わす。金の瞳と青い瞳が、物言わずとも意思を確かめ合うように交差した。それからアトリは小さく息をついて顔を上げた。帽子の下から金髪がこぼれて見える。
「星読みです。おれとリコは北の星読みの里で育てられた拾われっ子で――ふたりであちこち旅をしています」
◇
日がすっかり沈んでしまって、リコとイリスが簡単な食事を終えてもう寝ようとしていたころ、ようやくアトリはひとりで帰ってきた。
「バートルさんは?」
「向こうに泊めてもらうことになった」
「うまく話はまとまったの?」
「差し出す羊の頭数でまだ揉めてる」
アトリが顔役に事情を話し、お互いに自己紹介してもてなしが始まり、腹を割って話し始めるまでだいぶかかった。その間、やはり顔役の家に滞在していた北の商人につかまり勝手にアトリの武勇伝が吹聴され、それを受けたバートルがいかにアトリに助けられたかを語り出したためなかなかその場から離れられなかった。
「もらってきたけど、食うか」
イリスに頼まれた食料のほか、もてなし料理をいくつか包んでもらっていた。イリスはいらないと首を振ったが、もう寝床に入っていたリコがもぞもぞと起き出してきた。
「おなかすいた、食べたい」
「……まあ、さっきのご飯は適当だったからね」
ふたりぶんだったから面倒で、と言って、イリスは包みからすぐに食べられそうな柔らかい蒸しパンを出して割ってリコに渡した。中身は細かく切った肉を甘辛く煮たものだった。
「おいし〜い」
その間にアトリは上着も服も脱いで薄着になって、水を一杯だけ飲んでそのまま寝床に潜り込んだ。昨晩は雪洞で過ごし、朝からバートルとリコを乗せたコゲを引いて自分は歩いて雪を漕ぎ帰ってきて、くたくたに疲れていたのだ。やがて食べ終わったリコとイリスも戻ってきて、ぐったりしたアトリの顔を見てふたりとも笑った。
「アトリ、つかれてる?」
「疲れてる。へとへと」
アトリの答えにまた笑って、リコはアトリの隣に入ると尻尾をアトリに沿わせた。暖炉の炎を受けてじわじわとあたたかく、外気で冷え切った身にはありがたい。しばらくその熱を享受していると、疲労困憊なのにさまざまなことが頭に浮かんできた。
「……バートルさんを見つけたのも、狼を追い払ったのもリコなのに、ぜんぶおれがしたことになっちまったな」
「見つけたのはリコでも、助けて連れ帰ったのはアトリじゃない。ふたりの手柄でしょ」
「リコ、アトリのしたことになってもいいよ。気にしないよ」
あっけなく答えたふたりに少し笑って、アトリは、以前もリコがそう言っていたことを思い出した。そのときも、リコは狼の声を聞き、狼に呼びかけて街から遠ざけたのだった。
「リコ、声はまだ聞こえるか」
「うーん……わかんない」
もう少し南下して冬を越そうとしていたところ、リコが「声が聞こえる」と言うので三人はこの街にとどまることにした。あちこち探して草原に出たり、街で簡単な頼まれごとをしたりして過ごしているが、狼の群れに出会うでもなく、街で事件が起こることもなかった。冬は想定していたとおり厳寒の日が長く続き雪も多かった。乾燥している草原では、寒気は強いが例年雪はそう多くない。それが、今年はもう何度も吹雪があった。
そうか、とアトリは答えて肘枕で横を向いた。リコはまだ眠くはなさそうな目でアトリを見返している。
リコが聞いた声は気のせいだったのかもしれない。けれどリコは繰り返し聞こえると言う。執着が薄く、なんでもいいよと言うリコが繰り返すことが気になっていた。昨日も「気になる」と繰り返すので、天気が崩れるのが分かっていたがアトリとリコは草原に出た。
果たしてこれが吉兆なのか、凶兆なのか分からない。雲が重く立ちこめ星が見える日も少ない。分かるのは、酷暑で痩せた家畜たちが極寒に耐えきれず死んでいくこと。そして野生動物の中でもおそらくそれは同じで、人も動物たちも皆乏しい食料で耐え忍んでいるという事実だけだった。
アトリたちもまた、食料は切り詰めていたし保存食が多かった。夜は早くに休んで燃料も節約している。イリスが商っている煙草や針といった商品ももう残り少ない。本来なら秋に西や北でそれを商って、今は南で冬を越しながら冬の商品を交易している時期なのだ。
「明日も、おなじのたべていい?」
久しぶりに食べた肉饅が相当うれしかったのだろう、くふふと笑ってリコは両隣のアトリとイリスを順に見た。ランプの火を消そうとしていたイリスが笑って、いいよと答える。リコが執着するものが見つかったと思って、アトリもほほえんだ。
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