第七話 星読みのアトリと狼の娘
星読みのアトリと狼の娘-1
天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。
山の頂より清水ありき。清水は命を生み、命は山に育まれる。
清水よりはじめに生まれし狼ありき。狼は強き脚で山を駆け下り、草原に恵みをもたらす。
草原の北、山より出でし狼の足は、一昼夜で草原の果てまでたどり着く。
南の果てで、狼は砂漠に出会うだろう。砂漠の先に海ありき。塩の道そこにあり。
東の果てで、狼は大河に出会うだろう。大河の先に畑ありき。麦の道そこにあり。
西の果てで、狼は湖に出会うだろう。湖の先に人の街ありき。鉄の道そこにあり。
天に通ず強き獣たる狼よ。草原に命もたらし、また命を奪いゆく狼よ。
われらの命たる家畜を食らうのならば、どうかわれらの嘆き願い喜びを母なる山に届けたまえ。
天より遠く離れしわれら人の子は、星の動きに天の声を聞くことしかできない。
人の弱さを哀れむのなら、天の恵み、清水、命を草原にもたらしたまえ。
◇
上下左右、どこを向いても真っ白な世界に閉じ込められていた。
吹雪の強さに足が止まってからしばらく経つ。まだしも伸ばした手の先が見えていたうちに、少しでも先へ進んでいた方が良かったのだろうか。いやでも、どちらへ向かえばいいのかも分からないのに闇雲に進んでも詮ないだけだ。雪を掘ってしのごうかと考えたが、掘っても掘っても降り積もる方が早い。もはや手は凍えて動かなくなっており、冷気に肺が痛んで呼吸をするのもままならない。雪を掘ろうとさまよったとき、頼みの馬ともはぐれてしまった。
これで死ぬのか、と考えた。
宿営地を出た時は晴天だった。一番近くの集落も街道もそう遠くない。日が高いうちにたどり着くはずだった。あっという間に雲が重く立ちこめ、雪が降り始め吹雪となって、こんなことになってしまった。
助けを求めて、覚悟を持って出発した。自分ひとりここで凍り付くのは、まだ仕方ない。けれど現状を伝えることができず、誰にも救いを求められず、宿営地に残した妻や子供たち、家族みんながあのまま震え、家畜や人が減っていく中春を待つしかないのかと思うと、悔しくてたまらない。
動け、進め、頼りない無力なこの手足よ。
もう一度思いを奮い立たせて、半ば雪に埋まった足を引き抜いたときだった。
目の前の白い世界に、灰色の三角が二つ浮かんだ。それはぴょこぴょこと踊るように動き、雪煙の中に赤い色も見え隠れする。
狼だ。なんの音も獣の叫びも聞こえなかったが、血がしたたる獲物をくわえた、飢えた狼だ。
ぞっとしたが、逃げられるような体力は残っていない。今度こそ本当に、もうおしまいだと思ったとき――
「あ、よかった。人だった」
あどけない声が耳に届いた。吹雪のど真ん中で聞くはずもない、まだ幼い少女の声だった。
「アトリー!! いたよ、ここだよー!!」
今度は大きな声で叫ぶ。ぶんぶんと手を振る小さな身体は白っぽい上着で着ぶくれていて、袖と裾から赤い色がのぞいていた。よくよく目をこらせば、本当にまだ小さな、風に吹き飛ばされてしまいそうな少女である。ぐるぐる巻いた襟巻きの下から、緩く編んだ三つ編みがぱたぱたと風に遊ばれている。赤くなった鼻が痛々しいが、大きな瞳は不思議な金色をしていて、生き生きと輝いていた。
「だいじょうぶ? 生きてる?」
「生きてる……、けど、きみは……」
「アトリー!! 生きてるよー!!」
少女はもう一度振り返り大きな声を出した。ようやく少女の全貌を確認する余裕ができて、ごくりとつばを飲む。帽子を被っていない寒そうな小さな頭に、灰色の三角がピンと立っていた。狼の耳だ。
「……っリコ、おまえ……っ、ひとりで先に行くなって……」
吹雪の中から、新たな人影が現れた。真っ白に染められた世界の中で、少女と同じく唐突に現れたように感じる。白い帳を開くように出てきた姿はたいそう大きくて、更におどろく。後ろに馬を引いているが、濃紺の上着に頭も顔も雪よけの布でぐるぐる覆っていてほとんど顔は分からない。彼はこちらを見ると、大きな身体をかがめてあちこちを確認するように触った。
「大丈夫か。しゃべれるか」
「あ、ああ……なんとか」
「よかった。雪がしのげるところに連れて行くから、もう少しがんばれ」
そう言ってほんの少し微笑んだ。わずかに見える瞳が空の色をしていることに気付く。ひょっとして助かったのだろうか。この吹雪の中、少女と二人連れで、見ず知らずの己を助けようとしているのだろうか。
「ひとりか?」
「馬がいたけど……はぐれた」
そうか、と青年は少女を見下ろした。くりくりした瞳でやりとりを見ていた少女はしかし、青年に見つめられまじめな表情になった。
「リコ、わかるか?」
こくりと頷き、少女は耳をそばだてる。手袋をした小さな手を頭上に――耳の横に持ち上げて、目を閉じてじっと、吹雪の中の音を聞くように集中していたが――
「……ごめん、わかんない。近くにはいないみたい」
「そうか……」
青年が残念そうにこちらを振り返る。自分だけではなく馬までも助けようとしてくれたのだと分かって、首を横に振った。
「いい、仕方ない。強い馬だ。運があればまた会える」
そうか、と青年は繰り返し、こちらの背を叩くと片手で馬の手綱を引いた。引いていたのは、栗毛の立派な体格の馬だった。間近で感じる息が熱風のように感じる。青年は大きな身体でこちらを持ち上げ、馬の背に押し上げてくれた。
「リコも乗れ、ひとりで先に行くな」
「だいじょうぶだよ。リコ、アトリのばしょわかるもん」
「おまえが乗った方が早く戻れるんだよ。頭もちゃんとかぶれ、風邪引くぞ」
「だいじょうぶだよ。リコ、さむいのへいきだもん」
猛吹雪の中とは思えないようなのんきな会話をしながら、少女は青年に抱き上げられ、馬の背に――己の前におさまった。ちぇっ、と不満そうに帽子を被ると耳が見えなくなり――目の前に、ふさふさの尻尾があらわれて鼻先をくすぐった。
「あ、ごめんなさい」
馬にまたがると、必然的に上着の裾がまくり上げられる。鮮やかな赤色のスカートから生えているようにも見える、それは立派な狼の尻尾だった。
◇
「いきなり温めると指が落ちるから、ゆっくり温めるんだぞ」
アトリとリコ、と名乗ったふたりに連れられて、彼らの掘った雪洞に逃れ、本当に助かったのだと長い息をついた。この際指の一本や二本落ちても構わなかったが、少女はわかったー、と元気に答え、自分の手でゆっくりと指先から体温をわけてくれた。じんわりとしたぬくもりに涙が出そうだった。その間に青年は小さな燃料に火をつけてこちらの服を脱がしていった。あっという間に服を剥かれて毛皮を被せられ、濡れた服を絞って広げて、ようやく彼は腰を下ろした。ふうっと息を吐きながら頭と顔に巻いた布を取る。その下から鮮やかな金髪が現れて、もう何度目か分からないおどろきに息をのんだ。彼は気にしない様子で、布をくるくるとまとめながらこちらを横目で見た。
「この天候で、ひとりで、どこへ行くところだったんだ?」
「街……街道沿いの街まで行こうと思っていたんだ。出てきたときはまだ晴れていたんだけど……」
「それなら、おれたちが来たところだ。そう遠くはないんだが、明日には雪もやむから、その後帰ろう」
馬を失った身にはありがたい言葉である。改めて、深々と頭を下げた。
「本当にありがとう。命を救ってもらって、感謝の言葉もありません。おれは西のホウエン一族、バヤルの息子、バートル。この恩は必ず返します」
「いいよ。死にかけてるのを助けるのは当然のことだろう」
笑いながらあっさり返して、青年は小さな鍋に雪を溶かして沸かし始めた。小さな雪洞はそれだけで少し温度と湿度が上がる。少女が、ほどよく温まった石を布で包んで渡してくれた。ありがとうと礼を言うと、リコと呼ばれた少女はうれしそうに笑った。既に少女は上着を脱いで赤い厚手の衣装だけになっており、帽子も外している。動きに合わせて耳と尻尾も元気に動き、狭い空間で存在を主張した。
「その……きみたち二人は、いったいどうして、あんなところにいたんだ? 街から来たと言ったが――」
宿営地に近い街なので住人や商人とは交流があるが、こんな二人連れなど見たことがない。助けられたこと、親切を疑うわけではないが、不思議だった。
青年――アトリは、固まった蜜を鍋のお湯に溶かしながら、バートルとリコとを横目で順番に見た。リコの尻尾がぱたぱた踊り、炎も頼りなく揺れた。
「リコが、気になる声が聞こえると言うから声の主を探してたんだ。狼の群れかと思っていたが、あんただったんだな、きっと」
答えになっているのかよく分からない言葉だったが、狼の群れ、という単語は耳に残った。思わず少女の姿をまじまじ見ると、居心地悪そうにもじもじと身体をくねらせた。炎の揺らぎを受けて、微苦笑するアトリの金髪も鈍く光った。横顔をよく見れば、彼はバートルよりもだいぶ若い青年だった。大柄で落ち着いた態度のため、もう少し年上のように感じていた。
「――あんたを探して、耳を出したんだ。恩を感じてくれるなら、これを言いふらさないでいてくれると、助かる」
「それは……もちろん。でも、一体――」
一体きみたちは何者なんだ、と改めて問おうとして、目の前にお湯を満たした器が差し出された。反射的に受け取ると、じわじわあたたかい。飲め、と促されて少しずつすすると、お湯の熱さ、蜜の甘みが広がって、身体の内側から生き返るような気がした。
「…………うまい」
「それを飲んで、とりあえず休んだらいい。天気が荒れるのは分かっていたが、思っていたより激しい嵐になった。明日にはやむと読んでいたが、もしかしたら長引くかもしれない。体力を回復しておいた方がいい」
そう言って、自分たちの分の湯を沸かし始める。確かに、彼の言うとおりである。身体の内側が温まったせいか、一気に眠気が襲ってきた。さきほどまでも眠気に襲われては、寝たら死ぬと必死に抵抗していたが、風雪から守られ、火があって、毛皮に包まれ――何より自分の他にも人がいるこの状況なら、少し眠ってもいいだろう。
ありがとう、と言ったか言わなかったか分からない。器を落とす前にアトリがそれを取っていったことだけは覚えている。あっという間に、意識は途切れた。
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