挿話

アトリとイリス:寒い朝にいちばんあたたかいもの

 その日は羊を一頭潰した。アトリが星読みとしての仕事を上々に終えた祝いであった。振る舞いは里の皆に共有され、ごちそうである石焼きの肉をたらふく食べたリコは他の子どもたちと一緒になって早々に眠ってしまった。

 里の面々と解散してから、アトリはトゥーラの家で、イリスやカームと一緒に酒を飲み直していた。大量の乳を蒸留して作るそれは、夏に飲む馬乳酒とはちがってかなり強く、味はまろやかで、もてなしや祝いの際に振る舞われる最上級の物とされている。数口飲めばすぐに身体が温まった。

「上出来だな。うまい」

「そうだろう。今年の夏は厳しかったから、乳は濃いし馬も強い」

 厳しい自然に淘汰されるものもあるが、それを乗り越えて次の季節に進み強さを身に付けるものもある。それは獣も人も同じだった。

 暖かく燃える炉の前で、四人は絨毯の上に座り膝をつき合わせている。アトリは、カームから回された酒を隣のイリスの杯についだ。こうしてぐるぐると回しながら飲むのが祝いの場でのやり方だった。

「はあ、おいしい」

 イリスがごくりと喉を鳴らして飲み干し、ずれた眼鏡を抑えて直した。そして一番はじめのトゥーラに戻る。養母も機嫌良く笑っており、酒瓶は四人の間であっという間に何周も回った。


「あっ、ごめん」

 何周目だろうか。アトリから酒を受け取ろうとして、イリスが手を滑らせた。危ういところでアトリがそれを受け止めた。ありがとうごめんね、と繰り返し、にっこり笑って酒を受け取ろうと手を出すイリスを見下ろして、アトリは言った。

「…………飲み過ぎじゃないか?」

「なによ、誰のお祝いだと思ってるの。それ飲みほさなきゃ終わらないわよ」

 出した手を握りしめて主張するイリスの顔は、明らかに火照っていた。眼鏡の奥の目はとろりと潤んで、声も言葉もどこか怪しい。そうだそうだ、と横やりを入れる義兄をにらんで、アトリは酒瓶を背中の後ろに回した。

「ちょっと、いじわる。ずるい、飲ませてよ」

「飲み過ぎなんだよ、おまえ」

「飲まないでどうするのよ。別に酔ったって構わないでしょ」

「そうだ、飲ませろー」

「祝いの酒なんだから最後まで飲むもんだろ」

 カームとトゥーラも不満そうである。彼らが酒に強いことはよく知っている。寒い冬、酒を飲んで身体を温めながら星を見ることも多い二人である。イリスとて弱いわけではないが、アトリの背中に隠された酒瓶を取ろうと伸ばす手つきはふわふわと頼りなく、簡単に避けられた。

「もう。いいじゃない、アトリのけち」

 別に飲んで、酔っても構わない。そんな姿だって見てきた。けれども、義兄と養母に見られるのが、どうにも気に入らない。

 そんな心の狭さを自覚して気が抜けたせいだろうか。次に迫ってきたイリスの腕を避けられなかった。


 イリスは背中の酒瓶ではなく、アトリの首に腕を絡めて、酒に濡れた唇をアトリのそれに押し当ててきた。


「…………おっま……、っ……」

 おどろいて、唇を離し、突き放そうとしてもう一度強く抱き寄せられる。頬に当たった眼鏡のふちだけが冷たかった。柔らかい唇も、ほんのり色づいた頬も、首筋に触れるまっすぐな黒髪も熱を孕んで、あちこちを刺激した。

「……はあ、おいし」

「おまえ……、なんつー…………」

 口の中に残る酒の一滴まで舐め取っていったイリスに、脱力して、アトリは酸欠の魚のようにぱくぱくと口を開け閉めした。イリスは口の端にこぼれた唾液をぺろりと舌で舐め、意味深に笑う。

「あ~……そういう感じ? おれら出てくか」

 はっと見れば義兄も養母も身支度を始めている。殺してくれ、と思いながらアトリは彼らに手を伸ばしたが、その手もイリスに押さえられた。

「待ってくれ、行かないで、ふたりとも」

「居たとしてどうしろっつーんだよ」

 絨毯の上、イリスはにじにじと膝を寄せてくる。後ずさってそれから逃げながらも、捉えられた手を振り払うことができない。

「やめろ、襲うな!」

 アトリの必死の訴えに、カームもトゥーラも声をあげて笑った。

「カームのところに泊まるよ。おやすみ」

「それじゃあ、ごゆっくり。リコは朝もこっちで見ておくから」

「おやすみなさ~い」

 邪魔な眼鏡を外しながらイリスが手を振るのを、アトリは止められなかった。アトリの手首を捕まえているのは細い手で、簡単に振り払えるはずだ。冬を前にして、指先がひび割れて荒れているのを見て、アトリは小さくため息をついた。そのアトリに覆い被さるようにして、イリスは金の頭に唇を落とした。それがすべるようにこめかみに落ちてきて、アトリはほとほと困り果てた。

「イリス……イリス、勘弁してくれ」

「どうして? だめ?」

「だめっていうか……ずっとこういうこと、してなかったろ」

 イリスは唇を離してアトリの短い金髪に両手を添えた。イリスが切ってくれた髪だった。あの時はばさばさと無造作に切られたが、今はその一本一本を確かめるように、ゆっくりと細い指を動かした。正直なところ、それだけでアトリはくらくらした。

「おれは、こわい。またおまえを傷つけるんじゃないかって」

 それでもなんとか口に出すと、思っていた以上に素直な本音が出てしまった。視線を合わせられずにうつむくと、逃避を許さず、イリスはアトリを追いかけて目を合わせた。黒い瞳は優しくけぶる。少し首をかしげて、乱れた黒髪が揺れた。彼女が、太くて癖が強い自分の髪を好きではないことを、アトリは知っていた。けれどアトリにとっては、豊かで美しい黒髪だった。

「私、うれしかった。アトリがちゃんとリコと仲直りして、星読みとしてやっていくと決めて、きちんと仕事して、それでここへ帰ってきて。うれしかったの」

 アトリが彼女を傷つけたことを恐れて逃げ出したあとも、イリスはアトリを待っていてくれた。アトリが連れてきたリコをなんのためらいもなく受け入れて、再び一緒にはなれなくても、イリスのために生きられなくても、それでいいと許してくれた。


「アトリ、好きよ。今のほうが、前よりももっと好き。ただそれだけ、それだけよ」


 もう限界だった。アトリは目の前にある彼女の唇をふさいで、貪るようについばんだ。やがてそれを離すとイリスの方が酸欠になっていて、たがが外れたようにけらけら笑いながら、彼女はアトリにもたれかかった。酔いで潤んだ瞳にどうしようもなく心が締め付けられて、アトリは彼女の柔らかい肌に触れながら、かすれ声でささやいた。

「おれも、同じだよ」


 ◇


 一番寒い時期、人は少しでも身を寄せ合って、同じ毛皮にくるまって、体温を分け合って眠る。どんなかけものより、人肌が一番あたたかいのだということを、アトリは久しぶりに思い出した。

 夜明けが近くなってきて、アトリは小さな寝台には余る身体をどうにか丸めて、汗で少しだけ湿った頭に顔を埋めた。そのままふと笑うと、顎の下でイリスがもぞもぞと動いた。

「どうかした?」

「いや……こうしてるとぬくいけど、リコの尻尾も同じくらいぬくかったな、と思って」

 ふたりきりの朝にはいささか野暮な発言だったかもしれないが、大切な女を抱いて、穏やかな朝を迎えて頭に浮かぶのは、同じだけ大切な小さな娘のことだった。気の抜けたアトリの言葉に、イリスは無邪気に笑ってアトリの背を軽く抱いた。

「そうね、真ん中にリコがいたら、もっとあたたかかったかもね」

 当然のような言い方に、アトリは胸がいっぱいになった。苦しいほどに心を満たす、この感情の名前を知っている。これは幸福感だ。愛するものとわかり合って、愛するものを共有して、そして得られる幸福感である。

「おれでいいのか、本当に」

 圧倒的な幸福は、時に不安と隣り合わせになっている。アトリも、一歩間違って踏み出せば全てを失うような気がして怖かった。それでついこぼすと、イリスはアトリの胸に額を押しつけた。

「ばかね、アトリがいいの。私もリコも。本当よ」

 華奢な身体を抱きしめる。ふさふさの尻尾が近くにあればもっともっと幸せだったろう。

 アトリは、自分が無力で、臆病で、弱い男だと知っている。けれど愛するふたりのためならどんなものにも立ち向かえるだろうと思う。

 本当に一番あたたかいものを見つけて、アトリはそれを大事に大事に、胸にしまった。

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