空に輝くもの-6

 よく晴れた夜だった。今晩は月も細く早く地平に沈んでしまった。頭上には降るような秋の星が色とりどりに瞬いている。

 赤く燃える大きな星、小さな点がまとまって輝く光の群れ、しろく存在を主張する、静かな星。

 星の輝きは、天の移り変わりは、ありとあらゆるものを映して生き方を示してくれる。けれどアトリは、星の光から自分の行く先を読み取ったことがない。いくら目をこらしても、星の位置や動きを学んでも、自分がどうするべきかは分からなかった。だから星読みとしては落ちこぼれを自認していた。

 星が全てを教えてくれるのだったら、どんなに生きるのが楽だったろうかと思う。

 今宵一緒に番をするはずのカームはなかなか現れなかった。毛皮をきつく合わせ直していると、後ろから物音がして、アトリは振り返った。

「遅かったな、カー……」

 そういえば、カームにしては音が軽かった。古い星見やぐらを静かに登って、そこにいたのはリコだった。


 金の瞳が星のように瞬く。夜着に上着を一枚ひっかけてきただけの姿はいかにも寒そうで、思わずアトリは毛皮の前を開いてリコを招いた。リコは何も言わずに飛び込んできた。細い手足は冷え切っていたが、ふわふわの尻尾はあたたかかった。

「寒かっただろ」

「走ってきたから、だいじょうぶ」

「夜中だぞ。あぶないだろう」

「よくこうやって、おばあちゃんといっしょに星を見てたの」

 そうか、とアトリは呟いて薄く笑んだ。アトリも昔よく、同じようにトゥーラの後を追いかけてこの場所に来ていた。義兄や里の子供たちともめたあと、一人では抱えきれない思いを胸に落とし込むには、静かで良い場所だった。

「イリスと寝てたんじゃなかったのか」

「そうだよ。でも目がさめて――そしたら、アトリに会いたくなった」

 素直な言い方に胸が詰まる。それであたたかい寝床を抜け出して、冬も間近な寒さの真夜中に、走ってアトリを探しに来てくれたのか。体の前に塩梅よくおさまって、リコは窮屈そうに耳を震わせた。

「…………アトリ、おこってる?」

「なんで。怒ったことなんてない」

「アトリをこまらせたから」

 リコとこうして話すのは久しぶりだった。

 同族の元に走ろうとしたリコを呼び止め、狼に襲われ、それを斬った。リコを抱きしめようとしても弱い力で押し返してきたあの夜のことを思い出して、アトリは返す言葉に詰まった。

 そのうちに、リコは小さな身体を更に小さくちぢこめて、アトリの上着の中で丸くなった。

「ごめんね、アトリ」

「リコがあやまることない。おれが悪かった。大して力もないのに手を出して、リコを巻き込んで、傷つけたのはおれだ」

「でもリコ、あのとき狼のところに行きたかった」

 予想していなかった言葉に、アトリは再度返事に詰まった。リコがアトリを見上げると、星の光は明るく、金の瞳にアトリの青い目が映った。

「アトリを助けたかったのに、あの狼がひとりだったから、リコもいっしよに行きたくなった。でもアトリに呼ばれたらどうしたらいいかわからなくなって――それで、アトリも狼もおこっちゃったでしょ」

 ごめんね、とリコは繰り返す。耳も尻尾も薄い身体も、小刻みに震えていた。寒さのせいだけではないはずだ。いつも細かなことを気にしないで無邪気に笑って、それが人智を超えた始祖の獣のようだと思っていた。けれど今のリコは、どこからどう見てもただの少女だった。心の機微もわからず、自分の感情も言葉にできない、ただの幼い娘だった。

「いいんだ、リコ。それでいいんだ」

 アトリがそう答えながらリコの柔らかな黒髪を撫ぜると、リコは目を細めた。

「あのときおれがリコを呼んだのは、おまえを――リコを愛してるからだ。おれを置いてどこかに行ってほしくなかった。だから勝手に呼び止めた。おまえはそれに答えてくれただけだ。謝ることなんてない」 

 たったひとり、お互いにわかり合える存在だと思っていた。アトリもリコも草原の民ではない。一匹狼同士、それぞれ生きる場所を探して行くのだと思っていた。

 けれど、アトリにとって既にリコはかけがえのないものだった。それを認めると、突拍子もないと思えた言葉も、すんなり出てきた。


 震えるリコを抱きしめると、よく知っている匂いがした。獣混じりで、太陽の光を全身に一杯浴びた、草原の匂いだった。

 アトリの頭に、いくつもの場面が浮かんでは消えていった。はじめてリコに会って、この星見やぐらで羊をかぞえていたときの空の青さ。一緒にコゲに乗って出発したときの土煙。熱っぽい身体でアトリを追いかけてきて、置いてかないでと泣いたこと。小さなリコから出た本物の狼の遠吠え。イリスと親しげに笑い合っているときのなんとも言えない面映ゆさ。なにもかもがちがっても、笑い合える相手がいればそれも悪くないと思えたこと。

 アトリは、自分が生まれたところを知りたくて、イリスを置いてひとりで旅に出た。けれど戻ってきたのは、肌に馴染んだ草原の風が忘れられなかったからだ。赤子の頃から育った大地を、人を、愛していたからだ。

 リコは、その全てを内包していた。


「アトリ、リコといっしょにいたいってこと?」

 アトリの複雑な思いをこの上なく簡潔にあらわして、リコは腕の中からアトリを見上げた。アトリは苦笑して、リコの頭をもう一度ぐちゃぐちゃに撫で回した。

「そうだよ」

 アトリも簡潔に答えると、リコはにっこり笑って上着から飛び出し、アトリの頭に抱きついてきた。勢いに負けて後ろに倒れながら、アトリも笑ってリコを受け止めた。

「アトリ、だいすき!」

 リコが犬猫のように、アトリの金髪に頬をすり寄せて言った。アトリが細い肩を抱きよせると、尻尾が喜んでぱたぱた踊る。おれもだよ、とはさすがに返せず、アトリはリコの頭と背中を軽く叩いた。

 あたたかい塊を胸に、倒れて寝転がったまま空を見上げる。色とりどりの星がアトリとリコを見守っていた。それらの輝きは、この草原のあちこちで、アトリやリコを見守り、励まし、助け、あるいは排除し、時に叱咤激励し、愛してくれた多くの人々に似ていた。

「ああ……こういうことか」

 星は巡る。人も巡る。風も土も水も巡る。ずっと同じものなど何ひとつとてない。天の高いところから星が投げかける言葉の意味を、アトリはようやく理解し始めた。

 顔に近いところでリコがくふふと笑う。そこにも大きな星が二つ、きらきらと輝いていた。


 ◇


 幕屋の中は、暖かい湯気に満ちていて乳臭かった。ホランの――その父親であるボルドの幕屋を尋ねたのは、アトリとトゥーラの二人だけである。ホランはともかく、ボルドは以前からアトリのことをよそ者と見なし信用していない。胡散臭そうな視線を隠そうとせず薄目でじろりと睨まれて、アトリはぺこりと頭を下げた。

「トゥーラ、本当にこれに任せるつもりなのか」

「そうだよ。ホランはアトリと仲が良いし、ちょうどいいだろう」


 先日生まれた子の星を読み解き運命を占って欲しいという依頼を受け、アトリがやりなとトゥーラが言い出したときはおどろいた。ホランもおどろいていたが、次いで、アトリに任せられるのなら、と破顔したので断りづらくなった。

 この前、力不足なのに星読みに手を出して痛い目を見たのは記憶に新しい。自信がないと言ってはみたが、自信なんてあとでついてくるもの、とトゥーラとカームは一笑に付した。イリスも、ほつれてしまったリコの髪を編み直しながら、行ってくれば、と言う。

『そもそも、自分に自信をつけたくて来たんでしょ。ありがたいことじゃない』

『アトリ、おしごとするの? すごい!』

 全てを見透かしているような言い方に、それ以上否と言う理由を見つけられなかった。リコがうれしそうに笑うのも背中を押した。

 それでアトリは久しぶりにひとりきりでコゲに乗り、トゥーラとふたり、ホランの幕屋に案内されたのだった。


「……この前は、リコを看病してくれてありがとうございました。天幕も。あれのおかげで、秋まで無事に過ごすことができました」

 アトリには既に、ボルドへの敵意はなかった。彼が厳しい草原の北端で生きる遊牧民だということはよく分かっている。アトリへの反応も、一族を守ろうという思いのあらわれなのだ。

「……頭を隠すのをやめたのか」

「はい。隠しても仕方のないことだと思ったので」

「そうだな。いくら覆っても、隠し切れてはいなかった」

 ボルドの言葉に、アトリは苦笑した。その通りだと思ったからだ。髪を隠しても、青い瞳や白い肌、大きな身体を隠し切れるわけではなかった。

「その通りです。この姿で、リコと生きていこうと思います」

 いつも変わらない態度のボルドに、なぜかしら清々しい気持ちでアトリは答えた。ボルドは少しおどろいたように、深いしわが刻まれた眉間を持ち上げて目を見開いた。

「アトリ、この子だ。抱いてやってくれるか」

 会話を遮るように、ホランがぐるぐると何重にも布に巻かれた赤ん坊を見せて寄越した。まだ生後ひと月も経っていない赤ん坊は片手で抱けてしまうくらい小さかったが、厳しい夏を越えて産まれてきて、既にふくふくと丸みのある顔をしていた。

「元気そうな子だな。名前は?」

「まだない。星読みの話を聞いてからつけようと思っていた」

 本気かよ、とアトリはホランを見たが、彼は至って真面目な顔をしていた。たしかに、そういう風習もある。その子がどんな星に愛されているか、どんな色に輝くのか。特に星読みの里と親しい彼らの一族では、当たり前のようにそうしてきたのだろう。

 見知らぬ男に抱かれていることに気付いたのだろうか。赤ん坊がむずむず顔をしかめ、あっという間に泣き出した。アトリは慌てて近くにいたホランの妻に赤ん坊を返した。母親の腕で抱かれて揺られ、赤ん坊はすぐに泣き止みすやすや眠り始めた。両親によく似た顔立ちのまだ小さな姉や兄たちが、母の腕を掴んでその寝顔を覗き込んでいる。微笑ましい光景に自然とまなじりが下がった。


 彼ら小さな子どもたちも、ホランも、そして固定観念にとらわれがちなボルドでさえも、あの空に輝く星々のひとつなのだ。星が空を巡るように、草原の民は天高くそびえる山を仰いで、大地を放浪して生きている。

「……未熟な我が身ですが、精いっぱいつとめさせて頂きます。この子が健やかに育ち、春に生まれる元気な家畜の仔たちとともに、夏には草原の草のようにまっすぐ大きく育って次の秋とまたその先を迎えられるよう、また一族に繁栄がもたらされるよう、願いをこめて星を読みます。……どうぞ、よろしくお願いします」

 姿勢を正して、アトリはもう一度深々と頭を下げた。トゥーラも無言でそれにならう。和やかな空気の中笑いあっていた人々も背筋を伸ばした。ボルドも毛皮の帽子を取って深く礼をする。

「よろしくお頼みする。星読み殿」

 そうして、アトリはようやく、この草原に生きる星読みとしての一歩を踏み出した。


 その夜の空は高く高くどこまでも澄んで、天を巡る全ての星が見えるようだった。

 晴れた冷たい空気は、草原に冬をもたらした。ほどなくして、草原は白い雪に覆われ始めた。

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