空に輝くもの-5
ホランが久しぶりに星読みの里を訪ねると、珍しい客がいると里人が教えてくれた。旧友のアトリである。
ホランは草原の北を縄張りに遊牧して暮らす一族の跡取りだ。幼い頃から厳格な父に厳しくしつけられ、兄たちにいいように遊ばれながら育ってきた。冬の宿営地と星読みの里が近かったので、幼い頃からよく出入りしており、同年代のアトリのことはよく知っていた。
そのアトリと久しぶりに会ったのは数ヶ月前、まだ春先だった。狼の娘を連れてホランたち家族に助けを求めてきたのだ。リコと二人旅を始めたばかりでまだ子供連れの旅に慣れず、リコは熱を出していた。
星読みの里にリコという狼の娘がいることは知っていたが、その少女が敵意をむき出しにして父に立ち向かって行ったときは肝が冷えた。始祖の怒りを買ってしまったのかと思ったのだ。あれから盛夏をなんとか乗り切って、山あいにある夏の宿営地から戻ってきたのは最近だった。ホランたち一家は、冬から春にかけてのきびしい時期をここで過ごす。
里長であるトゥーラを探しながら奥へ向かうと、男女が言い争っているところに行き会った。そばには見覚えのある天幕が張られている。あれは確か、旅を続けるアトリとリコに、ホランたち家族が贈ったものだ。
「アトリのばか。今日は私とリコが一緒に寝るから、アトリなんてずっと外で凍えてればいいわ」
威勢のいい言葉を聞くに、言い争いというよりはアトリが一方的になじられているだけのようだ。言い放った女性がくるりときびすを返すと、小柄な背中にひとつ結びの黒髪が怒りをあらわしているようにぱさりと揺れた。気難しい馬の尻尾のようだ、と思っていると、ため息ひとつついたアトリがこちらを向いて目が合った。
「よう、帰ってたんだな、アトリ」
「……おう」
アトリはばつが悪そうに手を挙げた。去った女性とは対照的に短く切った金髪も、力なくうなだれている。たとえ故郷の里であっても、アトリが頭を隠さずにいるのは珍しい。親しげに……敵意は強かったがそう表現してもよいだろう、女性と話していたのも初めて見た。旧友のそんな姿になんだかおかしくなって、ホランはアトリの広い背をぽんと叩いた。
「アトリに、ああいう仲の相手がいるとは知らなかったな。それで帰ってきたのか?」
「そういうわけでもないが……ホランはどうして来たんだ」
面倒くさそうな顔を隠さず答えるアトリに、ホランはますます笑った。
「うちに赤ん坊が生まれたんだ。だから、今度里長殿に星を見に来て欲しいとお願いしに来た」
「へえ、そりゃおめでとう。良かったな」
一転破顔して祝福の握手を求めてくる。素直に応じると、ばあさんならもう少ししたら戻ってくると思う、と言って家に案内してくれた。
里長の家は、遊牧民のそれとはちがってレンガと石を組んで作られていて中に入るとあたたかかった。アトリのものだろうか、隅に無造作に荷物が置いてある。小さな子供用の帽子が一番上にちょこんと乗せてあって笑みを誘った。
「リコはどうしてるんだ。一緒に帰ってきたんだろう?」
「さあ……どこかで遊んでるんじゃないか」
勝手知ったる様子で――元々彼の家でもあったのだから当然だが――湯を沸かして茶を淹れる準備をする背中はどこかさみしげだった。アトリは子どもの頃から、どこかしら孤独を匂わせるさみしげな背中を見せることが多かった。その頃から既にアトリは金髪を隠していた。
「ターバンをしてないのは珍しいな」
「最近、するのやめたんだ」
「……へえ?」
小さな鍋はすぐに沸いて、茶葉を入れてぐるぐる混ぜると、アトリはこちらを振り返って苦笑した。
「みんな、そういう反応するんだよな」
「そりゃそうだろう。アトリといえば頭のターバンだった」
「おれが多少目立ってた方がリコから目をそらせるだろう。だからそうすることにした」
「へえ……」
今度はちがう思いで同じ音を呟いて、ホランはアトリが器に茶を注ぐのを見ていた。三つに分けたうちの一杯は、ここにはいない家主のぶんとして上座に取り置く。ホランにも渡してくれたので、礼を言って受け取った。
「うん、うまい」
「そりゃどうも。リコはいつも、おれの茶はまずいと言うんだ」
小さな椅子を引っ張ってきてホランの前に座り、長い足を窮屈そうに縮こめてぼやく。言葉の割に声は穏やかだったので、ホランは笑った。
「子供ってそういうとこあるよな。無邪気にトゲがある。でも、仲良くやってるようで良かったよ。母上や親父さまも心配していた」
そう言うと、アトリは困ったように首をかしげた。子供の頃から見慣れた顔だが、金髪をさらしているだけでずいぶん印象が変わる。人との間に一本線を引いているような男だったが、距離が近くなったようにすら感じる。そういえば、さっきも女と言い争っていた。ひとりきりで生きていくような顔をしていたやつだったのに、とおかしくなった。
「けんかしたのか。さっきもなんだか、怒られてたな」
「けんかというか……まあ、なんというか……」
歯切れの悪い返事にますます楽しくなって、ホランはぐいとアトリに膝を近づけた。古くからの友人だが、こんなふうに腹を割って話したことは少ない。
「話してみろよ。女を怒らせないのが家庭円満のコツだぞ」
実感を込めて言うとアトリも苦笑した。
「あれは、リコと会う前からの付き合いなんだ。それが最近は、二人で仲良くしてる方が多い」
「いいことじゃないか。子供はいないのか」
「いない……けど、もし生まれてたら、リコと同じくらいだったかもしれないな」
「……そうだったのか」
淡々としたその物言いが、逆に悲しみを物語っているようだった。アトリという男が隠しがちな内心を、いつもより奥までのぞき込んだ気分になった。そのまま待つと、アトリはぽつりぽつりと続け始めた。
「……ホランは、やっぱりリコのことを、狼の落とし子だと思うか?」
「……さあ。おれは、おまえほど今のあの子を知っているわけじゃないし」
「おれは、あの子の狼の部分をたくさん見てきた。それでも……それでもリコを、手放したくない。リコにとっては勝手な言い分かもしれないけど、おれは、リコのことを」
自分の子のように思っている、と言い切れない感情は察せられた。彼女とその子に対する責任、あるいはそれがあってなお一人で旅していたことへの負い目なのかもしれない。けれどその感情も、リコへの思いも、ホランには単純な言葉で説明できるような気がした。
「あんたは不器用な子だね、本当に」
その時、入り口から静かな声がした。いつの間にか家主であるトゥーラが帰ってきていたのだ。ホランは慌てて立ち上がった。
「留守中にお邪魔しています」
「いらっしゃい。ゆっくりしていきなさい」
トゥーラは微笑んで風よけの頭巾を外し壁に掛けると、ゆっくりと近付いてきた。間が悪いところを見られたアトリは、鼻をぐいとこすって養母を迎えた。
「この家には入らないのかと思ったよ。外で天幕なんて立ててるから」
「……夜はあっちに行くよ」
「どうして。ここはあんたの家だったのに」
「…………」
居心地の悪さを感じながら、ホランも頷いた。それを見たアトリは忌々しげに視線をそらす。
「リコにも、あの子にも、伝えてやればいいだろう。あんたが愛してるって」
「あっ……いっ……? そ…………あ、い……」
とんでもないことを聞いたように上ずった声でアトリは言葉にならない音を繰り返した。獣が耳や尻尾を膨らませるように、大きな身体を忙しなく揺すり金髪が揺れ、空色の瞳を見開いている姿は、アトリには悪いが面白かった。
「リコがどう感じようと、あの子がどう思ってようと、あんたにできるのはそれだけだろう。その思いは、リコの姿や力とは関係ないはずだ。あんたにはもう、それが分かるはずだよ」
「……ばあさんの言いたいことは分かるけど、おれは、リコとはちがうよ。始祖の狼とちがって、おれはただの、よそ者だ」
アトリの持つ根深い孤独感を引き抜くように、トゥーラはころころと笑った。春の鳥が呼び合うような笑い声だった。
「あんたを拾ったら次の日には春が来た。それだけであたしには、始祖の狼と同じくらい特別だったよ」
ホランにもその思いは分かる気がした。子供が笑う。それだけで何にも替えがたい特別さがある。そしてどの子供も、その特別さを、親の愛情を、当たり前のように享受して大きくなるべきだと思っている。
「…………ばあさんみたいには、できる気がしないよ」
「もうできてるんじゃないか。この頭が証明してる」
思わずホランが引き取ってアトリの背を叩くと、トゥーラもその通りと言うように頷いた。それを受けアトリは少し笑ってから、うつむく。
その目に光るものに、ホランもトゥーラも、見なかったふりをした。
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