空に輝くもの-4
草原は冬支度に忙しい。あれほど青々と茂っていた下草は枯れ始め、空は抜けるように高いが日は短い。わずかな昼の間、大人も子どもも男も女も、忙しく働き仕事は尽きない。
そんな中、リコはぽつんと一人残されていた。朝食後、子どもたちは家畜の乳を搾りに行く。けれど家畜はリコを怖がるので、できない。春や夏なら乳も豊富で、どんどん運ばれてきたそれをかき混ぜたり火にかけてバターやチーズを作ったりという仕事があったが、秋には家畜の乳もだいぶ少なくなっているので、なかなか出番は来なかった。
それでリコは、里の一番高いところにある、星見やぐらにやってきた。てっぺんのふちに座り、流れる雲をぼんやり眺めていると、アトリと旅に出る前もよくこうしていたことを思い出す。
もっと小さな頃は、家畜たちもリコを怖がったりしなかった。みんなと一緒に仔羊を追いかけて遊んでいた。いつからか、リコが近付くと家畜たちは怯え、ひどいと暴れて逃げ出すようになってしまい、リコもそれを避けるようになった。それで、子どもたちが仕事をしている間は、この星見やぐらに登って、高いところからみんなの様子を見ることにしたのだった。
「いーち、にーい、さーん……」
空から地上へ視線を落として、あの頃よくやっていたように、遠くの家畜を数えてみる。全部合わせれば百頭をくだらないそれを遠目に数えるのは無謀だったが、リコはいつも、そうしてひとりで過ごしていた。
「あ、ここにいた」
だからそう呼びかけられてびっくりして振り返ると、勢い余って落ちそうになった。
「危ない!」
ぐいと手を引かれて一緒に倒れ込む。制御できなかった尻尾が、柔らかくてあたたかい身体の間でぎゅっとつぶれた。
「あはは、リコの毛食べちゃった」
「ごめんね」
「いいのよ。びっくりさせてごめんね」
イリスはにっこり笑ってリコの頭をなで、片手でずれた眼鏡を直した。彼女の手は遊牧民の女たちのそれよりも柔らかい。頭のてっぺんをなでられるとうれしくて、リコは目を細めた。
はじめはアトリと親しい女性としてイリスを警戒していたが、それが解けてからリコはすっかりイリスに懐いていた。アトリよりも優しいし、アトリよりも落ち着いている。特に、あの山での出来事があってからは、アトリを避けていた。
「リコはここで、何をしてたの」
起き上がりながら、リコは眼下の里を指さした。
「羊をかぞえてたの」
「……ここから?」
「ここから。羊は、リコが近付くと逃げちゃうから」
イリスはリコの隣に座って、少し目を伏せた。レンズの奥で、長いまつげが黒い瞳に薄い影を落とす。黄色い石の耳飾りが光を受けてきらりと光った。
「リコはいつも、そうしてたの?」
養母であるトゥーラが星読み番のときは、よく一緒にくっついて夜もここへ来ていた。いつもリコは途中で眠ってしまって、朝目が覚めると家の中だった。トゥーラはリコを分け隔てなく育ててくれたが、星読みについては教えてくれなかった。子どもたちが仕事を終え、ご褒美のお菓子を配られたときは、一つ包んで持ってきてくれた。
そんなふうに、リコはいつもひとりだった。
「うん。リコは、みんなとはちがうから」
そう答えると、イリスはリコを抱きしめた。あたたかい腕に抱きしめられるのは気持ちいい。リコは尻尾をぱたぱた振って、イリスの背をなでた。こういう時、尻尾があるのは便利だった。
リコははじめから、自分がみんなとはちがうことに気付いていた。同じ年頃のこどもたちと一緒に遊んで、家畜の誕生や成長を喜び、天や大地の恵みに感謝して人間たちと一緒に暮らしているが、身体の奥はどこかしら別の場所を求めているようだった。人間には聞こえないらしい、遠くから獣の声が聞こえると、尻尾がぞわりと膨らんだ。
家畜たちがリコを怖がるのと同じように、リコだって怖かった。いつか自分は、あの家畜たちを獲物と見てしまうようになるのかと思って。
こてんとイリスに身体を傾けると、リコを抱く腕の力がますます強くなった。山でひとりぼっちだった狼と対峙して戻ったとき、さんざん泣いて疲れ果てたリコを強く強く抱き止めてくれたときのことが思い起こされた。
「みんなとちがってたって、一緒にいてもいいんだよ」
一緒にいたい、と強く願ったわけでもなかった。ひとりだって寂しくない。みんなが働いているところを遠くから眺めるのは楽しい。リコは、自分がいつまでも里で暮らせないということを知っていた。
でも。とリコは考える。
ここを出てどこへ行けばいいのだろう。あの狼みたいに、山でひとり。それも悪くないだろう。けれどもリコは、あの時狼の呼び声に答えることができなかった。
――アトリがリコを呼んだから。
アトリがリコの名前を呼ぶと、心がふわりと浮かぶような気持ちになった。それは狼の遠吠えを聞いたときと似ているようで、少しちがう。柔らかい羊の毛に包まれて眠るようにほっとした。
狼の呼び声で耳がピンと立ち、草原を駆け出したくなるような高揚感も、アトリの声にうれしくなって走って飛びつきたくなるような安心感も、リコの中には両方存在するのだった。そしてアトリの方を振り向いたら、狼はリコに牙をむいた。
アトリがリコを守るために狼を斬ったことも分かっている。それでも、近しく思うものが全部一緒にはいられないことが、リコには悲しくてたまらなかった。
「……アトリ、おこってるかな」
ぐるぐる考えた末にぽつりと呟くと、イリスは腕の力をゆるめてリコの顔を見て、もう一度笑った。少し寂しそうな笑顔だった。
「怒ってないよ。ただアトリも、悲しくて寂しくなっちゃっただけ」
イリスもまた、なんだか悲しくて寂しそうに見えた。リコにはそのわけはよく分からなかったが、尻尾でくるりと身体を巻くようにすると、今度はイリスがこてんとリコの頭に顔を寄せた。そのあたたかさがうれしくて二人で笑っていると、少し離れた場所に大柄の男が見えた。アトリである。
どうやら、平らなところに天幕を張ろうとしているようだ。せっかく家がある里に帰ってきたのに、外で寝る気なんだろうか。同じものを見たイリスが、大きなため息をついた。
「意気地なし。やんなっちゃう。……ちょっと話してくるね」
リコが尻尾を外すと、さっと立ち上がりイリスは星見やぐらを降りていった。しばらく見ていると、早足でアトリのところまでたどり着いたイリスが腰に手を当ててなにか言い、アトリは背を丸めている。それがおかしくて、リコは久しぶりに、アトリの姿を見てくふっと笑った。
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