空に輝くもの-3

「ひつじ!」

「うま!」

「ひつじ!」

 カームが朝の放牧から戻ると、娘たちが朝食の手伝いをしていた。もっとも、ちゃんと手伝いになっているのは上の娘だけで、真ん中はお茶の鍋をかき混ぜながらうつらうつらしていたし、末の娘はリコと一緒に遊んでいた。

「おかえり、おとうさん」

「おかえりなさい、カームおじさん」

「おう、ただいま」

 二人の頭をポンと撫で、娘の手から木べらを取る。娘はまだ半分夢の中でカームに寄りかかって眠り始めたので、火の勢いを調整しながら、すっかり沸いて渋そうなお茶に絞りたての乳を注いだ。

「らくだ!」

「えー、どこにある?」

「ここだよ、ほら」

 羊の骨を使った遊びである。よく煮てスープを取ったあとの骨は肉も筋もすっかり落ちてなめらかに白く、見方によっては動物のかたちに似ていた。

 たくさん集めたそれを広げて、相手が言った動物同士を弾いてぶつけて取り合う遊びは、カームも昔アトリとよくやった。もっとも、今の娘たちより年の差があったのであまり勝負にはならなかったが。


 カームとしては、死んでしまった兄にならってアトリに接していたつもりだった。けれど幼い頃から引け目を感じていたアトリは、カームと兄のように張り合うことはなかった。いつの間にか、アトリはカームと遊ばなくなり、星について尋ねてくることすらなくなった。


 上の娘と妻が準備する朝食がそろそろ整いそうだった。お茶も十分温まった。パラパラと岩塩を加えてそれぞれの器に取り分け、一杯は上座に置く。朝食はあぶって柔らかくしたチーズや肉をパンに挟んだ簡素なものだったが、リコは大きな口を開けて夢中になって食べるので、カームも妻も目を細めた。ひとしきり食べた後ようやっとお茶を飲み、リコは顔をしかめた。

「やっぱり渋かったか」

「うん……でも、アトリのお茶よりは、うーん……」

 迷ったあげく、顔を上げてリコはからりと言った。

「アトリもカームおじさんも、お茶をいれるのがじょうずじゃないとこ、似てる」

 あんまりな言い方だが、悪気は一切感じられないので笑ってしまう。リコは昔から、頭の回転が速く率直にものを言う。それがまた、人ならざるなにかのようだと評する者も多かったが、カームにはただ人目を気にしていないだけに見える。人からの視線ばかり気にしているアトリとリコがどうやって旅していたか、想像すると少しおかしかった。

「アトリは、お茶も料理も結構うまい方だと思うぞ。手先が器用で慎重だから」

「そうなの?」

「旅暮らしだから、茶葉も塩も節約してるんだろう、きっと」

 そうなんだ、とリコは答えてずずっとお茶をすすった。アトリは昨晩、リコにとって自分が無価値であるような言い方をしていた。リコの寂しそうな横顔、垂れた耳を見ていると、当たり前だがそうでもないらしいとはっきり分かって、カームはため息をついた。

 率直で無遠慮だけど、人との間に一本線を引き甘えることは苦手である。リコは昔からそうだったし、その点は小さな頃のアトリとよく似ていた。


 ◇


 寒い冬の入り口、母が狼の耳と尻尾を持つ赤ん坊を拾ってきたとき、既に成人して娘がいたカームはどうしてこんな子を拾ってきたんだ、と責めた。どう考えても人智を超えたなにかである。生まれたままの姿で山にいたのなら、それは山の子なのだろう。わざわざ人里に連れてきても災いを呼ぶだけだと思った。赤ん坊のリコは、まだ歯も生えていないのに目だけは新月の星明かりのように獣らしくきらめいて、今よりずっと狼に近く見えた。

『おふくろができないなら、おれが返しに行く』

 そうきっぱり言葉にすると、母はカームとは視線を合わせず、腕の中の赤ん坊を見下ろした。カームの拒絶が伝わったのだろうか。それまでじっと落ち着いた表情で母やカームを見ていたその子が突然泣き出した。泣き声は、人間の赤ん坊と同じだった。

『うん、よしよし、いい子だね、いい子』

 母が小さな子を揺らしながらあやす。カームの娘をあやすときも、アトリを拾ってきたときも、ずっと前に死んでしまった小さな妹を寝かしつけるときも、母は同じように静かな声で語りかけていたことを思い出し、カームは胸をつかれたように感じた。

 母は泣き声がおさまってもしばらくそうしていた。やがてゆっくり視線をあげて、深い黒い瞳でまっすぐ見つめる。昔から、こうして見据えられるのがあまり好きではなかった。幼い頃アトリとけんかして叱られたことを思い出す。

『泣く子がいたらあやすだろう。狼の仔を拾ったら犬の中で育てるし、人の子を狼が助けることもあるだろう。おまえはそれも分からないのかい』

 一拍おいて、続ける。

『おまえにとって、アトリは弟じゃないのかい』

 返す言葉がなく、カームは沈黙した。父も兄も妹も失った冬に拾われてきた不思議な瞳と髪を持つ義弟は、カームにとっても確かに救いの一つだった。

『…………おふくろは言い方がずるい』

 ようやっとため息交じりに答えると、母は鷹揚に笑った。カームはそのようにして、どちらかという諦観でもって狼の娘を受け入れたのだった。


 ◇


「やだ、次はわたしの番だよ!」

 気付けば、さっさと食べ終えた子供たちが片付けもせず遊び始めていて、順番で争いが生じていた。カームは問答無用で娘たちの前に散らばる小さな骨を拾い上げ、こら、と低い声を出した。

「遊ぶのは片付けをして、仕事を終えてからだ。これは父さんが預かっておく」

 えー、と不満そうに口をとがらせつつ、子供たちは渋々片付けを始めた。まだパンを頬張っていたリコが、その流れに乗れずきょろきょろ周りを見回している。カームと目が合って、年齢の割におとなびた表情で少しばつが悪そうに首をすくめた。

「リコも、遊びたいなら手伝いなさい」

「それならいいっ、食べてる~」

 いたずらっぽく笑ってあまのじゃくに答える。こちらの予想とは別のことを選択するのは、アトリと似ていた。アトリもいつだって、カームや母の考えとは別の道を選択していた。

「これからアトリを探しに行くが、一緒に行くか」

「行かないっ」

 今度は少しも迷わず、リコは首を振ってカームから視線を外した。この答えはカームの予想通りだ。ということは、リコの本心ではないのかもしれない。

 立ち上がりリコの頭をなでると、迷惑そうな顔をした。

「行ってくる。気が向いたら、リコも来いよ」

 返事はなかった。毛皮の帽子を被って外に出ると、ぴゅうと強い風が吹き、思わず首を縮こめる。


 予想通り、よく晴れたが空気は冷たく風が強い日だった。緩めていた服の合わせを留め直してから顔を上げると、隣家の横でなにやら怪しげな動きをしている大柄な男が目についた。アトリである。ターバンをしていない姿は未だに見慣れないが、おうい、と呼びかけるとすぐこちらを振り返った。手には天幕を持っていた。

「なんだお前、せっかく帰ってきたのに、そこで寝るのか」

「まあ……なんか、気まずいし」

 レンガ造りの古い家を顎で示してアトリは答えた。隣家は母の家であり、カームとアトリにとって実家であり、昨晩はイリスが泊まったはずだ。どうやら戻れていないらしい、と察してカームは腰に手を当てた。

「おふくろと残されてる彼女の方が気まずいだろうよ」

「そう……だよなあ」

 すっかり逃げ道を塞がれ、憔悴した様子の義弟にさすがに少し同情する。金の髪も少し色あせて見え、カームはその背を軽く叩いた。

「今晩はおれが星見の番だから一緒に来い」

 助かる、と言ってアトリは薄く笑い、天幕を地面に下ろすと大きく伸びをした。

「おまえ、背が伸びたか?」

「さすがに止まったと思うよ。比べてないから、分からないけど」

「こっちに来い」

 実家の裏に引っ張っていき、角のレンガに沿って立たせる。そこには幼い頃背を比べてナイフで刻んだあとがあった。

「ずいぶん伸びてる」

「いつの記録だよ。十六かそこらだろう」

 アトリは十六の歳にここを出ていった。その頃にはもう誰よりも背が高く、きっちりターバンを巻いて人を寄せ付けなかった。数年後に、いい仲の相手だと言ってイリスを連れて帰ってきたときはおどろいたものだ。

「でかくなったな」

 アトリの訴えをまるで聞かずにそう言うと、迷惑そうな顔をした。つい先ほどの、リコの表情を思い出す。アトリが自分の出自も、人と異なる容姿も嫌っていることは分かっているが、カームはどうも、彼らにとって聞き心地の良くないことばかり言ってしまうらしい。わざとやっているつもりはないが、そこがまた腹が立つと言われたこともあった。そうやってすれ違い続けていたから、この里でアトリとゆっくり話すのはずいぶん久しぶりな気がした。


「なあアトリ、星読みに必要なことはなんだと思う」

「突然なんだよ」

「おれが思うに、知識と経験、それから想像力だ。ものごととものごとがどう干渉し合うのか、結果が別のなにかにどう影響を与えるのか、だれがだれをどう思うのか」

 少しおどろいたようなアトリを気にせず続けると、アトリはそのまま複雑そうな顔で笑った。十六の頃にはなかった、おとなびた表情だった。

「カームがそんなことを言うとはな。想像力ね」

「そうだよ。おれには欠けてる。だから検証を積み重ねてやってるんだ。あちこち行って、実際の土地を見て、話を聞いて検証する。でもおまえには、おれにはない想像力があるだろう。人目を気にするおまえだからこそ、考えられることがあるはずだ」

 臆病で、気弱で、傷つきやすい弟だった。カームは彼を守ってやっているつもりだったが、それはアトリに負い目を抱かせ、その孤独を深めていた。里を出て行ったアトリが大事な相手を見つけられたのなら嬉しかったし、強がりなリコがアトリに懐いたのも微笑ましかった。

「おれはな、アトリ。おまえがどんどんでかくなっていくとき、怖かったよ。リコが狼のように振る舞うときと同じだ。やっぱり、おれたちとはちがうんだと思ってた」

「……知ってたよ。気付いてた」

 草原の民は皆黒い髪と瞳である。金の髪と青い瞳持つ西の民とは、何度となく草原で勢力争いをしてきた。アトリがあっという間に母よりもカームよりも背が伸びたとき、まざまざと人種の違いを感じて恐怖心がぬぐえなかった。隠していたつもりだったが人の機微に敏感なアトリは気付いていて、だからこそ出て行ったのだろう。

「でも今は、おまえのことを怖いとはとても思わない。きっと、リコだってそうなんだろう」

 諦観と共に受け入れた狼の娘は、すくすく元気に愛らしく成長し、たくさんの喜びを教えてくれた。大きくなるにつれ違いは目立つ。けれどアトリのそれをいつしか受け入れたように、いつか狼の耳と尻尾も、獣らしい金の瞳も遠吠えも、受け入れられる日が来るのだろう。共にいることさえできれば。

 アトリは気難しい顔で首筋を揉んでいた。その金の頭をポンと叩くと、ちょうど冷たい風が吹き抜けた。かじかんだ指をポケットに突っ込むと、からからに乾いた骨が触れる。先ほど子供たちから取り上げた後、ポケットにしまい込んでいたらしい。

「珍しいもの持ってるな」

「子供たちのだ。仕事しないから取り上げてきた」

 その答えにアトリは笑い、カームもにやっと笑って木箱の上にばらばらとそれを落とした。

「どれがいい」

「うーん……山羊」

 よし、とカームは山羊のかたちの骨を弾いたが、どれにもぶつからず転がっただけだった。

「下手だなあ。おれがやるよ」

「じゃあ、馬」

 アトリは背を丸めて木箱に覆い被さるようにして、骨を一つ弾いた。コンコン、と一気に二つの骨にぶつかって木箱のふちぎりぎりでそれは止まった。

「うまい!」

「昔カームにさんざんやられたから、おれはひとりで練習したんだ」

 いたずらっぽく少年のようにアトリは笑った。それがうれしくもあり、悔しくもあり、もう一回やらせろとカームはアトリを押しのけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る