空に輝くもの-2

 その日は、トゥーラの家で、カームやその家族を加えて賑やかな夕食になった。

 北の果てに位置する星読みの里は豊かではない。星読みを第一の生業とするため保有する家畜も多くない。それでも彼らが生活できるのは、ひとえにその力でもって草原の人々に助言し、導いているからだった。感謝の証に、草原の民は惜しげなく肉や毛皮、金品を差し出す。蓄えを見て、イリスは里での商機が薄いことをさとった。なじみの浅い商人とわざわざ取引しなくても、ここは十分満たされている。冬の保存食であるはずの塩漬け肉を惜しげなく使ったスープはしっかり香辛料が利いていて、旅疲れした身にしみた。リコたち子供がひたすら乳を振ってバターを作り、それをパンにつけて食べるとぜいたくな味がした。

 カームにはリコと同じ年頃から少し上まで、三人の娘がいた。その中に末の妹のように混ざって、リコは笑顔だった。彼女たちと一緒に眠りたいと、手を繋いで隣の家に入っていく最後まで、アトリに対してはよそよそしい態度だった。


「あんなに仲良くしてたのに、何があったんだ、一体」

 面白半分、心配半分といった表情で、カームはアトリに尋ねた。大人だけで込み入った話をするため、彼は妻子と一緒には戻らずトゥーラの家に残っていた。

「……狼を斬ったんだ。襲われて」

 節約のため少しランプの明かりを落とした室内で、ぼそぼそとアトリは語った。イリスはそれに口を挟むでもなく、ただ聞いていた。

 この里に、家に来るのは初めてではなかったが、居心地はあまりよくなかった。静かで変化の少ない星読みの里は、幼い頃から隊商暮らしだったイリスの生活とは、あまりにもかけ離れている。

 ことの顛末をアトリの口から聞くのも初めてではなかったが、やはり気が重くなった。アトリは人助けがしたかっただけだが、自分ではなにも得られず、隠しておきたかったリコの力に頼る羽目になり、けれど狼はリコに牙を剥き、アトリはそれを斬るしかなかった。あの一族が最後には、リコを狼の御遣いとして崇めたことまで含め、苦い記憶だった。

 なにひとつうまくいかず、さんざん傷ついて傷つけて出て行ったアトリの背中が思い出される。


「――おまえ、よく生きてたな」

 記憶の水底に沈みそうになっていた思考が引き戻された。カームの言葉に、アトリはふっと自嘲的に笑った。

「そう言ってくれるのは兄貴だけだな。リコには、おれがあのままやられてた方がよかったのかもしれない」

「なんでそういう言い方するの」

 思わず口を挟んでからしまったと思う。トゥーラとカームの視線がこちらに集中していた。

「リコの気持ちも考えてあげてよ。あの子だって、迷って悩んでいるから、ずっとアトリにぎこちないんでしょう」

「そりゃ分かってるよ」

 アトリは面倒そうに、イリスと視線を合わせなかった。子どもじみた態度に辟易してこちらもそっぽを向くと、トゥーラとカームがほとんど同時に小さくため息をついた。

「まあ、何があったのかはよく分かったよ。確かにこの夏はきつかった。ここでも家畜を減らしたさ。あんたたちが無事に戻ってきてくれて良かった」

「おれが頼んだ以上のことをやってくれたんじゃないか、アトリ」

 カームに背を叩かれると、アトリはまんざらでもなさそうに笑った。やはりここには、自分には分からない空気があるとイリスは感じた。カームはよその里や遊牧民に請われ星読みをすることが多く、街で出会うこともたびたびあった。アトリとそういう仲になってからは彼の方も親しく声をかけてくれたが、これほどくだけた態度の彼を見るのは初めてだった。

「それで結局、アトリはどうしたいんだい」

 迂遠な言い方をしない養母の問いに、アトリは少し視線をさまよわせた。ここにはいないリコを探しているようだった。

「……おれにはああするしかなかった。でも結局のところ、リコを山に連れ出すことになったのがその原因で、それはおれが力不足だったからだ。ここを出ていくとき、他にいい場所があるのなら、それまでは一緒に連れて行くつもりだった。でも今のおれはリコの居場所になってやりたいと思ってる。だから、この頭を隠さなくても、人から信頼してもらってリコの盾になれるような、ちゃんとした力を身に付けたい」

 考え考え答えたアトリの言葉もまた、あけすけなほど率直だった。トゥーラは深い、黒い瞳でまっすぐにアトリを見つめる。アトリも正面から見つめ返したが、その青い瞳は常に不安げに揺れていた。ふ、と優しく笑って、トゥーラは首をかしげた。

「あんたはそう思ってるかもしれないが、リコの方はどうなんだ。アトリと一緒に暮らして、アトリに盾になってもらうこと、リコはそれでいいのかい」

「それは……」

 とたん、アトリは養母から視線を外した。アトリがリコの信頼を失ったあの日から、二人は最低限の会話はするがぎこちない態度のままだ。それは一緒に旅してきたイリスが一番よく知っている。仔羊が親羊を信頼するように無条件に心を傾けあい、なにもかもうまくいっているような二人だったからこそ、こじれたときにどう修復したらよいのか分からないのかもしれない。特にアトリは、これまでいつだって、こじれたあとは手放す選択をしてきた。

 答えられないアトリの肩にポンと手を置いて、トゥーラはまた微笑んだ。

「どちらにせよ、あんたにもう少し力が必要なのは確かだよ。納得するまでいればいい。あたしとカームから、よく学びな」

「…………ありがとう」

 素直な礼に、カームは少しおどろいたようだった。トゥーラはうなずき、立ち上がる。

「突然だったから寝床も埃っぽいけど、今日は勘弁しておくれ。明日は晴れるから干してあげる」

「気にしなくていいよ。いつもだいたい、土っぽいところで寝てるし」

「アトリのことを気にしてるんじゃないよ」

 トゥーラはアトリの額を小突いてイリスの方を見た。

「私?」

「悪いね、狭くて古びたところで」

「いえ、私は――」

 断ろうとして、そういえば滞在する場所についてアトリとなにも話し合っていなかったことに気付く。以前はアトリと一緒に泊まったけれど、今となっては気まずい。アトリをちらりと見ると、素っ気ない顔で家の奥を示した。

「ここで寝かせてもらえよ」

「――アトリは?」

「おれは星を見に行くから、いい」

 意外な言葉に片付けを始めていたトゥーラもカームも顔を上げた。

「今日はおれたちの番でもないから、一緒には行かないぞ」

「別にいいよ。他の誰かがいるだろ」

 それが本当に星を読みに行きたいからなのか、この家でイリスと休むことを避けようとしているのか、イリスには判断が付かなかった。トゥーラとカームも同じだったようで、かといって追求もできず、アトリはおざなりに片付けを手伝った後出て行った。カームも隣の家に帰って行く。

「アトリとリコとずっと一緒で疲れただろう。ゆっくり休んでくれていいからね」

「ありがとうございます」

 昔アトリが、最近まではリコが使っていたであろう寝床に案内されて、上掛けの毛皮も渡されイリスは礼を言った。確かに少し埃くさかったが、寝床は乾いていて暖かかった。小さなレンガ造りの家は簡易な仕切りで部屋が区切られているだけで、暖炉の火は全体をよく暖めてくれる。それでいて分厚い絨毯で出入り口を塞ぐと、他の音は聞こえず静かだった。

 旅装を解いて毛皮にくるまり寝床に入る。昔この家に来たときは、アトリも一緒だった。

 眠れるわけがないと思ったが、疲労は思ったより強かったらしい。いろいろ考える間も、思い出す間もなく意識は途切れた。


 ◇


 夢の中でイリスは横たわっていた。本当は動けるのだけど、動く気になれなかった。髪も解いたまま編まずに流し、眼鏡はどこかになくしてしまった。何度となく繰り返し見た、昔の夢だ。

 イリスがアトリと出会ったのは二十歳頃のことだ。街や草原で出会う同じ年頃の娘はだいたい結婚して母親になり始めていたけれど、イリスは商人として信用され、商売が楽しくなってきた頃だった。それでも若い女商人は珍しく、どこへ行ってもイリスは異分子だった。アトリも同じような顔をしていたので、なんとなく一緒になった。

 知れば知るほど、傷つきやすくて優しいアトリを放っておけず、いつの間にか共に旅するようになった。斜に構えて、ぶっきらぼうに振る舞っても隠せていない人の良いところが好きだったし、なにより、二人きりの夜に見せてくれる金の髪が特別に愛おしかった。

 子供が出来たときも、これで商人をやめてもいいと思えたけど、あの寒い冬、お腹の中で生きられなかった子は流れてしまった。

 ぼんやり横たわって動く気力もなく天井の染みを見ていると、世話をしてくれた女性が仕方ないね、と言った。もっと若い頃から面倒を見てくれた親代わりに近い人だった。


『よそ者の子を孕むからこうなる。ちがう人間なんだから、合いの子が生きられないのはしょうがない』


 イリスは言い返せなかった。怒る力がなく、ただただ悲しくて涙も出なかった。

 口減らしに身売りされ、小さなころから商人の中で自由もなく働いて、知らない土地を連れ回され、頼れる人は数少なかった。生きる力を身に付けてからは楽しいときもあったけど、心細さと切なさは常にあって、同じものを抱えたアトリと新しく家族を作れたらそれに勝る幸せはないと思っていたのだ。

 部屋の外でアトリがその言葉を聞いているとは思わなかったし、イリスと同じように深く深く傷ついたアトリが、それ以上傷つくのを怖がって出て行くとは思わなかった。イリスが起き上がれるようになるまで、アトリは普段通り接してくれた。

 ふっと前触れなく姿を消して一年以上経ってからコゲを連れて現れるまで、死んだのかもしれないと思っていた。だからアトリが戻ってきたとき泣いたのは、安堵の涙だった。この悲しくて優しい男が、生まれなかった子と同じ場所にいってしまわなくて良かったと。


 目を覚ますと頬が濡れていた。外は既に朝の光に満ちていて、どうやら寝坊したらしい。アトリが部屋に戻った形跡もなく、寝床の半分は冷たいままだった。

 あれから、アトリと眠ることはあっても、肌に触れあってはいなかった。

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