第六話 空に輝くもの

空に輝くもの-1

 トゥーラが赤ん坊を拾ったのは、長く厳しい冬の終わりだった。その冬、トゥーラは夫と子供二人を亡くしていた。

 激しい吹雪の中、家畜を守りに出て行った夫とそれを手伝いに追った長男は戻らなかった。病を得た小さな娘は、燃料も食べ物も乏しい冬を越せず、氷と同じくらい冷たくかたくなって息絶えてしまった。

 真ん中の息子と二人残され、里長という重責も担うことになり、どうしたらよいのか分からなかった。途方に暮れ、冬の終わりの晴れた夜、星を見に出かけた山でその赤ん坊は泣いていたのだ。

 思わず抱き上げ、布にくるまれた身体がまだ小さなことにおどろく。誰かに庇護されたことが分かったのか、赤ん坊の泣き声はやや大きくなった。人の手がなければ生きられぬ幼い赤子が持つ生存本能に胸が締め付けられる。なぜかしら、生きられなかった家族たちの姿が重なった。

「どうした、こんなところに、ひとりで。親はどうしたんだい」

 後で調べて分かったことだが、少し離れた場所に旅装を食いちぎられた男女の遺体と荒らされた荷があった。あの冬は、狼はじめ野生の獣たちも生きるのに難儀して、家畜を奪いに来ることもよくあった。おそらく、その犠牲になったのだろう。

 左腕に赤ん坊を抱き、右手の革手袋を外し息を吐いて凍えた指先を温める。小さな子の柔らかな肌と身体をおどろかせないように。

 おくるみの布をそっと開くと、黄金の輝きがこぼれ出た。赤ん坊は、太陽のようにきらきら輝く金の髪を持っていた。

 息をのみ、目を見張り、柔らかな金糸がふちどる額にそっと触れる。こんな場所に放り出されてなおあたたかい、命そのもののような熱を感じる。反してトゥーラの指は凍えており、その冷たさにおどろいたように、赤ん坊はぽっかり目を開けた。


 大きな瞳は、晴れた空のように透き通る青だった。


 きれいだと、はじめに思った。金の髪も青の瞳も、美しかった。

 草原は冬の間、枯れて色を失い雪と霜で白く染まる。火を熾す燃料となる家畜の糞、からからに乾燥した干し肉、長期保存で変色して硬くなったチーズ、湯気と汗が染みこんだ寝台の毛皮、何代も昔から受け継いできた冬の上着。雑多に色あせた、ふるくから知るそれらのことも好ましく思っている。

 けれど、この金と青の輝きほど透き通るような、この世のものではないような美しさは、他に知らない。

 トゥーラがおどろき、見とれている間に、赤ん坊は再び大きな声で泣き出した。自分と同じ色の人間が、自分と同じところに属するものがなにもないと、頼るものがいなくなってしまったと分かっているような、必死の泣き声だった。

「ああ、いいよ、わかったよ。安心おし。あたしがあんたを連れて帰るから」

 背をポンポンと叩くがまるで泣き止む気配はない。この世にたったひとりであることに泣き叫んでいる。

「よく生きてたね、いい子だ、いい子。よく頑張ったね」

 トゥーラが失った子とこの赤ん坊がまるでちがうように、トゥーラは決してこの子の親にはなれないだろう。見るからに、何もかもがちがうのだから。けれど、たとえ血が繋がらない子であったとしても、泣く赤ん坊を世話するのは、どんな人種だって、家畜だって、野生の狼だってやることだ。

 何をしにここまで来たのか分からないまま、トゥーラは赤ん坊を抱いて里に戻った。ちょうど次の日から分厚い冬の雲は晴れ、春の青空が見えるようになり――陽光を受けすべてのものがきらきら輝く、春が来たのだ。


 だから、トゥーラにとってアトリは春の訪れを告げる子だった。


 ◇


「なんだ、帰ってきたのかい」

 いつでも帰ってこいと言ったのはそっちだろう、という言葉をかろうじてアトリは飲み込んだ。悪態に悪態で返していては、いつもと同じ帰省にしかならない。今度ばかりは、覚悟を持って帰ってきたのだ。

 草原の北西から、リコとイリスを連れ北の星読みの里まで戻るまでに、短い夏は終わりを告げ秋になっていた。もっとも、草原の秋は夏よりももっと駆け足に過ぎ去る。短い夏と秋の間に、人も動物も必死になって冬支度をする。星読みの里もそれは同じで、久しぶりに会う顔は皆忙しそうだった。

「おばあちゃん!」

 アトリの後ろにいたリコがぱっと笑顔になって養母の胸に飛び込んだ。トゥーラも満面の笑みでそれを受け止める。ずいぶんおれとの扱いがちがうじゃないか、と言いたくなったが、両者の笑顔を見ているとそんな文句も霧散した。どちらも本当に、再会を喜んでいた。

「元気にしてたかい、リコ。少し大きくなったね」

「うん、げんきだよ。おばあちゃんは?」

「あたしは変わりないよ。リコも、アトリと仲良くやってるかい」

 にこにこ笑っていたリコが、その言葉にきゅっと眉を寄せ沈黙した。おやおや、とトゥーラは目を細め、アトリに視線を向ける。ここでなにを言っても言い訳にしかならない。沈黙を選んだアトリの顔を少しだけ見つめてから、トゥーラはリコの頭をポンと叩いた。お気に入りのフェルトの帽子も脱ぎ、三角の耳がぴょこぴょこ自由に動いていた。

「友達に挨拶しておいで、リコ。今なら、毛糸を巻いている頃だろう」

「うん!」

 元気よく答えて、それでもリコは一度振り返ってアトリを見た。アトリが無言でうなずくと、ほっとしたように笑って駆け出す。放たれた若い山羊のように楽しそうに回ったり跳ねたりしながら走って行くので、本当に嬉しいのだろう。

「それで? アトリはどうして戻ってきたんだい。リコとけんかして、リコを返しに来たわけでもないだろう」

「まさか」

 アトリはすぐに否定して、ちらりと無言で後ろに立つイリスを見た。彼女を連れてくるのは初めてではないが、どうも気恥ずかしさは消えなかった。

「……突然戻ってきたのは悪かったよ。もっと申し訳ないけど、しばらくここに置いて欲しい。おれとリコとイリスの三人で」

 イリスがぴょこんとお辞儀する。それを見下ろして、アトリは重い口を開いた。

「もう少し、ちゃんと星読みとして、いろいろなことが分かるようになりたいんだ。この忙しい時期に迷惑かけて悪いけど、おれにもう一度、おふくろたちのやり方を教えて欲しい」

 短くない沈黙があった。トゥーラの表情は変わらず静かで、感情が読めない。拒否されるとは思っていなかったが、やはり、冬を前に食い扶持を三人も増やすのは無理があったか。あきらめかけた時、養母はふっと笑った。リコに向けるような満面の笑みではないが、優しく穏やかな微笑みだった。

「迷惑だなんて思ってないし、悪いことなんてないよ。いつでも戻ってきていいと言っただろ。ただちょっとおどろいた。どういう心境の変化だい」

 養母はもちろんアトリより背が小さいが、このように淡々とした口調で問われると、子どもの頃叱られたことを思い出してアトリの気持ちは小さくしぼむ。アトリは十代はじめですぐに養母の背も義兄の背も追い越してしまったが、大きななりのわりに小心者、と義兄から言われ続けていた。自分自身でもそう思う。容姿だけでなく中身も含め、そんな自分のことが好きではなかった。

 リコを傷つけてしまったことはもう戻せない。けれどリコもイリスも、アトリの髪も瞳もきれいだと言う。そんな二人のために、アトリはもう少し、自分に自信を持ちたかった。この草原で、この姿をさらして生きていくために。

「……カームから聞いてるだろうけど、おれは今、この頭をそのまま出してあちこち旅してるんだ。リコのためにも、人から信頼してもらえるよう、ちゃんとした力が欲しい」

 イリスに切ってもらったあと、少しだけ伸びた金髪は耳の下にわずかに届く。強い風が耳と首筋を撫で、細い金髪を巻き上げていくのを感じながら、アトリは言った。同じ風を背に受けて、養母の編んだ髪がひるがえり尻尾のようだった。

「あなたもそれでいいの、イリスさん」

 突然振られて、イリスは少しおどろいたようにピンと姿勢を正した。ずれた眼鏡を直しながら答える。

「はい。見守りながら、このあたりで商売させてもらおうと思って、ついてきました」

 地に足ついて生きることを知る言葉である。トゥーラは深くうなずき、二人を手招いた。

「おいで。久しぶりに家族が戻ったんだ。みんなでもてなそう」

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