思い上がりの遠吠え-6

 山のいただきより起こった雨雲は草原まで雨を降らせた。乾いた地面に雨が染み込み草花は水を得て元気よく天を向き、枯れていた川や水場が潤って、人や家畜は喜んで水を求めた。狼の娘が雨を呼んだと、ホウエンたち一族はリコを下にも置かぬ扱いで、子供は転がって遊ぶもの、ずいぶん大事にしてるんだなとアトリの過保護を笑っていたオトもリコを拝みかねない様子だった。

 本当は一日でも早くその場を離れたかったアトリだが、数日降り続いた雨に閉じ込められ小さな天幕でひとり寝起きを余儀なくされた。

 ひとり。アトリは久しぶりにリコから離れて過ごしていた。怪我を負ったリコを連れ帰るとイリスがひどく怒って、その時はリコもアトリを拒否していたので彼女に世話を託すしかなかった。アトリを見ないでイリスにしがみつくリコ、アトリを睨みつけるイリスの姿を思い出すと、大きなため息が出る。

 本当にひとりだったら、とアトリは天幕の隙間から外を見た。まだ雨は降っていたが、だいぶ雨足は弱くなってきた。コゲは何も問題にせず走るだろうし,アトリも上着を着ればいいだけだ。本当にひとりだったら、雨だろうと気にせず出発できていた。嫌なことがあったらその場を離れ別の場所へ行く。アトリの姿も中身も知らない人々の中へ行けば良い。それができない現状は、なんと面倒なことかと思う。

 またひとつため息をついたアトリは、コゲの様子でも見に行こうかと立ち上がり、夏には少し暑い、毛皮で裏打ちされた上着を頭から被った。


 コゲは他の馬たちと固まって雨をしのいでいたが、西から連れ帰った愛馬は一回り大きいのでどこにいるかすぐわかる。長身の自分が街で目立っているのを見るようで、アトリはそれを見るといつも自嘲気味に笑ってしまう。相棒と自分は似たもの同士なのだろう。

 いつもアトリとリコ、荷物を積んであてもない旅をしているコゲは、珍しく得た休みを満喫しているようにも持て余しているようにも見えた。アトリの姿をみとめると近寄ってきて、鼻先をアトリの顔に押し付けてくる。濃厚な生き物の匂いをかぎながら濡れたたてがみをなでると、ますますうれしそうに尻尾を振った。

「――リコみたいだな、おまえ」

 リコがやるしぐさと似ていると思ったが、よく考えなくてもアトリの連れとしてはコゲの方が古参である。言っていることが分かるのか、不服そうに鼻を鳴らすので、アトリは思わず笑った。

「ありがとうな、いつもリコを乗せてくれて」

 当然だ、と言うようにコゲはまた尻尾を振る。今すぐこの相棒に飛び乗って、よそへ走り去ってしまうことができれば楽だけれども、自分にはそうする気がこれっぽっちもないということを、アトリは改めて自覚した。――リコのことばかり考えている。

 コゲの顔をじっと見ていると、その瞳に映り込む、後ろから静かに近づく小柄な姿に気がついた。雨に濡れそぼり、元から細い体の線をよりいっそう細くして、イリスが佇んでいた。


「濡れるぞ、おまえ」

 とっさに出たのはそんな言葉で、アトリは上着を脱いでイリスに着せ掛けた。けれどもはや手遅れで、黒髪はぐっしょり濡れ眼鏡のレンズは水滴だらけで奥の瞳はほとんど見えない。無言で立ち尽くす彼女がなにを考えているのか、体をかがめて顔を覗き込もうとして、アトリは彼女の頬が雨以外の雫で濡れていることに気付いた。レンズの下は涙でいっぱいだった。

「なんで泣くんだ」

「……アトリが、行っちゃうのかと思った」

「行くわけないだろ。リコとおまえを置いて」

「行っちゃったじゃない。あの時は、ひとりで」

 おどろいて、アトリは半身だけ上体を引いた。アトリがイリスを置いて西の国へ向かったのは何年も前のことだ。もう長いこと、彼女からその時の話が出たことはなかった。それこそ、アトリが戻ったときでさえ。

「――――ごめん」

「今さら言うのね、それ」

「……ごめん……」

 涙を見るのも久しぶりだった。イリスには謝らなければならないことがたくさんあったが、彼女の優しさと涙に甘えて直視するのを避けていた。おそらくそれはイリスにとっても同じで、二人とも、真ん中にあるものに背を向けお互いの顔を見ないで、長いこと時間が過ぎてしまった。彼女がどうして今になって昔のことを持ち出すのか、それもよく分かる。

「……リコが、ちがうことは分かってる。でも、アトリが連れてきた子なら、アトリの子だと思いたかった」

「……気持ちは分かるけど、リコは、おれたちの子じゃない。狼の落とし子というのが、一番正しいのかもしれない」

「それならアトリは、あの子をいつか本当に山へ返すつもりなの?」

 イリスは眼鏡を外して顔を上げた。近くのものを見るだけなら、眼鏡は必要ないはずだ。アトリはよくそれを知っている。眼鏡の下、雨と涙でよく見えなかったその瞳は、深い悲しみの色をしていた。イリスの目に自分の瞳はどう映っているのだろうか。

「…………おれは、リコが望むようにしてやりたい」

「……やっぱり、そうやって自分では決めないのね」

 諦めを含んだその言葉は、アトリの胸にぐさりと刺さった。


 臆病で、自分をさらけ出すことが好きではない。ひとりでいる方が楽なことは知っている。人と関係することは、どうしてこうも悲しみばかり伴うのだろう。それなのにどうして、人との関係を断ち切ることができないのだろう。

 イリスに触れようとして、ほんの少しも動かせずに手をきつく握りしめる。それでも、苦しくても悲しくても、手を伸ばすのを諦められない。それはさみしいからだ。

 ひとりで星を見上げて過ごす夜の長さ。広い草原に焚き火の音だけ響いて声が届かない切なさ。誰かと手をつないで眠ること、一緒に起きて寝癖を笑い合うことを知っているからこそ、ひとりぼっちはさみしかった。

 リコを里から連れ出すとき、リコはさみしくないと言った。いつか出て行くと思っていたから、さみしくないと。アトリにはそのこと自体がさみしかった。リコはなにも知らない。心から誰かに身を委ね、なにかに属して安心することを知らないから、さみしくないのだろう。

 今よりいい場所があるのならリコをそこに連れて行ってやりたい、リコが安心できるところを探してやりたい。そう思っていた。

 アトリ自身がその場所になるべきなのだと、ようやくアトリは決意した。


「イリス、ごめん。おれは、リコのために生きてみたい」

 かつて彼女のためには決意できなかったことだ。アトリの思考の流れを理解したわけではないだろうが、イリスは涙を浮かべたまま少し笑った。

「何回謝るの」

「何度謝っても足りないと思うけど、でも謝りたい。……おれは、リコだけじゃなくおまえのことだって、失いたくはないんだ」

 その言葉は彼女にとって意外だったのかもしれない。まばたきのあと、イリスは目を伏せて深呼吸した。呼吸ひとつで、彼女はもう冷静になっていた。

 ……思い切って言っただけあって、少し、肩透かしを食らった気分である。

「それじゃ、これからどうするの」

「前から考えてたんだけど……一度、里に戻ってみようかと思う。今のリコのためでも、おれの都合でもある」

 二人で戻ってこいとカームに言われて断った手前、里帰りは少し気まずかった。けれどなりふり構っていられる場合ではないし、これから先のことを考えると、故郷と生業に向き合う必要がありそうだった。アトリの手には余るたくさんのこと。それらを掴んで離さないためには、改めて、草原で生きていく力を備えなければならなかった。

「…………一緒に来てくれるか?」

 尋ねると、イリスはアトリをまっすぐ見上げた。黒目がちの瞳にアトリの姿が映る。上着をイリスに被せたおかげでびしょ濡れで、ターバンが目のすぐ上までずり下がっていたので、思い切ってそれを取った。

「…………私、本当はアトリがそうして髪を人に見せてるの、ちょっと悔しかった。私だけに見せてくれてたのに、って」

 外した途端そう言われたので、やっぱり巻いておくべきだったのか、とアトリは固まった。アトリの動揺を見て取ったか、イリスは弾けるように笑い出す。笑いながら背伸びして、上着を半分、アトリの頭に被せてくれた。

「一緒に行くわ。商売できずに損する分は、アトリが補償してよね」

 彼女らしい言葉に、アトリも微笑んだ。ふたりとも頭から足までずぶ濡れなのに雨よけの上着を分け合っているのは滑稽だったが、こうして並んで歩けることが嬉しかった。

 後ろから、ぐるるるる、と低いいななきが届いた。こっちも忘れるな、とばかりにコゲが地面を掻いている。イリスが手を伸ばすと、コゲは目を細めた。

「ごめん、コゲも一緒だったね。一緒に行こうね」

 自分がどこから来たのか知りたくて、自分と同じものを探したくてひとりで西の国を旅して、なにも見つけられなかった。その時得たたったひとつがコゲである。そのコゲが、一度は置き去りにしたイリスと親しみ、リコと心を通わせていると思うと、これまでの道程にも意味があったように思える。

 アトリもコゲに手を伸ばし、イリスの手と重なった。ようやく彼女に触れて、細い指を握り――この手、ふわふわの尻尾、こんな自分を求めてくれる大切なものたちを離したくはないと、と強く思った。

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