思い上がりの遠吠え-5
「…………リコ!」
半瞬の自失のあと、アトリは大声で叫んだ。その時にはもう、リコの黒髪と黒灰の尻尾は見えなくなっていた。追おうとして、コゲの手綱を握っていることを思い出す。木々深い森に入っていくのに、馬は連れて行けなかった。
「コゲを頼みます!」
後ろの男たちに向けて言ったが、伝わったかは分からない。彼らも混乱のさなかにあって、狼におびえる馬をなだめるのに必死だった。改めて声をかける余裕もなく、アトリはもう彼らのことは見ず、リコを追って山に入っていった。
月と星の光が届かない森の中に一歩入って分かる、ここは人間が簡単に入って良い場所ではなかった。狼の気配に逃げ出していた小動物や猛禽が戻ってきて、のこのこ入ってきた弱い人間に狙いを定めている。
人の手はもちろん、家畜も踏み入った様子もない濃い自然と野生の気配に恐怖心がよみがえった。そのおそれをリコへの思いで鎧って、アトリはリコが駆け抜けた痕跡を追った。明らかに狼に近い状態に見えたが、姿かたちは小さな人の娘である。いくらもしないうちに赤い上着が見えてきて、アトリはもう一度大きな声で名を呼んだ。
「リコ!」
届くとは思っていなかった。けれど、アトリの声は届いたらしい。
一心不乱に奥へ向かっていたリコの動きがぴたりと止まる。不自然に止まった手足はもつれ、斜面から滑り落ち――アトリの目の前に落ちてきた。
「リコ、おい、大丈夫か」
小さな身体を抱き止めて、どくどく鳴る心臓をうるさく感じながら、泥だらけの顔をのぞき込む。リコは相変わらず視界になにも映していないようにゆっくりとまばたきして、時間をかけてその金の瞳にアトリの像を結んだ。
「…………アトリ」
「――はあ…………」
心底ほっとして、アトリは小さな娘を抱きすくめた。選択を誤ったと、リコを失うかと思った。いつか別れることもあるだろうと思っていたけれど、それを全く許容できていなかった自分に気付く。
ほっとしたのも束の間、腕の中でリコがもがくので少し隙間を空けると、再びぎらぎらした瞳に戻ってあたりを見回した。窮屈そうに腕を伸ばして振り回す。
「アトリ、はなして。行かなくちゃ」
「行く? どこに」
「わかんない。呼んでるの」
アトリも周囲を見回すが、あの狼の姿は見えなかった。けれど木々の間や藪の中に潜んで、声もなく狼だけに伝わるやり方で、リコを呼び続けているのだろうか。リコは見たことがないほど焦った顔をしていた。
「案内してくれるのか」
「……わかんない。でも、リコは行かなきゃ」
「どうして」
リコは必死の表情だが、アトリも必死だった。何の説明もなく、納得できないままリコと離れられるわけがない。けれどリコの本能的な必死さは、理屈を求めるアトリのそれを上回った。ふうっと白い歯を出して唸り、耳を伏せ、尻尾がかたく緊張する。怒った犬そのもののような姿にアトリがひるむと、リコは目に涙を浮かべて叫んだ。
「だって、あの子ひとりなんだって! リコとおなじなんだって……!」
思わぬ言葉に、腕の力が緩んだ。リコはするりと抜け出して、またどこへともなく走り始める。思考より先に身体が動いてアトリはその腕をつかんだ。勢いが殺されたリコの小さな身体はふわりと浮いてアトリの方に戻ってきて、その瞬間、リコがいたところに灰色のかたまりが流星のように飛び込んできた。
――狼は怒っていた。身体を低く伏せて耳を後ろに倒し、鋭い歯をむき出しにして低いうなり声をあげている。膨らんだ尻尾は微動だにせず、小さな目でまっすぐにこちらをにらみつけていた。その迫力は、リコの比ではなかった。
リコが迷いながら狼に向かおうとするので、アトリは強く手を引いてそれを止めた。
「行くな、リコ」
「でも……でも、アトリ……」
「行くな!」
ここにきて、アトリの心から恐怖は消えていた。ただ、リコを行かせるわけにはいかなかった。
――他に行く場所がないのなら、他にいい場所があるのなら、そこまで一緒だと言って、預かった。もしかすると、狼の元へ向かうのはリコにとってよいことなのかもしれない。アトリがターバンを外したように、リコも耳と尻尾を出して、自由に暮らすことができる方が良いのかもしれない。
群れを持たない一匹狼。それはアトリのことであり、リコのことでもあった。この灰色狼がそうだと言うなら、出会うべくして出会ったのかもしれない。
それでも、アトリには小さなリコの手を放すことができなかった。
狼がさらに体を低くして、飛びかかる構えを見せた。アトリもリコの腕を後ろに引いて、身構える。一撃で喉を切り裂かれるのだとしても、立ち向かうしかない。
「アトリ…………」
リコが涙声でアトリの名を呼んだ。それが合図となって、狼はしなやかな筋肉を鞭のようにしならせて跳ね、飛びかかってきた。
――――リコの方へ。
自分に向かってくるとばかり思っていたアトリは一瞬反応が遅れた。すぐにリコを突き飛ばして間に入るが、その時には狼の鋭い牙がリコの柔らかい肌に到達していた。悲鳴をあげて転がるリコを、狼はさらに追う。
狼が怒っていたのは、無力な人間の闖入者であるアトリではなかった。気高い獣の眷属でありながら、人と狼の狭間で揺れ惑い、あまつさえ人の言いなりになっているように見える、小さな狼の娘に対して怒っていたのだ。
リコを追う狼に覆い被さるように止めると、狼は標的をアトリに変え、一昼夜で草原の果てから果てまで駆けるという強い脚でアトリを突き放しにかかる。太い爪がぶすぶすと服を貫通して肌に刺さるが、痛みも恐怖も感じなかった。
いつの間にか上下が逆転していて、アトリは狼に組み伏せられていた。大きなあごが泡を吹きながらガチガチとアトリを噛み砕こうとするのを、アトリは渾身の力を振り絞って止めた。それでもどんどん距離が詰められ、黒々とした狼の鼻先が近くなり、生臭い呼吸とアトリの呼吸が混ざり合うようになり――――
もうだめだと思った時、うずくまっていたリコが顔をあげ、悲鳴のように叫んだ。
「アトリ、やめて!! やだ、だめ――――!!」
小さな狼の甲高い遠吠えに、ひるんだように狼の力が一瞬緩んだ。その隙を逃さず、アトリは狼の顎を突き上げ、腰から短剣を引き抜き、横一線に切り裂いた。
力なく崩れ落ちる始祖の獣、ばたばたと降る血を振り払って、アトリはリコのもとに駆け寄った。
「リコ、傷を見せろ」
リコはいやいやと力なく首を振る。腕を取って確認すると、狼の牙は上着を切り裂き肩をかすめたようだが、深い傷ではなかった。血がにじんでいるが、きれいに洗ってやれば問題ないだろう。
ほう、と安堵の息をつくと、リコはアトリをキッとにらみつけた。鋭い眼光にアトリはたじろぐ。リコの混乱と激情を受け止めようと手が伸びたが、リコはアトリの横をすり抜け、狼の元へにじり寄った。行き場をなくした手が夜闇を通過する。
アトリは、狼の喉元を切り裂いた。ちょうど狼が家畜を屠るときと同じやり方で。即死だったはずだ。
背中に、リコが泣きじゃくる声が届いた。しばらく動けなかったが、意を決してアトリが振り向くと、ちょうどリコもアトリを見返すところだった。
「アトリ、どうして、どうして切ったの」
リコが狙われたからだ、アトリ自身も殺されかけたからだ、狼が怒り狂っていたからだ――理由はいくらでも挙げられた。けれど何を言ってもリコは納得しないだろう。目に宿る不信の色が、それを示している。
「――――ごめん」
アトリには謝ることしかできなかった。
リコの呼び声に答えて現れた孤独な狼、リコと心を通わせ、いざない――リコと分かりあえるかもしれなかった彼女の同族を、アトリは確かに切ったのだ。
冷たくなっていく狼の毛並みをさすりながら泣くリコを、直視できずけれど完全に目をそらすこともできず、視界の端でとらえていた。泣き声はやがて弱いすすり泣きになっていく。
その時、ぽつりと自分の頬を濡らす雫にアトリは気が付いた。
もしかしていつの間にかおれも泣いているのだろうか、と手を伸ばすとそこにも雫が落ちてきて、涙ではないと知る。暗い森の中で気付かなかったが、月と星の光は黒い雲で遮られていた。ぽつりぽつりと、乾いた草原に雨が降り始める。
まるでリコの涙に呼ばれたように。
結果として水を呼び寄せることになった、孤独で小さな狼の娘が雨に打たれるのを、アトリは呆然と見つめていた。
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