思い上がりの遠吠え-4
「それで、これから出かけるの」
夜も更けてようやく日が沈み始めた頃、大きな荷物をロバに乗せてやってきたイリスは半眼でアトリを見上げた。アトリは彼女と目を合わせられず、荷ほどきをするイリスとは反対に無言で身支度を調える。
昨日は別の遊牧民宅で商いをしたあと、宿営地には戻らず直接ここまで来てくれたらしい。遅い時間にたどり着いた行商人にホウエンの一族はおどろいていたが、アトリの知人だと分かると納得したようだった。リコにおびえてあちこち走って行った家畜も、無事に全頭集められたという。余計な仕事をする羽目になったオトたち若者にアトリが謝ると、彼らは複雑そうな顔をした。
「こんな時間に、あんな小さな子をどこまで連れ出すの?」
「いくつか丘向こうの山に、狼がときどき現れるらしい。その近くまで行く」
「本気なの、そんな危ないこと」
不本意なことになったと誰よりも悔いているのはアトリだった。それをちくちく指摘されるとどうにも居心地が悪く、アトリは思い切って彼女を振り返った。アトリの影にすっぽり隠れてしまう華奢なイリスは、少しおどろいた顔をしたが、勝ち気な瞳でアトリをにらみ返した。
こざっぱりとして商人らしい損得勘定で動くことの多い彼女が、感情的になるのが少し意外でもあった。けれど思考の流れはアトリ自身思い当たるので、彼女の気持ちも分かるつもりだった。
「……一緒に行くか?」
そう聞いたのは、イリスはまだ、リコが狼らしく振る舞うところをみていないと思ったからだ。イリスは意外なことを聞いたように眼鏡の奥の瞳を瞬かせた。薄いガラス一枚挟むだけでその色がよく見えなくなるようだ。分かると思った彼女の気持ちが、また遠くに離れたように感じる。
「……いい。ここで待たせてもらってる」
「そうか」
イリスの答えにうなずき、アトリはターバンの結び目を確認し、腰に短剣を下げた。普段は荷物の奥にしまい込んでいることが多いが、なんとなく、得物を帯びたい気分だった。
「気をつけて。ふたりとも、怪我しないでね」
「――うん、行ってくる」
天幕の外に出ると、涼しい乾いた夜気が肌をなでた。半分の月が空の中程に浮かび、星々がそれぞれの色で草原に輝きを落としている。満月に近づくほど星読みの条件は悪くなる。もともと、アトリの手には余る頼みだった。それでもここに来てしまったのは、単にアトリの意地でしかない。
外に出ると、コゲの横で待っていたリコが隣の天幕に向かって手を振っていた。そちらを見ると子供が数人顔を並べて手を振り返していて、アトリに気付くとすぐ中に引っ込んだ。リコは振り向き、アトリにも手を振った。隠す意味がなくなったので耳も尻尾も出たままにしており、夜空の下に立つその姿は見慣れたアトリでもはっと息をのんだが、手を振る笑顔は不釣り合いに無邪気だった。
「――仲良くなれて、よかったな」
アトリの言葉に、リコはうんとうなずく。
「あやまってくれたの。おこられたの、ごめんって」
「あやまる?」
よく意味が分からず聞き返すと、リコはまた、うんとうなずいた。
「羊たちがもどってきたとき、リコはみんなのことまってるって言ったんだけど、いっしょに行こうよってひっぱられて、それで耳が出ちゃったから」
なるほど、本当はそういう経緯だったのかと理解して、アトリはもう一度、よかったな、と繰り返した。リコもいつもの様子でくふふと嬉しそうに笑うので、頭を撫でるとアトリから逃げ出してコゲの周りをぐるりと回る。それを捕まえてコゲの背に乗せてやりながら、アトリはふと尋ねた。
「リコは、コゲの言っていることも分かるのか?」
きょとんとした顔でリコは首をかしげる。家畜はリコを恐れるが、コゲははじめからリコに動じなかった。数年来の相棒は西の国から連れ帰った経緯があり、いくつかの難しい旅路も共にしている。度胸がある馬だからかと思っていたが、もしかしてリコの方からコゲに呼びかけることがあるのだろうか。
「狼の声みたいには、わからないよ」
リコはコゲのたてがみをなでながら、考え考え答えた。
「でも、コゲはアトリが好きだから、リコのこともだいじょうぶなんだと思う」
アトリはそうかとうなずいて、相棒の鼻に自らの額を押し当てた。
自分はひとりぼっちだと思っていたし、孤独はつらくなかった。旅の連れにリコが増えても、本当にわかり合えるのは草原にリコとアトリ、お互いだけだと思っていた。けれど相棒がいて、イリスがいて、アトリにリコを託した家族がいる。リコだってこれからたくさんの友人を作ることができるだろう。
彼らのためにも、リコとアトリは無事に戻らなければならなかった。
オトやホウエンなど一族の男数名が先導する中、アトリとリコを乗せたコゲも後を追い丘をいくつか越えると、明るい星月夜に黒々とした山の影が見えてきた。草原に隆起する丘とは違い、大小の木々がうっそり繁り、ところどころに鋭角の岩山が見える。近づけば、それがたくさんの命を抱く森であることが分かった。人間の訪れにざわめいて、梟が頭上の枝から目を光らせている。
狼は、このような山々で生存競争のてっぺんに立つ存在である。熊は狼より大きく強いが、群れで得物を追い詰めて狩る社会性と賢しさは、他の肉食獣にはあまり見られない。
木々の間を縫って進み、本格的な登りに入る前に馬を止めリコを下ろすと、リコの小さな身体は大きな山に飲み込まれてしまいそうに見えた。大人でも躊躇するそのむき出しの野生の中を、リコは恐れず何歩か進み、乾いた草原とは少しちがうしっとりとした空気を全身で感じるように、ゆっくり深呼吸する。意識的にか無意識か、喜ぶように尻尾がぴょこんと震え、次いであまり感情を読めない表情でアトリを振り返った。
「狼はいる――でも、ひとりみたい」
「ひとり? 群れじゃないってことか?」
そうみたい、とリコはうなずく。後ろを振り返れば、男たちはリコとアトリ二人から少し距離を置いて無言でこちらの様子をうかがっている。尻尾と耳を見て、リコに期待して、それでも信じきれずに半信半疑な様子がありありと伝わってきた。アトリは彼らから視線を切って、リコを見た。心のしこりを全て消すことは出来ないが、ここまで来ればリコの可能性に賭けてみたい気持ちもあった。家畜が、人が痩せ細り、乾いて飢えるのなんて、見たくないのは当然だった。
「呼べそうか?」
「やってみる」
アトリの言葉に、リコはさらに一歩前に出た。耳がピンと立ち尻尾もぶわりと膨らむ。喜んでいるときと似ているがちがう、小さな娘の緊張を感じ取って、アトリもコゲの手綱を握る手に力がこもった。
アオオオ――……ン
森の奥に分け入っていくような、静かでよく通る遠吠えだった。木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、ざわざわと森が揺れる。背後の男たちの馬が逃げ出そうと暴れ、それを必死になだめる声が聞こえるし、男たちの声もまた恐怖に震えていた。リコはまるでそれらに気付かない様子でただ前を見て立ち尽くしている。――狼の返答はなかった。
もう一度吠えようとリコが大きく息を吸い込んだとき、それがゆっくりと姿を現した。月の光を通さない、暗い森の奥から現れたのは、灰色の豊かな毛並みを持つ立派な狼だった。
間近で見る始祖の獣に、アトリは思わず一歩後ずさった。あれがこちらに飛びかかってくれば、なすすべもなく喉を切り裂かれて死ぬだろう。しかしリコは反対に、一歩前に踏み出している。
二者の間に、言葉はなかった。吠えたり唸ったりすらしなかったが、一番近いところにいるアトリには、やがてどちらもぐるぐると喉を鳴らし始めるのを聞いた。小さなリコのどこからその音が出ているのか、アトリには分からなかった。
アトリはリコを自分の娘だと思ったことはない。否、思わないようにしていた。リコにとってなにが最良なのか分からなかったからだ。人の中で生きることかもしれないし、狼の落とし子として、山に帰る方が幸せかもしれない。いつか別れる日が来ると思っていたけれど――それでも、アトリが知らない、リコの狼に近い姿を見るのは、どうしようもなく胸が苦しい。
リコ、と思わず呼びかけそうになったとき、リコがゆっくり振り返った。金の瞳はこちらを見ていながら、アトリを映してはいなかった。アトリがためらっているうちに、リコはその瞳に人間をだれも映さないまま、ぷいと前に向き直った。いつの間にか、木々の間に灰色の狼は見えなくなっている。それにアトリが気付いたのとほとんど同時に、リコは森の中へ駆け出していった。
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