思い上がりの遠吠え-3

 一晩星を見て得られる物がなかった翌日、アトリはこの地域をぐるりと回らせてもらうことにした。案内は例によってオトである。リコは朝から子どもたちに混ざって追いかけっこしたりフェルト干しを手伝ったりして遊んでいる。のびのびとしたリコの姿にアトリは目を細めた。アトリは髪を隠しても瞳や肌の色、体格など隠しきれない異質さがあったが、リコは耳と尻尾を隠せばそこらの子どもと変わりないのだ、と改めて思う。

 コゲを連れてリコを呼ぶと、ふたつに編んだお下げを揺らして走ってきた。

「アトリ、出かけるの!?」

「ああ。でも、リコはここで遊んでる方がいいだろ? 辺りを見て回ってくるだけだから、リコは待ってな」

「いいの?」

 もともと印象的な瞳をますます大きく丸くして、リコは首をかしげた。いいよ、とアトリが頷くと、それに答えてにっこり笑う。

「はしゃぎすぎて、転んだりしないように気をつけろよ」

「わかった!」

 本当に分かっているのか怪しい勢いで走り去る背中を見送っていると、横に並んだオトが腰に手を当てて笑った。

「大事にしてるんだな。子どもなんて、走って遊んで転がったりけんかしたりするものだろう」

「まあ……そうなんだけどな」

 転んで尻尾が飛び出たり、取っ組み合いのけんかになって頭巾が外れでもしたら面倒なことになる、という説明を飲み込めば、単にアトリは過保護にしか見えないのだろう。かわいい子だもんな、と適当な返事をして、オトは軽く馬に飛び乗った。

「ええと、これまでの水場や、放牧地の方まで案内すればいいのかな」

「ああ。よろしく頼む」


 丘を一つ二つ越えると彼らの放牧地があり、牛や羊の群れがのんびりと草を食んでいた。小さな遊牧民一家ならこれで十分家畜を養えるだろうが、彼らには足りないのだろう。家畜を肥えさせることが出来ない、とオトは嘆いていた。

 けれど、とアトリは昨晩リコがおいしそうに食べていた菓子を思い出す。それをあがなえるくらいの金はある、蓄えのある一族なのだ。甘味を楽しむ余裕のある彼らが、乾きを嘆いているのは少し贅沢な悩みにさえ思えた。

 とはいえ、水場に案内され、乾いた泥の中心にほんの少し残った水たまりを見ると危機感は募った。確かに、これでは家畜を守り切ることは出来ないだろう。

「おれたちだけじゃない、親族は西や北にも散らばっていて、こういうときは族長である親父を頼みにするんだ。だから、おれたちはもっと蓄えがないと困るんだ」

 彼の言葉には、父親と同じように一族を支えるものとしての自負が感じられた。草原の男は体面を保つことを重視して、頼られれば身を切ってでも相手に恵みを与えるものだ。できそうにないことは自信がないと正直に言う自分は、彼らにとってさぞ頼りなく映っていることだろう、とアトリは思った。


 他にもいくつか水場や山に案内してもらって、帰る頃には放牧していた家畜たちもとうに幕屋へ戻っている頃合いだった。遠くからでも犬や人が群れを追い、誘導しているのが分かる。そのうちの一人の若者が、アトリとオトの馬影をみとめ、慌てた様子で駆け寄ってきた。

「オト、いいところに来た。手伝ってくれ」

「何かあったのか?」

 近づいてみて分かったが、羊も牛も馬も、落ち着かない様子で呼び声にも応じずなかなか集まらないようだ。手綱を引いて馬を止め、オトはぐるりと辺りを見渡した。オトの問いには答えず、若者はアトリを見て少し興奮した顔で言った。

「なああんた、あの子はいったい、なんなんだ? あの子のおかげで、家畜たちが散り散りだ」

 何かが起こってしまったのだ。それも、よくないことが。

 理解して、アトリはつとめて静かに尋ねた。

「――リコは今、どこに?」

「族長の幕屋に連れて行ったよ。なるべく家畜から離さなきゃ――あ、おい」

 最後まで聞かずにアトリはコゲの腹を蹴って走り出した。いくら楽しそうにしていたからって、リコを一人で残すべきではなかった。後悔しても遅いのだが、考えずにはいられない。アトリはいつだってそうだ。いろいろ恐れ、先走って行動して、後から悔やむ。イリスの元を出て行ったときもそうだった――。


 一番大きな幕屋の前で馬を飛び降り、早口で訪いを告げて返事を待たずに戸を開ける。真ん中に座っていたリコが――おそらくその大きな耳とよく利く鼻で、もっと前からアトリに気付いていたのだろう――ぱっと立ち上がり駆け寄ってきた。それを受け止めて、元気なく垂れる尻尾ごと抱き上げると、リコは泣き出した。

「ごめんなさい、アトリ。ごめんなさい」

「おれも悪かった。ごめんな、置いていって」

 アトリが答えると、リコは首を振って頭をぐりぐりとアトリの胸に押し付けた。仔犬のような仕草は、リコがよくやる動きだったが、胸をつまされアトリは小さな後頭部を何度も撫でた。お気に入りの頭巾も、紐をしっかり結んでやった巻きスカートも外れてしまった姿はそれだけで痛々しく、後悔と申し訳なさの次に、ふつふつと怒りが湧いてきた。

「――アトリ殿、娘御を怖がらせてしまったことは、まず謝罪しよう」

「いえ……こちらも、隠していたことは謝ります」

 アトリは慎重に返答を選んだ。怒りに、感情にとらわれすぎてはいけない。一晩の宿を求めて立ち寄ったただの旅人ならともかく、アトリは今、北の星読みの里出身の星読みとしてここにいる。それにここは、イリスの商売相手でもある。

「私がこの子を見ているべきでした。なにがあったんですか?」

「羊たちが放牧から戻ってきたのだ。今年生まれた若い群れで、子どもたちが世話をしている。それで娘御も連れて羊を数えに向かったそうだ。そうしたら、群れ全体が暴れ出した」

 リコを見下ろすと、すすり上げながらほんのわずかに首を振った。涙の止まらない金の瞳に、アトリの青い瞳が映る。不安げなリコにしっかり頷いて、アトリはまた族長に視線を戻した。

「それで、耳と尻尾が出てしまったんでしょうか」

「そうらしいな」

 おそらく子どもたちだけの中起こり、本当のことは彼にも分からないのだろう。それを問いただそうとはアトリも思わなかった。あとでリコに聞けばいい。この場ではっきりさせるべきは、族長をはじめとする男たちが、リコをどう捉え判断したかである。

「それで、アトリ殿」

 だからその呼びかけにはつい身構えた。それが身体に出てしまったのだろう。族長は、ほんの少し口の端を持ち上げた。余裕を感じさせるその態度に、アトリは逆に緊張する。

「娘御は、狼の眷属なのだろうか?」

「……分かりません。リコは、養母ははが山で拾った子です。耳と尻尾があるから狼の落とし子かと考えたそうですが、母は他の子どもたちと一緒にリコを育てました」

「だが、家畜は彼女を怖がる。まるで狼そのもののように」

 族長ではなく、その横に並ぶ男から出た言葉だった。アトリもそれは否定せず頷く。

「里でも同じで、だから旅暮らしの私がこの子を引き取ったんです。家畜や獣にとっては、この子は狼に近いのでしょう。でも、私の目にはただの子どもに見えます」

「本当にそう思っているなら、耳も尻尾も隠さんだろう」

 その言葉にはむっとして、つい語気が強くなる自覚があった。

「隠しているのはおれのためではなく、リコを見る他の人間のためです。今のあなたたちのように、下手に混乱させたくない」

 言ってしまってからひと言余計だったかもしれないと思ったが手遅れである。幕屋の奥に並ぶ男たちが身構えるのが分かって、アトリもリコを抱く腕に力を込めた。緊張の糸が両者の間にぴんと張り詰める。ほんのわずかな空気の震えでそれが切れてしまいそうで、アトリは呼吸するのも怖いくらいだった。


「――天高くそびえる山ありき。山は天に通じ、天は山に恵みを与える。山の頂より清水ありき。清水は命を生み、命は山に育まれる。清水よりはじめに生まれし狼ありき――」


 族長のホウエンが低い声で淡々と唱えたそれは、草原に広く伝わる始祖の狼にまつわる伝承である。家畜や人を襲うおそろしい生き物である狼は、同時に強き力持つ気高い獣として畏怖されている。リコを見る人間の目がその色に染まるのを、アトリは何度も見てきた。

「娘御は、狼の力を持っているのではないか?」

「――いいえ、リコはただの娘です」

「試したことはないのか? アトリ殿も里の母君たちも――この子に神秘性を感じたことが一度もなかったのか?」

 答えられず、アトリは口をつぐんだ。

 リコは狼の声を聞き、狼に声を伝えることが出来る。リコを赤ん坊の頃から知るカームでさえ、その場面ではリコを狼の眷属として見ていた。アトリもその声を狼そのものだと思ったが、リコを恐れ敬いたくはなかった。その感情を忘れ、一度もありませんときっぱり答えられるほど、アトリは器用ではない。

「やはり、特別な力があるのだな」

 その声を聞いてようやく、彼の瞳や感情に、単純に始祖の獣を崇めまつり上げるだけではない別の意図も含まれていることに気がついた。大いなる自然の力に翻弄される、無力で弱い生き物ではなく、したたかに大地を踏みつけ麦の畑や鉄で自らの勢力を拡大していく、そんな利己的な人間そのものの目をしていた。

「……何を考えているんですか」

「アトリ殿。我らは己の力を頼みにして他の一族や西の国と戦ってきた、誇り高き草原の民だ。狼に家畜を奪われることがあっても、よほど近くを拠点にしない限り追い払うだけだ。強き始祖の獣に捧げたのだと考えている。狼はその足で、我らに恵みをもたらしてくれるのだから」

 一拍おいて、ホウエンは結論を口にした。


「娘御が狼と通じて、彼らの水場を知り、恵みを得ることが出来ないだろうか」


 アトリはあっけにとられて、なにも言えず彼を見返すことしか出来なかった。腕の力も抜けたのだろう、リコの身体がずるりと落ちて、リコはすとんと床に着地する。相変わらず耳と尻尾をぺたりと垂らしてアトリを見上げるリコと目が合って、ようやく唾を飲み込んだ。

「待って――下さい。そんなことできません。それに、私が星読みを始めたところです。その成果を待って下さい」

「しかし、アトリ殿は自信がないと言っていただろう」

「それは――……」

 困っているなら放っておけないと首を突っ込みながら、自分に出来るかは分からないと予防線を張り、実際に昨晩星を見てもなにも分からず、一日を無為に過ごしているのはアトリである。いくら豊かな一族とはいえ、成果が出るかわからないアトリを待つよりも、より強い可能性を持っていそうな方を選ぶのは道理だろう。

 どうしてこんなことになってしまったのかと考えたが、全てアトリ自身のせいでしかない。それを認めるのも絶望的に苦しくて、言葉を探してアトリは唇を噛み、うつむいた。下を向くとそこにはリコがいて、金の瞳がアトリを気遣うように揺れている。アトリが結ってやったお下げを身体の前に垂らしアトリと見つめ合ったリコは、今度は目に強い光を宿して、キッと前を見た。

「リコ、やってみるよ」

「おい、リコ」

 アトリは慌ててリコの肩をつかんだが、振り返ったリコは笑顔だった。耳もピンと立って尻尾はアトリの身体を撫でるようにふわりと動く。

 リコと旅を始めたばかりの頃、リコが熱を出して旧知の遊牧民であるボルドの家を頼った。アトリの金髪を糾弾したボルドに言い返したときも、こんなふうに強い瞳だったとアトリは思い出す。この小さな身体のどこに、大の男に立ち向かっていく勇気と強さがあるのだろうと、あの時と同じことを考えた。

「リコは狼を呼べるし、話せるよ。アトリだって知ってるでしょ」

 おお、と取り巻く男たちが身を乗り出すが、アトリはリコを、リコはアトリしか見ていなかった。

「…………おれは、いやだ」

 アトリはリコの肩にふれたまま、絞り出すように言った。リコが恐れ敬われるのはいやだったし、リコの特性を便利なもののように使うのはもっといやだった。そこに理屈はなにもない。アトリの感情でしかない。

 リコはいつものように大きな目でアトリを見上げ、不満そうにぷくりと頬を膨らませた。

「アトリだって、リコがいやだって言ったのに髪切ったでしょ」

 予想外の言葉に瞬くと、リコは再び、へにゃりと笑った。

「リコも、アトリのためになにかするよ」


 そうか、あの時も今も、リコはアトリのために一歩前に出る。この小さな狼の娘は、アトリのためになにかするとき、決まって強い光を瞳に灯すのだと、アトリは初めて気がついた。

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