小説 『王将戦』

青山 翠雲

小説 『王将戦』

 旭日の勢いを見せる藤井五冠と国民栄誉賞も受賞し、押しも押されもしない斯界の第一人者である羽生永世七冠との王将位を懸けたタイトル戦は、将棋ファンのみならず世間が待ち望んだ戦いと言って良かった。その証拠に、主催スポンサーも興奮し、1ヶ月前から世紀の大勝負の全面広告や果てはテレビコマーシャルまで流れ、協賛スポンサーも5倍に膨れ上がり、記者会見時の屏風に出るスポンサー名の位置で各社揉めたとか、2日前から一般紙やニュースでもいよいよ新旧の天才同士の激突と大きく報じられ、その舞台は厭が応にも大きなものへと設えられていった。


 対局が始まってみると、棋士生活40年間温め続けてきたかのような研究手順が炸裂し、大方の予想を覆し、羽生永世七冠が一局目を短手数で鮮烈の勝利を収め、世間の高齢化の背景も手伝ってか、俄然その後の羽生永世七冠の対局の行方に注目が集まる。ニュースではすでに二番目のトピックスとして報じられるようになっている。


 しかし、第二局、第三局と立て続けに藤井五冠が圧勝すると、第一局目を落としてその後連勝街道で防衛といういつものパターンか、と巷間囁かれ始めた矢先、第四局目は最近、羽生永世七冠がよく採用する横歩取り戦法を採用し、激しい戦いとなった。ちょうどその頃、羽生永世七冠が勝利を確信した際に見せる「手の震え」がニュースでも報じられることから話題となり始めていた矢先に羽生がこれぞ代名詞と唸らせる奇手「羽生マジック」を発して、手をぶるぶると震わせながら勝利し、藤井五冠が一旦頷き、深く頭を下げて投了したものだから、世間は大騒ぎ。新旧対決で、52歳の羽生がまさかのタイに追いつく展開を見せ、この白熱した二人の戦いに将棋ファンのみならず、政界・芸能界はもちろんのこと上から下まで将棋の話題で一色となった。その証左に小学生が漢字小テストなどで満点を確信するとぶるぶると手を震わせて笑いを取る光景が各地に広まったり、昔の漫画の再興と相俟って、手をぶるぶる震わせながら、「お前はもう死んでいる」などというセリフが流行ったかと思えば、はたまた俄に大盛況となったこども将棋大会で難解な局面ながらも勝利まであと目前となった将棋で劣勢側が手をぶるぶると震わせたため、優勢側の少年が思わず秒にも追われて投げてしまい、勝った側の少年は「自らの負けが見えて、悔しくて手が震えてしまったんです」とのインタビューがニュースになるなど、小学生の間でも将棋の話題で持ちきりになれば、お母さんたちも知ることとなり、この話題をもはや知らぬ者はいない状況となった。また、第四局を負けた後の藤井五冠がいかにも嬉しそうに局後の感想戦をする姿も話題に上り「なんで負けてあんなに嬉しそうな表情なんだ?」と対局中継をするネットのチャット欄が溢れ、それに押されるように負けた藤井五冠にその件についての質問が記者たちから感想戦後に問われると「あっ、はい。こちらが全く読んでいない手からの好手順で仕留められてしまったので、将棋の奥深さに改めて気付かされ、感動してしまったものですから」との回答。これまた、漢字小テストで失敗した際の小学生の言い訳として「あっ、はい。漢字の奥深さに改めて気付かされました」がブームとなる。第五局は羽生が第六局は藤井がそれぞれ一手差の美学とも言うべき、斬るや斬られるやの僅差の勝利を収める。


 羽生善治のタイトル通算100期への王手、藤井聡太が八冠制覇に向けて、お互い意地と意地がぶつかり合い負けるわけにはいかない、がっぷり四つの横綱相撲のような戦い振りで、世間のボルテージが最高潮に達した運命局第七局目は、かつて将棋の名局が繰り広げられてきた栃木県大田原市にある「ホテル花月」。あまりのごった返しのため、前日の対局室検分時に記者たちの控え室の畳が抜けたとの報道もなされた。


 そんな喧騒とは裏腹に対局当日の朝は、敷き詰めたような緊張と静謐、そして両対局者の充溢した気合いで身を切るような冷たさを感じる一方、身を焦がされるような熱さを感じる不思議な感覚を人々に与えた。


 立会人の谷川浩司第十七世名人の「それでは対局を始めてください」という一言で決着局の火蓋が切って落とされた。


 対局は、振り駒の結果、先手羽生永世七冠、後手藤井五冠。羽生は初手角道を通す「7六歩」。対して後手の藤井五冠はお茶を一口含んで静かに、そしていつものように駒を静かに、しかし、決然と飛車先を突く「8四歩」。双方指し進め、先手の羽生永世七冠が選択したのは、珍しく穴熊。一方、後手の藤井五冠は居玉居飛車。最近、無駄な手を一切指さず、玉の逃げ場の広さ、いや、自由さを誇るかのような居玉での指し回しの様相で駒組みが進行。


 中盤までじりじりとしたお互いの間合いを測るかのような展開が続いていたが、宣戦布告を告げる藤井五冠の歩の突き捨てから、一気に戦線が拡大。各所で業火の火の手が上がる。藤井五冠が苛烈に攻め、羽生永世七冠が受けるという展開に。藤井五冠が縦横斜めから再三再四攻めるも、羽生永世七冠がぎりぎりの受けを発揮し、7度も穴熊の囲い再生し、跳ね返し続けていた。


 しかし、8度目の猛攻で遂に羽生の堅陣に風穴が空く。激しい攻防戦の末に目まぐるしく持ち駒が入れ替わり、羽生永世七冠の持ち駒に受けに相応しい駒が尽きかけようとしていた。手数はすでに187手目という史上稀に見る大熱戦を繰り広げていた。


 持ち時間はそれぞれ10分となっている局面で藤井五冠が放った188手目「2六香」。羽生玉を守るには大駒「角」を合い駒として使うしかない。いや、それを強要した藤井五冠の一手と言える。苦しい角での羽生永世七冠の受け「2七角」。さらに藤井五冠の羽生玉への苛烈な攻めが続き、202手目「4八龍」。先程放った「2六香」とも相俟って、羽生玉への包囲網が完成、藤井五冠も勝利を確信し、お茶を口に含もうと静かに茶托から湯飲みを取った。


 この手でAIが示す均衡を保ちやや劣勢を示しつつあった形勢の針が一気に藤井五冠の方に振れ、藤井五冠の勝勢97%を示し、誰もが藤井五冠の軍門に永世七冠がタイトル戦での檜舞台にて完全に下り、新旧の対決に終止符が打たれるものと思った刹那、それまで成りを潜めていた羽生永世七冠のもう一つの代名詞である「羽生睨み」が忽然と見る者の目の前に現れる。グッと前傾姿勢となり、それまで静かな闘志を燃やしつつも、どちらかと言えば落ち着いた表情であった羽生永世七冠の目が刮目する。持ち時間残り2分まで考えた羽生が手を持ち駒台に伸ばし駒を握った途端、「うおぉー!」もの凄い咆哮と共に羽生の手が激しく震え出す。ネット中継で対局を見守っていた視聴者も騒然。解説者は声が出ない。羽生の手はますます震え出し、もはや制御が効かず、手が中空高く、まるで天を指すがごとくに持ち上がってしまい、羽生が対局中にも拘わらず、一旦立ち上がり、左手で抑えつけるようにして放った一手はーーー。


 「5二銀」。居玉の藤井玉にただ取られるところへ放った捨て駒の一手だった。一見、藤井の王さまにはまるで響かない。しかし、その手を放たれた瞬間、藤井五冠の手から湯飲みが転げ落ち、着物の上にお茶が激しく零れ、藤井五冠ががっくりと頭をうなだれる。しかし、依然AIが指し示す勝率は藤井勝勢97%で動かない。視聴者さらに騒然。かつて、NHK杯で時の加藤一二三名人相手に放たれ、「羽生街道」の起点となった「5二銀」であるが、回りの者は何が起こっているのか皆目検討がつかない。ネット中継では「二人の間で何が起こっているんだ!」「米長先生、天国から解説中継をお願いします!」といった声が飛び交う。


 二人の視線が一瞬交錯する。藤井五冠は、瞑目し沈思黙考。持ち時間1分まで考え、同玉と応じる。いや、応じるしかない。居玉の王さまが遂にその玉座から動くことを強要されたのだ。しかし、藤井の目は既に忍野八海の泉のごとく澄んでいた。


 一方、次の一手を指そうとする羽生は手の震えが止まらないどころか、もはや滑稽なほどに震えていた。ネットでは「おい、救急車の手配をした方がいいんじゃないか?」のコメントも出るほどに。羽生が左手で必死に抑えつけ、さらに「5三歩」と藤井玉を引っ張り出し、釣り上げる歩を玉頭に打つが、あまりの手の震えで回りの駒を畳の上に飛ばしてしまう。「失礼」と羽生永世七冠。藤井は駒を整え、これまた「同玉」。


羽生も遂に1分将棋に突入。AI勝率は依然として藤井五冠に勝勢97%。次の羽生の一手を指そうとするが羽生の右手はもはや制御不能状態だった。見る者誰しもが、左手で指せば良いではないか!?と思うも、羽生はあくまで歴戦の雄と幾多の戦いを繰り広げてきたこの右手で雌雄を決しようと心に決めていた。しかし、制御が効かない。次の瞬間、誰もが言葉を失う。いや、正確に言えば、ただ1人を除いて。


 羽生は、手に持った扇子を広げるや一閃、それを割き、竹串を数本引き抜くや、震える腕に刺した。腕には数歩の竹串が刺さり、血飛沫が吹き出している。その竹串が刺さり一時震えが収まった右手で指す。その気合いに応じるかの如く、藤井五冠もさらに打ち進める。しかし、また、羽生の腕が再び激しく震え出す。羽生が取った行動とはーーー。


 なんと、残っていた扇子の残骸で、自らの指の腱を突き刺し、腱を切りながら駒を(指したのではなく)盤上に「打ち」据えたのである。羽生の顔にも、藤井の顔にも羽生の血飛沫がかかる。この手を見た藤井は深々と頭を下げ「負けました」と投了を告げた。しかし、AIが指し示す勝率は藤井勝勢97%のまま。


 見る者全員が言葉を失っていた。そこで解説者が仕事らしい仕事をようやく果たす。


 「凄くないですか!?」


 解説の飯島栄治八段が言葉をこぼす。ネットもそれに呼応するように、「スゲー!」「スゴすぎる!」の嵐。


 「今日イチ、いや、将棋始まって以来イチの”凄くないですか!?”じゃないですか???」としゃがみながら話す。


 終局し、若き王者藤井がタイトル戦で初めて敗れ、タイトル通算100期の前人未到の偉業が達成されたとあって、対局室には記者たちで溢れ押すな押すなのごった返しの状況。そんななか、藤井五冠は救急車の出動を要請。感想戦はなく、羽生は直ちに病院へ搬送。


 藤井がいつになく饒舌に記者たちの質問に応じる。

「AIは藤井先生勝勢97%を示していました。投了された理由はなんですか?」

「私が指した2六香が欲をかきすぎた手になってしまいました。香は下段に打ての格言どおりに指していれば、私の勝ちは動かなかったように思います。しかし、逃れられないよう角と玉の田楽串しにしようと接近させて指したがために、隙が生じてしまいました。将来的にその香車を飛車で抜かれて、私が84手後に詰む筋、いや、隙間が出来てしまったんです。それに気づいた時にお茶をこぼしてしまいましたが、羽生先生の目を見て、読み切られている、と悟りました。数手進めたのは、将棋ファンのために進めましたが、羽生先生が腱を切られてこのとおり盤上も血だらけですし、もはや、二人の間では勝負は決していたので、ここで投了しました」


 その後、様々な質問が飛び続け、1時間半が経った頃、視聴者が叫ぶ「おい、見ろ!AIが84手後の羽生勝利を示しているぞ!」


 その後、羽生はもう右手で指せなくなったことを機に引退。将棋連盟会長へ。藤井は、この敗戦を契機としてさらに研鑽、翌年「王将位」も奪取し、史上初の八冠制覇となった。


 ここに一つの永遠に語り継がれる伝説の一局が生まれたのであった。 (完)

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