罪と貴婦人

 あれから、ちょうど一ヶ月が経った。

 季節外れの外套に身を包み、私は帝都に最も近い港町へ来ていた。船は手配してある。「手土産」も持った。あとは妃の到着を待つばかりだ。

 私は大きな革のかばんを開け、あらためて中身を確かめた。「手土産」の羊皮紙は、中に間違いなくぎっしりと詰まっている。小さく、頷く。

 最も枚数が多いのは、帝国各地の部隊配置に関する書類だ。国境線・港湾・併合したばかりの土地など、どこにどれだけ兵員を割いているかがすべて書かれている。他に持ってきた、帝国全土の地図・諜報網の資料・物資備蓄一覧なども併せれば、帝国の軍備は丸裸になる。

 これらの資料と引き換えに、隣国ケントニス王国がリーゼロッテ妃の亡命を承諾してくれた。元王族としての待遇と身の安全を保障する、との誓約も添えて。

 鞄を閉じ、留め金を固く締めながら思う。ケントニス王国は、これらの資料で何をするのか。

 ただの専守防衛、ということはないだろう。これらの資料を基に、ケントニス王国はおそらく帝国に攻め込む。そうなれば国は戦火に包まれ、多くの命が失われるだろう。


 だが、知ったことか。


 帝国は――皇帝は、至上の美を備えた貴婦人を汚したのだ。

 望まれぬ形で側室に娶り、籠の鳥として嬲り続けたのだ。

 そのような男を、帝国人民は君主として奉り続けてきたのだ。

 その計り知れぬ罪は、悪徳は、何をもってしても償うことなどできない。罪深き皇帝よ、せめて血と炎の中で、己が罪を悔いるがいい。




 手配した船の前で待ち続けて、どれほどの時間が経っただろうか。私の耳に、馬車の車輪の音が聞こえてきた。

 迎えに駆けていってみれば、ちょうど止まったばかりの馬車から、黒いドレスとヴェールに身を包んだリーゼロッテ妃が降りてくるところだった。優雅な所作で振り向く妃に、私は駆け寄ろうとした。


 不意に、後ろから突き飛ばされた。

 地に伏した私の背に、固い棒のようなものがいくつも押し付けられた。


 顔を上げると、目の前で私の上官がパピルス紙を掲げていた。逆光で文面はよく見えない、が、反逆――と大書されていることだけはわかった。


「騎士アルブレヒト。リーゼロッテ妃の誘拐未遂、および国家に対する反逆の罪で、貴様を死罪とする」


 冷たく険しい声が、響き渡る。

 どういうことだ。私は確かに、ごく秘密裏に事を進めたはず――

 全身から血の気が引いていく。


「もっと早く、お前を捕らえるべきだったが……反逆者の処刑を目の前で見たいと、妃のたっての希望でな」


 震える私の眼前に、リーゼロッテ妃がゆっくりと歩み出た。屈み込んで、私の顔と向き合う形になって、妃はヴェールを払った。

 逆光の中の笑顔は、美しかった。

 碧玉サファイアにも劣らず輝く瞳。

 高すぎず平たくもない、美しく尖った鼻先。

 姫林檎を思わせる、艶やかな赤い唇。

 それらすべてが奇跡の均衡で織り成す、やわらかくどこかあどけない微笑み。

 どれもが、闘鶏場で初めて見た時と同じだった。


 至上の笑顔は何も語らない。しかし私の頭の中には、艶やかな声が確かに響き渡っていた。


(わたくしには、これしか楽しみがないのです)

(籠の鳥には、闘う鶏がまぶしいのです)


 思い出す。グラオザーム王国は、内乱によって衰え滅ぼされたのだと。

 国王と三人の王子との戦い。それは、リーゼロッテ王女の「夫」だった者たちの戦いではなかったか。

 そして今、私は無謀にも妃の「夫」を出し抜こうとして――


「確かにこの者です。わたくしを連れ出し、ケントニスへ売ろうとした裏切り者は。……さあ、報いを与えてあげてくださいな」


 美しくもどこか無邪気に、妃は微笑む。

 金色の巻毛を揺らし、青い瞳を輝かせ、闘う鶏たちを見るのと同じまなざしで。

 そして不意に、私は理解した。


 私は、鶏なのだ。

 グラオザームの王も王子たちも、おそらくは皇帝陛下も、鶏なのだ。

 本能に駆られ殺し合う、鶏なのだ。


(神が与えたもうた本能のままに、命散らして戦う者たちの、なんと美しいことか――)


 女神の微笑の後ろで、上官が振り上げた剣がぎらりと陽光を弾く。

 それはどこか、哀れな軍鶏たちへ付けられた鉤爪に、似ているように思えた。





【終】

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闘鶏 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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