籠と貴婦人

 翌日の夕刻、書類仕事を早めに切り上げて裏庭へ向かうと、リーゼロッテ妃はお言葉通りの所にいた。

 白薔薇の垣の間で、部屋着の白いドレスを着た妃がやわらかく微笑んでいた。薔薇もドレスも柔肌も、すべて西日のほのかな橙に染まり、その様はさながら花の女神だ。だが神殿付きの筆頭絵師でも、この美を壁画に描き留めることはできまい。

 なんとお声を掛ければよいか迷っていると、妃は優雅に一礼して私を手招きした。


「来ていただいてうれしいですわ、アルブレヒト殿」


 促され、茶会用の小さなテーブルにつく。

 しかし、どうしても腑に落ちないことがあった。私はまずそれを質すことにした。


「なぜ私をお呼びになりましたか、リーゼロッテ様。皇帝陛下の妻として、このような振舞は慎しまれるべきでしょう」


 妃は謎めいた笑みを浮かべ、金の巻毛を白い指でかき上げた。


「妻、とおっしゃいますか。……アルブレヒト殿、あなたはわたくしが誰の妻か、ご存知ですか」

「それはもちろん我らが主、ルドルフ皇帝陛下でございます」

「今はそうかもしれませんね。ではその前は?」

「前?」


 私は首を傾げた。

 リーゼロッテ妃はもともと、隣国グラオザーム王国の姫だ。国が滅びて皇帝陛下の妻となったが……その前はどこへも嫁いでおられないはず。当時グラオザーム王国は、国王と王子三人の間で内乱となっており、王女の輿入れにかまける余裕はなかった。結局は内乱の隙を突かれ、我らがリスティヒ帝国に攻め滅ぼされたのだが。

 妃は目を細めて辺りを見回すと、潜めた声で言った。


「あれは、十五の春のことでした……成人の儀を終えたわたくしは、父上の寝室へ呼ばれ――」


 妃の声が、さらに低くなる。

 先を聞きたくない。けれど妃は身を乗り出し、赤い唇を私の耳へと近づけてきた。


「――父の、妻にされました」


 背筋に震えが走る。

 脳裏によぎった想像を認めたくなく、愚かにも私は妃に訊き返してしまった。


「妻に、とは、どういう」

「……ねやを共にする相手、ということですよ」


 返す言葉を失う。

 グラオザームの王妃、つまりリーゼロッテ妃の母君は、その頃すでに亡くなっていたとは聞いている。だがそんな、そのような、人倫にもとるおぞましい行為が、かの国の王宮で行われていたとは。


「耐えかねて長兄へ救いを求めました。兄の領地へ転がり込めば、かの方はわたくしを守ると誓ってくださいました……兄の妻となることと引き換えに。次兄も三番目の兄も同じ……結局私は、父と三人の兄の妻となりました」


 潜めた声で語られるのは、耳を疑うような悪徳だった。

 まさか、そのようなことがありえるのだろうか。

 父が娘を慈しまず、兄が妹を守らず、ただ肉欲の捌け口とするなど。

 だが、澄んだ声音の囁きを、蠢く赤い唇を、耳の間近で感じていると……いくらか理解もできてしまう。そんな己があまりにも浅ましい。


「気持ちの悪い話を聞かせてしまいましたね。……ですが闘う鶏を見ていると、全部忘れられるのです。本能のままに闘い、命散らす者たちの輝きを見ていると。……ですからアルブレヒト殿、わたくしの悪癖は、片目をつぶって見逃してくださるとうれしいですわ」

「いいえ」


 私は首を振った。ふつふつと、私の中で何かが沸き立っていた。

 この美しい婦人は、父と兄に穢され、隣国の皇帝に力で奪われた。

 許すことなどできない。このような悪徳が人の世に存在することを、許していいはずがない。

 私は一つの決意を固めた。己でも驚くほどに、迷いはなかった。


「リーゼロッテ様。お逃げください」


 妃よりも潜めた声で、私は言った。


「何を……言っていますか」

「お逃げください、貴女を本当に大切にしてくれる人々のところへ。貴女は、醜い男たちの人形となっていい御方ではない」


 突然何を言っている――理性が、引き止めてくる。

 だが私は騎士だ。人倫に悖るこの悪徳を見過ごすことなどできない。

 邪悪な男たちの餌食にされた、美しき貴婦人を救うこと。鶏など殺さずとも笑っていられるよう、命を懸けてお守りすること――きっとそれこそが、私が騎士を拝命した意味。


「三ヶ月……いや、一ヶ月お待ちください。貴女を守り慈しんでくださる土地を、私は必ず見つけてみせます。それまで、しばらくご辛抱くださいませ」

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