騎士と貴婦人
ここリスティヒ帝国で闘鶏が盛んになったのは、二年前からだ。
我らが皇帝陛下が隣国グラオザーム王国を攻め滅ぼした折、当地で流行していた闘鶏を宮廷へ持ち込んだ。表向きは人心の融和のためと説明されたが、実際の理由はすぐ明らかになった。
王国滅亡後に陛下が娶った、グラオザームの王女――リーゼロッテ妃が、無類の闘鶏好きだったのだ。
強引に側室とした、御年二十の若き姫を慰めるため、陛下は領土のあちこちから軍鶏を集めさせた。そして毎日のように戦わせ、妃に見せている。御年四十八の陛下が若い妃の歓心をつなぎとめるには、そうでもするしかないのだろうか。いまや役人たちだけでなく、私たち下級騎士までもが、闘鶏場で嬲り殺させるためだけに鶏を集めている。それが、仕事になっている。
虚しい下命をこなしつつ、私は思っていた。かように残虐な遊びを好む婦人は、氷のように冷たい女なのであろうと。
しかし、ヴェールの下から見えた笑顔は、美しくもどこか童女のようで――
「アルブレヒト様」
急に名前を呼ばれて、我に返る。闘鶏場の控室で、つい考えごとにふけってしまったらしい。
あわてて椅子から立ち上がると、紺の柔らかなドレスを着た侍女が三人ばかり並んでいた。私は膝をつき、深々と頭を下げた。
「何かお考えでしたか」
「ああ、実はリーゼロッテ妃を――」
言いかけて私は我に返り、そしてあわてた。一介の下級騎士が皇帝陛下の側室を気にかけるなど、身の程知らずにもほどがある。なんとかごまかさねば。
「――リーゼロッテ妃をどうお
ひねり出した答えがそれだった。これでも十分不敬だが「見とれていた」よりはまだましだろう。
「諫める?」
「命あるものを無為に殺めることは、神の教えにも人の道にも背きます。なんとかお考えを改めて――」
いただきたく、と言いかけたところで、不意に柔らかな声が重なった。
「諫めるのですか、わたくしを?」
心臓が一つ、大きく鳴る。
顔が、かっと熱くなるのがわかった。
いま、私は顔を上げてもいいのだろうか。
雨樋の
「顔をお上げなさいな」
言われるがままに上を向くと、そこには至上の笑みがあった。
青く澄んだ瞳、金色に波打つ髪、乳のように白く滑らかな肌……ヴェールを取ったリーゼロッテ妃が、私に、微笑みかけてくださっていた。
「さきほど闘技場で、わたくしをずっと見ていましたね。……わたくしに、言いたいことがあるのでしょう?」
目を細め、口角をやさしく上げて、問うてくる。
ひれ伏して謝りたい気持ちだった。この崇高な美の化身に、私ごときがつまらぬ言葉を投げつけて良いのか。この御方に対する冒涜ではないか。
だが、おそらく、さきほどの言葉は聞かれていただろう。ならば下級とはいえ騎士として、私も覚悟を決めねばなるまい。
「リーゼロッテ様。闘鶏好みを、少しお控えになるお気持ちはございませんでしょうか」
「なぜでしょう」
「鶏たちも生きております。生き物を無為に殺すのは、人の道に外れます」
妃は、形良い丸い目をわずかに細めた。
「あなたの言うことは分かります。……けれどわたくしには、これしか楽しみがないのです」
妃はわずかにうつむいた。わずかに揺れた金の巻毛は
「神が与えたもうた本能のままに、命散らして戦う者たちの、なんと美しいことか……騎士殿には見慣れた輝きかもしれませんね。けれどわたくしは、ここでしか見ることができません」
妃はうつむいたまま、数度まばたきをした。
「籠の鳥には、闘う鶏がまぶしいのです。……大空を
やわらかな声で言って、妃は笑った。美の女神の使徒……否、女神そのもののようにも思える優美さだ。
薄紅のドレスを翻し、妃が闘鶏場の控室の扉へ向かう。と思いきや、不意に金の髪がふわりと揺れた。
「よろしければ、もっとお話をしましょう。騎士殿、お名前は」
まさか。本当なのか。
この美しい貴婦人が、自分のことを気にかけてくださるなど!
白昼夢か、あるいは冗談か。うるさいほどに鳴る胸の内を宥めつつ、私は努めて冷静に答えた。
「……アルブレヒトです」
「では、アルブレヒト殿。明日の夕刻、宮廷の裏庭でお待ちしています」
顎から、力が抜ける。
リーゼロッテ様。よろしいのですか。
夫持つ身で他の男と密会など、よろしいのですか。
理性が叫ぶ言葉は、しかし声にならない。諾も否も言葉にできぬまま、私は、闘鶏場の控室で膝をついたまま動けずにいた。
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