白夜灯

五色ひいらぎ

白夜灯

 固く閉め切った窓の外で、風がひときわ高く吠えた。黒い土壁の四方八方から、氷と雪が叩きつけられる音が聞こえてくる。

 ほんの少し、居間を満たす光が弱くなった。母さんの編棒が動きを止めた。


「灯り、替えるか」


 兄さんが不機嫌そうに言った。

 無言で父さんが立ち上がった。そうして、部屋の隅に並べてあった人の頭ほどの白い珠を一つ手に取った。土と木でできた家の中、純白の珠たちだけが変に清らかで、そこだけ穴が開いたようだ。

 ああ、でも、これは本当に穴なのかもしれない。冬ではないところから繋がった、雪とも氷とも違う白なのだから。


「白夜灯」。

 長く厳しい冬の間、私たちの命を繋ぐもの。


 本当の名前――王都の魔導士様たちが呼ぶ「正しい」名前は、もっと違うらしい。けれどこの土地――吹雪の島スネーストルムの民は皆、この魔道具を「白夜灯」と呼んでいる。

 この不思議な珠は太陽の光を溜めこみ、望んだ時に光と熱に戻してくれる。


 父さんの節くれ立った掌が、珠のてっぺんを数度叩いた。たちまち、白が光になってあふれだす。

 清らかな光と共に、目の前の景色が溶けはじめた。古びた柱と黒い土壁が薄れて消え、代わりに鮮やかな青と緑がにじみ出してくる。


 気がつけば私は青い空の下、薄桃の花々が咲き乱れる草原にいた。降り注ぐ太陽が、肌をじんわりと温めてくる。

 心臓が、どきりと一つ鳴った。

 来た。とうとう、来てくれた。


(白夜灯の記憶、だ)


 時々こういうことがある。白夜灯を点けたとき、夏にあったできごとが蘇るのだ。

 理由は王都の魔導士様たちにもわからないらしい。白夜灯が夏の景色までも蓄えているのか、それとも私たちの思い出が呼び起こされているのか。

 でも、それはどうでもいい。これが夏の記憶だとしたら、私はいま、あの子に――

 思った瞬間、私の肩に触れるものがあった。

 固い、つるはしの先のような感触だった。心臓がまた、大きく跳ねた。


「……アルヴァ」


 小声で囁きながら、振り返る。


 白と茶の毛で覆われた、大きな鷲の頭があった。琥珀色の目が、ぎろりと私を睨んでいる。

 背には、やはり大きな鷲の翼。それでいて、下の身体は獣の四つ足。

 堂々とした、鷲獅子グリフォンの姿だった。


「アルヴァ! 私だよ、ユーリアだよ……!!」


 羽毛で覆われた首に、強く抱きつく。

 大好きな、大好きな鷲獅子――アルヴァは、擦り付けるように首を動かし、応えてくれた。



 ◆ ◇ ◆



 私がアルヴァと出逢ったのは、夏至の祭りが終わってしばらく経った頃だ。


 オリヴェルが、隣町の服屋の娘と逃げた。そう聞かされてから三ヶ月くらいが過ぎていた。

 十五になったら、お前はオリヴェルと結婚するんだ――子供のころからずっと、そう言われてきた。

 この島スネーストルムの民は、ほとんどが十五で成人を迎えると共に結婚する。長く厳しい冬、どこの家にも入らずに生きていくなんて、この土地では絶対にできない。そして親たちも、いつ極寒の中で命を落とすかわからない。だから皆、十歳になる頃には決められた婚約者を持ち、成人と共に結ばれ、できるだけ早く次の代に血を繋いでいく。

 そんな島の暮らしが、オリヴェルは嫌だったんだろうか。それとも、ただ他の娘が良かっただけなんだろうか。私はオリヴェルじゃないから、それはわからない。

 私は捨てられたのだ。独り身のまま十五の夏を迎えてしまったのだ。

 ただそれだけが、確かなことだった。


 その日、私はいつものように、市場へ葦籠を受け取りにいった。

 指定の籠にいっぱいの薬草を摘んでこられれば、それだけで家族みんなが一ヶ月過ごせるだけの銀貨になる。ほとんどの日はそこまで多く採れないけれど、どちらにしても、短い夏にできるだけ稼いでおかなければ冬は越せない。

 仲買人さんに籠を借りて、どこへ行こうか考えていると、不意にどこかから私の名前が聞こえてきた。


「ユーリアが……の子、……から、ね」

「オリヴェルも……ねえ。せめて……」


 声の方を振り向くと、同じ籠を持った若い娘が二人、立ち話に花を咲かせている。

 ぎろりと睨みつけてやると、片方が私に気付いた。一瞬だけ目をしばたたかせた後、娘はにっこり笑った。


「ああ、ユーリア。何か用?」


 悪びれもしない、いやらしい笑いだった。


「いや、別に……なにも」


 それ以上何を言う気もしなくて、私はそのまま市場を立ち去った。




 町の出口、古びた木製の門を出ると、道の両側には草原が広がっている。

 見渡すかぎり黄緑色の若葉がそよぎ、その合間に薄い黄色や桃色のつぼみが芽吹いている。その合間、ところどころに葦のむしろが敷かれ、人の頭くらいの透明な珠がぎっしりと並べられていた。

 光を出し切って抜け殻になった「白夜灯」の群れだ。短い夏の間、こうして日差しを吸わせて冬に備えるのだ。

 この景色を見ると、夏だな、と思う。人も草も白夜灯も、太陽があるうちにたっぷりとその恵みを蓄える。そうしないと、冬を生き延びることはできないのだから。


(でも……どうして?)


 不意に湧いてきた問いかけに、私は答えることができない。夏に働くのは、冬に備えるため。冬を生き延びるのは、次の夏を迎えるため。

 終わらない繰り返しには、何の意味があるんだろう?

 婚約相手に捨てられて、私は一生物笑いの種にされる。夏が来ても、冬が来ても、その先の夏が来ても。なら、なんのためにこんなことを繰り返すのだろう? ただ馬鹿にされ続けるためだけに?

 ぼんやりと考えながら、私は砂利混じりの道を山側へ向けて進んでいった。




 しばらく後、私は町はずれの岩場に来ていた。島唯一の川が流れを急に変えている場所で、大小さまざまな黒い岩がそこら中に転がっている。

 薬草を採るのに、わざわざここまで来る人はほとんどいない。大小の石が多くて歩きにくく、岩の隙間に生えた草は探すにも見分けるにも手間がかかる。草探しだけなら、町に近い草原で探した方がずっとやりやすいし、採れる量も多い。

 けれど今、私はひとりになりたかった。誰にも見られず、話しかけられず、ただ草だけを摘んでいたかった。

 しばらく辺りを探すと、黒と灰色が斑になった大きな岩の上に、細いナイフのような青葉がいくつも伸びているのが見えた。ホード草かもしれない。私たちにはなんの使い道もないけれど、王都の魔導士様たちには高く売れる草だ。ショクバイ、とかいうものに使うらしい。

 ただ、ホード草に似た形の草はいくつかある。揉み潰して匂いを嗅げば、簡単に区別はつくのだけれど。

 まずは確かめないと――私は手近な足場を探した。幸い、大岩の傍らには小さな四角い岩がいくつか積み重なっている。踏み台にすれば、ぎりぎり手が届きそうだ。


(よっ……と)


 足元を確かめながら、慎重に上る。だが手を伸ばしても、あと少し、ナイフのような葉には届かない。

 私は懸命に背伸びをした。

 爪先にぐっと力を入れた。瞬間、不意に、足元から地面の感触が消えた。


(…………!?)


 均衡を失った身体が落ちる。

 宙に舞った手足が岩に叩きつけられ、跳ねながら落ちていく。

 足場が崩れたのだ、と思い当たったのは、岩の上を転がり落ち、地面にすっかり投げ出されてからだった。


 身体中が痛い。痛くて、身動きがとれない。

 起き上がろうにも、打ちつけた左肩がひどく痛む。右肩側に力をかけようとすると、今度は足にも鋭い痛みが走った。

 あとでわかったことだけれど、そのとき脚の骨は折れてしまっていた。

 起き上がれないまま、私はただ脂汗を浮かべ、岩の隙間に横たわっていた。


 このまま死んでしまうのかな、と思った。

 この岩場に来る人はほとんどいない。私は立ち上がれもしないまま、誰にも見つからず、ただ弱って土に還るのだろうか。

 それもいいかな、と思った。

 戻ったところで、待っているのは恥を晒すだけの日々だ。だったらきっと、ここで消えてしまった方がいい。オリヴェルが町からいなくなったみたいに。

 私は目を閉じた。もう、なるようになればいい。


 初夏のそよ風が頬に当たった。一年のうちで一番気持ちがいい季節の風だ。

 この風に包まれて死ねるなら、悪くないかもしれない。冬の嵐に凍えるよりはだいぶ幸せな最期だ。

 そよそよと吹き通る風の圧が、ほんの少し強くなった。


(雨でも来るのかな)


 雨は嫌だな。できれば、気持ちのいい日差しの中で死にたいな――などと考えているうち、風はますます強くなってくる。同時にばさばさいう羽音と、かすかな獣くささが漂ってきた。

 そこでさすがに、私も気がついた。

 日差しが翳る。同時に、私は目を開けた。

 そこには、赤い革製の首輪をつけた一頭の鷲獅子グリフォンが、首を傾げて私を見下ろしていた。




 私を食べにきたのかな、と、一瞬馬鹿なことを考えてしまった。

 そんなわけはない。この子はちゃんと首輪をしている。この吹雪の島スネーストルムでは、夏の間「北国ほっこくグリフォン」と呼ばれる種類の鷲獅子を飼っているのだ。首輪は飼い鷲獅子の証。

 南に棲む鷲獅子は獰猛で、人や家畜を襲ったりすることもあるようだけれど、北国グリフォンはごくおとなしい種類だ。人によく馴れ、大きさも馬くらい。南の鷲獅子は見上げるくらいの大きさだそうだから、だいぶ控えめな大きさだ。それでも昔は暴れることがあったらしいけれど、王都から魔道具が入ってきてからはそれもなくなった。北国グリフォンのために作られた「鎮静の首輪」をつけてやれば、危ないことはまったくない。他の生き物を襲うことも、逃げることもなく、放し飼いすら何の心配もなくできる。

 この子も放し飼いの一頭なのだろう。首輪が赤だから、付け間違いでもないかぎりは雌だ。


「どうしたの」


 私が声をあげると、鷲獅子は逆の方向に首を傾げた。金色の琥珀のような目が、ぎょろりと私を見下ろしてきた。

 首輪に木の札が下がっているのが見えた。「十二 アルヴァ」、と書かれていた。この子につけられた番号と名前なんだろう。


「みんなと一緒にいないの。ここ、誰もいないよ」


 きゅるる、とアルヴァは鳴いた。そうして、獅子の四つ足を折って、私の側に屈み込んできた。

 下半分の獅子の身体には、乱れひとつない茶色の綺麗な毛並みが生え揃っている。上半分の鷲部分は、真珠のように艶々した白い羽に覆われていて、くちばしも蝋を塗った若木のように黄色く光っている。春に生まれたばかりの、汚れも老いも知らない瑞々しい命だった。ただ、赤い革の首輪だけがひどくくたびれていて、そこだけが奇妙に不似合いだった。

 不意に、ざらついた熱さを脚に感じた。目だけを動かして見れば、アルヴァのくちばしから赤い舌が見えていた。傷口を舐めているんだろうか。


「……私、おいしい?」


 思わず訊いてしまった。なんだか滑稽だな、人の言葉なんて通じるわけがないのに。

 なんて思っていると、アルヴァは不意にくちばしを脚から離した。そうして、私の顔に近づいてきた。

 正面から見据えられると、目の力がものすごい。琥珀色の目にぎょろりと睨まれ、背筋に寒気が走る。

 思わず、目を閉じた。


 頬にさっきまでと同じ、ざらりと湿った熱を感じた。

 次いで鼻に、額に。ざらざらが顔中を駆け巡る。

 気持ち悪い、と思った。でも今の私では、逃げることも撥ねつけることもできない。ただされるがまま、私はアルヴァに顔を舐められ続けていた。

 やがてアルヴァは舐め疲れたのか、私の傍らに座り直したようだった。目を開けてみれば、四つ足を折って座る姿は、貴族の紋章から抜け出てきたかのように堂々としていた。宝物の番かなにかをしているようにも見えた。


(だとしたら……私が宝?)


 そんなわけない。私はただの情けない町娘で、家に戻れば笑い者になるだけの――

 と思いかけた瞬間、アルヴァが私の方を向いた。

 きゅるるるー、とアルヴァは一声高く鳴いた。

 鳴き声の意味は、私にはわからなかった。けれど、とても暖かい声だった。



 ◆ ◇ ◆



「ねえ。アルヴァ」


 白夜灯の記憶の中で、私は傍らに座るアルヴァに語りかけた。

 真珠の羽と、茶色の毛並み。幻の中の鷲獅子は、あの時とまったく変わりない姿で私の傍らにいる。

 地平線まで続く花の絨毯も、短い夏の間とまったく変わりない姿で、若い獣の足元を飾っていた。


「私、ずっと一緒にいたかったんだよ」


 アルヴァは大きなくちばしを天に向け、きゅるるーるるー、と高く鳴いた。

 その声が懐かしくて、私は白い羽毛に覆われた首に抱きついた。抱きついて、ぽろぽろと涙を流した。



 ◆ ◇ ◆



 岩場で怪我をして動けなくなっていた私は、その日の夜に鷲獅子飼いの少年に見つけてもらい、なんとか町へ戻ることができた。鷲獅子の一頭が戻らないことに気がついて、皆で探していたところ、私と一緒にいるアルヴァを見つけた……ということらしかった。

 父さんにも母さんにもひどく叱られた。兄さんは何も言わなかった。


 お医者様に薬を塗られて添木をされて、私はその後一月くらいを家で寝て過ごした。書き入れ時に動けない穀潰しと、父さんは顔を合わせるたびに私を罵った。母さんも兄さんも、怒りをぶつける父さんに何も言わなかった。

 ただ一度、酔った父さんが「港の人買いに売り飛ばしてやる」と言った時だけは、母さんが止めてくれた。でも、その時だけだった。


 結局、私が外に出られたのは七月も終わりになってからだった。白夜の季節が終わりに近づき、ひさしぶりの夜が迫っていた。

 これまでの遅れを取り戻そうと、籠を手に草原に出ても、もうめぼしい薬草は採り尽くされていた。むしろの上に並んだ白夜灯は、すっかり日の光を吸って白く染まっている。

 夏の盛りはもう過ぎていた。あと一、二週間もすれば、秋の風が吹き始めるだろう。


(この夏と一緒に、私も終わるんだ)


 なんとなく、私はそう感じていた。

 なにもかもが私を置き去りにしていく。私を嘲笑い、罵り、貶めながら。

 来年の夏、私がどんなふうに生きているか、私は想像できなかった。想像したく、なかった。

 目の前の草原で乱れ咲く花々は、三本に一本ほどが枯れ始めていた。しおれた花びらの下に、ぷっくりと膨れた実がいくつも見えた。

 実と種を残して草は死ぬ。他の多くの虫や動物たちも、冬を越さずに死んでいく。

 私も同じなのだと、私はどこかで信じはじめていた。




 あれは、八月の初めの日だった。

 眠れない夜だった。何度も目が覚めて外を確かめたけれど、白夜の太陽は同じところにずっとあって、なかなか場所が変わっていかない。

 寝直すことをあきらめて外に出てみると、地平線すれすれからの橙の光が私を照らした。夏の間、この土地では太陽が沈むことはない。だから真夜中でも、太陽は地平線の近くに出たままで、空は夕焼けのように燃えている。この島の、昔から変わらない夏の姿だ。

 そしてその夜も、家々は炭火のような鈍い赤に染まり、まるで炎か血のようだった。


(炎……血)


 この赤に包まれて、私は消えるんだ。そう、私は感じた。

 理由はなかった。けれど不思議なくらい、そうなるのが自然のように思えた。

 私は寝間着から麻の仕事着に着替え、何も持たずに家を出た。


 橙の光に、家々の影が長く伸びている。動くものもない街路を、ただ進む。

 門のところで、番人に呼び止められた。港へ伝言ですと言えば、気をつけるんだよ、とだけ言って通してくれた。


 草原の草たちも、とりどりの花々も、皆一面の橙に染まっていた。赤く燃える世界の中、ほのかに白く光る白夜灯たちの間を、私は無言で歩いていった。


 町はずれの崖に来た。

 海の方を眺めると、水平線の近くにたくさんの漁火いさりびが浮かんでいる。冬になれば海も荒れるから、今のうちにできるだけの魚を捕らなければならない。魚の塩漬けは冬の大事な食料になる。けれど、もうそれもどうでもいいことだ。

 私に、もう冬は来ないのだから。

 崖の縁へ向けて、一歩を踏み出す。

 少し足が震える。だめ、こんなところでためらっちゃいけない。

 もう一歩、踏み出す。あと二、三歩も進めば、私の身体はまっさかさま――


 と、その時だった。

 きゅるるるー、と声が聞こえてきた。振り向けば、大きな翼を広げた鷲獅子が一頭、目の前に舞い降りてくるところだった。



 ◆ ◇ ◆



「ねえ、アルヴァ」


 白夜灯の記憶の中、私は傍らの鷲獅子に頬擦りしながら囁いた。


「また、飛んでもらってもいいかな。……あの日みたいに」


 アルヴァはきゅるー、るるるー、と鳴いた。そうしてゆっくりと膝を折り、私の前に背中を晒した。

 真珠から紡ぎ出したような羽毛、その羽毛に覆われた二枚の翼。その隙間に、私は這いつくばるように身体を収めた。

 アルヴァの首には、くたびれた革の首輪が巻かれている。私はその留め金を外し、地面に投げ捨てた。こんな汚い不格好なもの、綺麗なアルヴァに全然似合わない。

 自由になった太い首に、私は自分の両腕を回した。


「飛んでいいよ、アルヴァ」


 ばさり、と音を立てて、大きな翼が広がる。

 次の瞬間、翼が勢いよく打ち下ろされた。ふわりと、私とアルヴァが宙に浮く。

 振り落とされないよう、腕に力を籠める。

 二度、三度。翼が大きく羽ばたくたび、私たちの身体が舞い上がっていくのがわかる。


 ああ、あの日と同じだ。

 町はずれの崖から、アルヴァと一緒に飛んだ日と。


 力強い羽ばたきはやがておさまり、アルヴァは翼を大きく広げたまま、ゆったりと滑るように空を渡りはじめる。

 心地よい風を額に感じながら、私はアルヴァの頭越しに、下の世界の景色を見た。


 やっぱり、あの日と同じ景色だった。


 私の家もオリヴェルの家も、市場も町の門も、貝殻細工の彫物みたいに小さくて細かい。白夜灯が並ぶ草原も、怪我をした岩場も、港も船も、なにもかも全部、赤い貝殻を刻んで作ったカメオ彫刻みたいで……石の床に落としてしまえば、簡単に割れてしまいそうだ。

 山の向こうに隣町も見える。こうして見ると、本当に近くて……やっぱり、細やかな細工物。

 白い波が立つ海の上には、船の灯りが点々と見える。こうして見ると、光は意外と岸の近くにしか見えない。


 そして、暗い海の向こう側には、もっと立派な彫刻があった。


 白夜の朱に染まった港は、私たちのよりずっと大きい。取り巻くように立ち並ぶ細かな何かは、遠目からでも、赤い光の中からでも、とりどりの色を持っているように見えた。踏めば潰れてしまいそうに見える飾り物の群れは、近づいたときにどれだけの大きさなのか、私には想像もつかなかった。


 草原と海。

 白夜の赤い空。

 その端々にへばりつく、叩けば壊れそうな細工物たち。


 あの日、私もそれを見た。

 アルヴァの背で、私は知った。

 私のいるところは小さな細工物で、私はそれより小さくて。

 白夜の世界が一幅の絵巻物だとすれば、端に描かれた小さな飾りでしかないのだと。






 気がつけば私は、黒い土壁に囲まれていた。

 父さんと兄さんの冷ややかな目が、私に注がれている。白夜灯の記憶は終わってしまった、みたいだ。


「灯りにあてられてやがったか……役にも立たねえ穀潰しのくせに」


 お決まりの罵りを浴びせられながら、私はゆっくりと下を向いた。

 アルヴァはもういない。あの子は「家畜」だったのだから。

 アルヴァと一緒に飛んで、飛び立ったのと同じ崖に戻って……その後、私は時々、鷲獅子飼いたちの様子を見に行くようになった。けれど飼い主たちが呼び集めた鷲獅子たちの中で、どれがアルヴァなのかさえも遠目にはわからなくて、私はただ遠巻きに見守っているしかできなかった。

 そうして九月の初めのある日、鷲獅子たちはいなくなった。繁殖用の何頭かを除いて、みんな「物」になった。

 鷲獅子に捨てるところはない。硬い羽は、羽ペンや飾り物の材料になる。毛皮は服の材料になる。骨とくちばしは彫刻の素材になる。目玉や爪や内臓は魔導士様たちに珍重される。

 そして、肉は、私たちの冬の食べ物になる。


「そろそろ、飯だぞ」


 兄さんが、麻袋から干肉を出して私たちに配る。その袋の口に、「十二」と書かれた木札が下がっている。

 心臓が跳ねた。

 アルヴァの首輪についていた番号が思い出されて、伸ばした手が止まる。


「どうした。いらないのか」


 兄さんが不機嫌そうに言う。しかたなく、私は手を伸ばした。

 赤黒い肉片が一枚、私の手に乗った。臭み消しの香草の匂いが、つんと鼻をつく。

 目頭が、じわりと熱くなった。


(ごめんね)


 私は、心の中で謝った。


(あの日、一緒に逃げれば……よかったね。ここじゃないずっと遠くに、海の向こうに)


 オリヴェルみたいに逃げればよかった。

 ここにいれば、どうなるかはわかっていたのに。首輪を外さないかぎり、アルヴァはこの島を――いや、この街さえ出られないことはわかっていたのに。

 わかっていたのに、私は、なにもしなかった。

 空を駆ける鷲獅子の背中で、掴まっている以外のことはできなかったかもしれない。けど、でも、きっとほかになにか――


「食わねえなら、俺が食うぞ」


 父さんの怒り声に、考えを断ち切られる。伸びてくる太い指を、すんでのところでかわす。


「食べる。……食べるよ」


 目をつぶって私は、赤黒い肉を口へ運んだ。

 香草の匂いと塩の辛さが口いっぱいに広がる。固く筋ばった肉を何度か噛んでいると、少しずつ、獣くささと肉のうまみがにじみ出てきた。

 頬を、熱いものが一筋流れ落ちた。


 アルヴァが残してくれたもの。冬を生きるための、夏の置き土産。

 何度も噛むうち、干肉は獣の味を滲ませながら柔らかくなっていく。


 私は、心を決めた。


(アルヴァ。……私、ここを出るよ)


 今は雪と嵐に閉ざされているけれど、夏が来ればきっと。

 次の夏、私は籠いっぱいに薬草を摘むよ。そうしたら市場で銀貨に替えて、港から船に乗るよ。

 アルヴァが見せてくれた、白夜の赤い空の向こう。私は必ず、そこへ行くよ。


 だから、今は。アルヴァの命、借りてもいいかな。

 この冬が終わるまで、アルヴァのくれた血肉で、生き延びさせてくれないかな。




 干肉の最後のかけらを、飲み込んだ。

 父さんは、つまらなそうに蜂蜜酒を飲んでいる。母さんは、表情もなく編棒を動かしている。兄さんは、ただぼんやりと白夜灯を眺めている。

 白夜灯の光には、ほんの少しの揺らぎもない。土壁に叩きつけられる氷と風の音の中で、白い輝きを見つめながら私は呼びかけた。


(また会えるかな。アルヴァ)


 冬はまだ長い。明けない夜の間、まだいくつも白夜灯を替えなければいけない。

 だとすれば、きっとまた見られるだろう。アルヴァのいた夏の記憶を。


 そのときは伝えるんだ。

 私は、きっと飛んでいくよ、と。

 アルヴァのくれた命をつないでいくよ、と。


 アルヴァと一緒に見た、あの赤い空の向こうで。



【完】

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白夜灯 五色ひいらぎ @hiiragi_goshiki

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