最終節
21「お待たせしました」
「お待たせしました」
声をかけられて目を開ければ、書斎の机の前に砂川史朗が立っていた。
「遅いぞ……君が遅いから、粗相をしてしまったじゃないか」
わき腹を刺されて、力を入れると痛くなるというのに階段を上がらされて、書斎の椅子に拘束されてから、ずいぶんと長い間放置されていた。
その間に尿意に耐えられず、椅子に座ったまま放尿することを選んでしまった。濡れた下半身が気持ち悪い。
「すみません。そこまで気が回りませんでした」
砂川青年が、心から申し訳なさそうに言う。
「構わんよ。どうせ死ぬ時には、色々垂れ流すだろうからね……名誉も何も、あったもんじゃない……つっ……!」
笑おうとしたら、わき腹に大きな痛みが跳ねた。そこに刺さったままの凶器が生み出す痛みにはもう慣れたつもりだったが、腹筋が動くと新鮮な痛みが生まれるようだ。
「鎮痛剤を、飲みますか?」
「要らんよ……今から飲んでも、効くまで時間がかかるだろうからね……
それで、証拠隠滅は、終わったかね?」
「はい。スマホもバイブも始末しました。これで、峰さんを守ることができます」
砂川青年は満足気に目を細めた。
「真治が守られる、ということは、私と真治との関係も……」
「他人に知られることはありせん。もちろん、裁判記録にも残りません。代わりに、私との関係を疑われるとは思いますが、確たる証拠はありません。疑い止まりです」
「都合よく疑ってくれるものかね?」
「それらしい証拠を用意しましたから、多分」
「証拠……?」
「あのバイブを使って、自分で肛門に傷をつけました」
蒼田は思わず、目の前の青年の顔を見つめてしまった。
直後、胸の中にざわつくものが生まれた。
不能になって、何度かそちらからの検査をした。
正常な男であれば、味わわなくて済んだはずの屈辱は、蒼田にとって耐えがたいものだった。ED治療のための通院をやめたのもそれが理由だった。
峰真治に対して肛門を使った自慰を命じたのも、命令に抗えない砂川史朗を道具に真治を犯させたのも、それを鑑賞したのも、スマホで動画を撮らせたのも、蒼田にとって屈辱的で耐えられないと思う行為を真治に命じてきたにすぎなかった。
誰に命じられたわけでもなくそれを実行した砂川史朗に、蒼田は畏敬にも似たものを感じた。
「痛くないのかね?」
そう聞けば、青年は笑った。
「鎮痛剤を飲んだので、今はあまり。少なくとも、腹を刺されたあなたよりは痛くないと思います」
もっともだ。
「真治への口止めは?」
「私たち三人の本当の関係を口外したら自殺すると、伝えてあります」
「それは効くだろうな……真治には逆らえまい」
自分が思いつく青年の計画の穴が確実に塞がれていることを確認し、蒼田はほっと息を吐いた。
朝、訪ねてきた砂川史朗を招き入れようとしたら後ろから刺された。
振り向いて見えた、興奮の見えない冷ややかな目に、「これは本気だな」と思ったとき、砂川史朗は言ったのだ。
「2階の、玄関から一番遠い場所に向かってください」
「なぜだね? ここで私を殺してしまえばいいだろう?」と聞けば、「時間が必要なんです」と青年は言った。
「あなたと、峰さんと、私、三人の関係を示す証拠から、峰さんの存在を消すための時間が、必要なんです」
右の背中寄りのわき腹で、心臓の鼓動に合わせて脈動する痛みを感じながら、蒼田は思った。
悪くない。
たとえこの場を切り抜けられても、本気で自分を殺そうとしているこの青年を放置して日常に戻れるわけもない。警察に頼らず処理するのも難しい。
そして、警察が介入することになったら、さまざまなことが明らかになってしまうだろう。
白血病の妹の治療費を盾に生徒を性的に虐待し、さらに従業員に生徒との関係を強要していたという、教育者としてあるまじき行為。挙句、所有会社にドナー休暇制度を導入することを餌にその生徒を養子にし、本人が望む血液内科の権威が居るK大医学部ではなく地元のG大医学部の受験を命じ、手元に縛り付けようとしていた。
公になれば大スキャンダルだ。
学校の評判は地に落ちるだろう。ホテルのイメージも落ちる。今まで自分が積み上げて来たものが崩れ落ちる。
それだけではない。
生徒を性的に虐待していながら、自分では性交しておらず、従業員に犯させてその様子を鑑賞していたという実態が知られれば、「なぜ自分で性交渉をしなかったのか」という疑問を当然持たれるだろう。
不能だからこういうことをしていたのだと噂されるようになることは、十分考えられる。
ぞっとする。
生き延びてそんな無様を晒すくらいなら、今、この青年に殺される方がずっとマシだ。この青年が、自分と真治との関係を隠してくれるのならば、好都合というものだ。
そこまで考えて、蒼田は気づいた。
自分がとうに、生き続けることに意味を見い出さなくなっていたことに。
むしろ、これで終われると安堵さえしている。
絶対に勝てないと感じる強敵を相手にしたテニスの試合の最中に、怪我をして試合続行不可能になったときの感覚に似ていた。
ああ、悪くない。
この終わり方は、決して悪くない。
「スーツのシガーポケットに私物のスマホが入っている……」
わき腹で脈打つ痛みを生み出し続ける果物ナイフを、まだ握りしめている砂川青年に蒼田は言った。
「今日は家政婦が来る日だ……まず、LIMEメッセージで、家政婦に『今日は来なくていい』という連絡をしたまえ」
そして蒼田は、証拠の隠滅に自ら協力したのだ。
「もうひとつ……聞いてもいいかね?」
ぶり返してきた痛みに眉をしかめながら、蒼田はたずねた。
「何でしょう?」
「……なぜ、私を殺すことにしたのかね?」
それは、この青年にまだ聞いていないことだった。
「君だって、これからも真治を抱きたいと思っていたのだろう? だから、逃げ出さずに……東京からこちらに戻って来たのだろう?
私は、君に真治を抱けと命じることができる……君は職を失わないために、私に従うしかない。
君には罪はない……君には汚い欲望もない。
『そういうこと』にして――全部私のせいにして、君は真治を抱き続けることができる。
君は……それを望んでいたんじゃないのかね?」
この青年が真治に対して自発的な性的欲求を抱くようになっていたことには気づいていた。
だからこそ、父親が死んで金銭で支配することが出来なくなっても、引き続きこの青年を利用できると踏んでいたのだ。
正直、こうなったのは蒼田の計算外だった。
「だからですよ」
砂川史朗は言った。
「こんな私から、そんなあなたから、峰さんを守るためには、私があなたを殺すのが一番良いと判断しました。
あなたが死んだら、遺産は峰さんと華子ちゃんのものです。彼はその遺産で、なんの憂いもなく勉強ができる。彼の望む大学に進み、彼の望む道に進み、彼の望む者になれる。
私が、峰さんから離れるだけでは駄目です。あなたは、私の後釜を探せばいいだけです。
あなたが死ぬだけでも駄目です。たとえあなたがいなくても、私はもう峰さんを自分から手放すことができない。どんな手を使ってでも、峰さんに触れたいという気持ちを、きっと抑えきれない。それが峰さんのためにならないとわかっていても、きっと耐えられなくなる。
だから、私がこの手であなたを殺すんです。あなたが死んで、私が逮捕されていなくなれば、峰さんは私に抱かれなくてもよくなります。私以外の男に抱かれることもない。
あなたからも私からも、自由になれ……」
「はっ、たっ、つっ……!」
腹筋がひくついて、傷に痛みが走る。
「……笑わせないでくれ、傷に響く。
自分のために君が私を殺して……それで真治が自由になれるわけがないだろう? 真治は、死ぬまで君に囚われ続ける……君を忘れることができなくなるだろうよ。
……それとも、それこそが、君の目的か?」
「さあ? 私にも、もうよく分からないんですよ」
砂川青年は小さく笑った。
「ただ私は、『どんなことになっても諦めない』と言った峰さんが、諦めないで済むようにしたかったんです。峰さんの障害となる物を取り除けるのなら、それでいいんですよ」
蒼田のあずかり知らぬところで交わされたのだろう真治の言葉を、青年は愛おし気に口にした。
「私が君なら、それでいいとは思えんな……」
蒼田は言った。
「自分が塀の中では……意味がないだろう」
もっとしっかり計画を立てて、捕まらないように自分を排除して、峰真治を手に入れるのがベストだと蒼田は思う。
「私が側にいたら、峰さんは幸せになれないでしょう?」
砂川青年は言った。
「医師になって、人の命を救う仕事をしながら、真剣に思いを寄せてくれる女性と結婚して、子供を作って、家族を増やす。
寂しいなんて思う暇もないほど賑やかで温かい家庭を築く。完治した華子ちゃんも、頼りになる誰かを見つけて、たまに子供でも連れて遊びに来る。
そんな未来が、峰さんが手に入れるべき当たり前の幸せです。あなたと私が余計なことをしなければ、得られるはずの幸せです。
私は、それを峰さんの手に取り戻させてあげたいんです」
それは、かつて蒼田自身が当然に手にすると思っていた未来の姿に似ていた。
おそらくは、この青年自身が当然に手にすると思っていた未来の姿でもあるのだろう。
「君は……それで満足できるのかね?」
「ええ」
砂川史朗は、笑った。
目を細めて、これから起こるとても楽しいことを夢想するように、幸せそうに。
「そこが刑務所の中でも、絞首台の上でも、あなたの作る檻から、私の腕の中から解き放たれて自由になった峰さんを思えば、私は満足できます」
心からそう思っているのだろうと感じさせられる言葉。
自分ではその未来を得られなくなってしまったというのに、何一つそれを惜しんでいないように見えるこの青年の笑顔に、蒼田の体の中で何かがざわめいた。
じっとしていられないような気分になってしまう。
自分の突き付ける、自分ならば絶対にできないと思う指示に従う峰真治を目にする度に感じていたのと同じ、この気持ち。
笑いたいわけではない。
性的な衝動でもない。
嗜虐の衝動でもない。
もっと純粋な、この気持ち。
「砂川君。君は……突然、両手を振り回して喚きたい気分になったことがあるかね?」
唐突な質問に、砂川青年は目をしばたたかせた。
「父の死の連絡を受けたとき、そういう気分になりましたね」
「そういうネガティブな気分ではなく……その対極にあるような気分なのだがね」
「ポジティブな気分で、ですか? ああ、一度ありますね」
「どんなとき……だね?」
「高校生の頃、統一全日本戦のオナーダンス――競技ダンスの日本最高の大会で、優勝者のエキシビションを会場で観たとき、感動のあまりそういう気分になりました。
立ち上がって、声を上げて両手を振り回したいような、じっとしていられないほど高揚した気分になったのを覚えています」
砂川青年の説明は、蒼田の中にあった、ずっと名前がわからなかった感情にしっくりと馴染んだ。
「感動……ああ。そうか。これを感動と呼ぶのか……」
自然と、唇に笑みが浮かんだ。
「楽しそうですね? 怖くないんですか?」
「『見るべき程の事をば見つ』だ。自害ではないけれどね……」
「知盛ですか……では、そろそろいいですか?」
そう言って砂川青年は、背負っていたデイパックから新聞紙に包まれた物を取り出した。新聞紙の中から出てきたのは、刃渡り20センチほどの幅の広い、鉈にも似た湾曲したナイフ。
「できるだけ苦しまないような殺し方を考えて来ました。すぐに楽にしてあげますから、おとなしく死んで下さい」
「君は……優しいのかそうでないのか、わからないな」
砂川青年は、蒼田が拘束された椅子の背後に回った。
「これから、あなたの頸動脈を切ると同時にカウントを始めます。ゆっくり1から100まで。テンポ30くらいですから大体200秒。数え終わる前に、あなたは失血で意識を失っていると思われます。
どんなに痛くても、苦しくても、200秒にも満たない時間を我慢すれば終わりです。終わりが見えていれば、我慢しやすいでしょう?」
「それはいい……ではその間、私は君と真治との楽しい思い出を振り返ることにしよう」
蒼田が笑顔で言えば、「どうぞ、ご自由に」と砂川青年は言った。
「嫌ではないのかね?」
「殺されるあなたには、最期の瞬間に好きなことを思い描く権利があると思います」
それに、と砂川青年は続けた。
「それに、私はあなたに感謝していますから。
こんな私の生に、再び意味を与えてくれた。この人のために出来る限りのことをしたい、そう思える人と、峰さんと出会わせてくれたあなたに感謝していますから」
「本当に君は……優しいのかそうでないのかが、わからないな……」
蒼田の左耳に顔を寄せる砂川青年の右手が、蒼田の頭を抱くように回され、蒼田の両目を右掌が覆う。
「願わくば、あなたに安らかな眠りを」
暗くなった視界。ささやくような、穏やかな声。
ひたりと、右の首筋に冷たいものが当たる。
「死は無だ。眠りなどではないさ……気遣いは無用だよ。
では、さようならだ。あとは上手くやってくれ」
耳元で笑うような気配がした。
「……ありがとうございました」
その言葉と共に、右の耳の下からぐるりと首の皮膚と肉が引き攣れ擦れ、その摩擦で熱が生まれたように熱くなった。
「いーち、にー、さーん……」
耳元で始まったカウントの声は、あくまでも優しかった。
終
動機 ももとせ鈴明 @s-100
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