鬼の風穴
神崎あきら
鬼の風穴
ぼくは鬱蒼とした木が生い茂る森の中にいる。昼間のはずだけど、背の高い木立に覆い隠されて太陽の光は地上まで届かない。
薄暗い森を不安に苛まれながら歩く。すると、目の前に洞窟がぽっかりと口を開けている。中は黒よりも濃い闇だ。まるで世界中の夜を集めたような黒い穴。
洞窟の中はどうなっているのだろう、しかし、闇が怖くて洞窟に近付くことができない。
洞窟から滲み出た濃い闇がじわり、と足元に忍び寄る。ぼくは慄いて後退る。闇は足に絡みつき、容赦無くぼくを覆い尽くしてゆく。体温がどんどん失われてゆく感覚。
ぼくは頭の先まで闇に呑み込まれ、声にならない悲鳴を上げる。
目が覚めると、じっとりと全身を嫌な汗が覆っている。目覚まし時計の音が遅れて鳴り始めた。ときどき見る暗い穴の夢。闇に呑み込まれて、すべてが真っ暗闇になる。そこで目が覚めるのだ。
思えば、ストレスを抱えているときに決まって見る夢だ。そこ知れぬ闇に呑み込まれる恐怖は、目が覚めてもしばらく精神を蝕む。自己の喪失を暗示しているのかもしれない。
いつから穴の夢を見るようになったのだろう。それを思い出すことはできない。
隣町の高校へ向かう電車に揺られながら、胃がキリリと痛むのを感じた。
夏休みに学校に行くということは部活動か、補習だ。ぼくの場合は後者。大学進学を目指しているが、模試の判定に厳しい現実を見せつけられている。
中学生のときに観た法律事務所が舞台のドラマで、主役の弁護士に強い憧れを抱いた。正義と熱い想いを胸に秘め、法廷で戦う姿が格好良くて、将来は弁護士になりたいと思った。弁護士になるには大学の法学部で学び、司法試験に合格する必要がある。
しかし、今の成績では希望する大学の合格基準にほど遠い。司法試験の合格など夢のまた夢だ。担任の先生にも志望校を考え直すように言われたばかりだった。
正直、ショックだった。高校三年生の夏休み、今から飛躍的に成績を伸ばすことが難しいのは自分が一番よく分かっている。弁護士になりたい気持ちは、半ば諦めに変わっていた。
今から何を新しい目標とすれば良いのだろう。気持ちの切り替えがすぐにできる訳はなかった。
電車がガタンと揺れて、また胃がキリッと痛んだ。
今日は補習の初日。三年生八クラスの対象生徒が合同で授業を受ける。教室は半分ほど席が埋っていた。クラスが多いので、顔を見たこともない生徒も何人かいる。ここにいるのは、自分を含めて模試の結果が芳しくない、いわゆる落ちこぼれ連中だ。
こんな気分の重い夏休みは初めてだ。周りに座る生徒も暑気にやられてやる気が見えない。
今日の授業は数学と英語だ。中学校まで数学は得意な教科だった。高校生になって急激にレベルが上がり、油断していたぼくはそこで落ちこぼれた。
勉強が楽しくなくなり、なし崩し的に他の教科も成績が落ちていった。
午前中で授業は終わりだ。みんなやれやれ終わった、と教室を出て行く。
「なあ、村上じゃないか」
渡り廊下で声をかけられた。振り向けば、見覚えのある顔だ。
「覚えてないか、小学校のとき同じクラスだった和田だよ」
名前を言われてようやく思い出した。和田はぼくと並んで歩き出す。
「俺も補習組なんだよ」
クラスが離れていると棟が違うので、顔を合わせることが少ない。和田がこの高校にいることも知らなかった。というか、覚えてすらいなかった。
学食でパンを片手に昔話に花が咲いた。高校のクラスのこと、志望大学のこと、模試の結果、そして話題は遡り、小学校の思い出に差し掛かった。
「そういえば、覚えてるか」
それまで明るい調子でおどけていた和田が、躊躇いがちに切り出した。
「茶臼山のこと」
茶臼山は小学校の裏手にある山だ。小学校低学年でも遠足で登る程度の高さで、山頂には古墳が点在する。ぼくは閉じ込めていた記憶を辿る。
***
あれは小学校三年生のとき。ぼくと和田はクラスでも気の合うやんちゃ友達で、よく遊んでいた。
夏休みのある日、公園遊びに飽きた和田が茶臼山を冒険しようと言い出した。
「古墳を発見しよう」
有名人になれる、と和田は張り切っていた。ぼくも乗り気になって、茶臼山を登った。
山頂付近までは自動車も通れる整えられた道路が続いている。
夏の暑い日で、蝉時雨が降り注ぐ木漏れ日の下、汗を拭いながら歩いた。山頂の広場には小学校の遠足で来たことがあった。その奥には柵に囲まれた石垣が見えた。近くには「御陵」と看板が立っている。
「見つかっていない古墳がたくさんあるんだって」
山裾に家がある和田は、祖父からその話を聞いたらしい。まだ見ぬ古墳を発見する、子供心にわくわくする話だ。
ぼくたちは御陵の脇を抜けて山道を進んだ。古墳の外周を囲むように平坦な道が続いている。山歩きの大人二人とすれ違ったきり、誰にも会うことは無かった。深い森の中、先ほどまでうるさいと思っていた蝉時雨が寂しさを紛らわせる。
「ここ、降りてみないか」
和田が指差したのは遊歩道から脇道に逸れるルートだ。道の両側に立つ木には簡易的なしめ縄が括ってあった。正直、不気味だった。ここをくぐり抜けると別の世界へ通じているのではないかと思えた。
しかし、和田は行きたくてたまらないようだった。やんちゃ坊主が臆したと思われるのも嫌だった僕は、和田についていくことにした。
脇道は高く生い茂る木に日光が遮られ、薄暗かった。
最初は和田と古墳を発見したらどうする、新聞に載っちゃうな、なんてはしゃいでいたがそのうち無言になった。気まぐれな風に吹かれて木がざわめく音や、木の枝を踏み折る音に背筋がゾクッとする。
どれだけ曲がりくねった山道を下っただろうか、目の前が開けた。そこは、近所の公園ほどの広さで、明らかに人の手で作られた場所だった。
「看板がある」
和田が朽ちた看板を指差す。傾いた木の看板に、墨文字が書かれていた。
「鬼の風穴だって」
盛り土を回り込んで一段下にある洞窟についた名称だ。ここから穴の入り口は見えない。
和田とぼくは顔を見合わせる。鬼なんて、お伽噺の空想の生き物だ。小学生でも本気で怖いとは思わない。
しかし、日の光が届かぬ暗い深い森の中、肌が粟立つほどの恐怖が襲ってきた。気が付けば、蝉時雨も聞こえない。寒気を感じるほど気温が下がっていることに気がついた。
「帰ろう」
ぼくは反射的に和田の腕を引いた。
「ここまで来てなんだよ」
和田の意見はもっともだった。冒険者が洞窟を前にして怖じ気づくなんて格好悪い。しかし、とにかくぼくは心底怖かった。
短い坂道に石段が伸びている。石段は10段もなかった。この石段を降りて、回り込んだら鬼の風穴がある。
石段のひとつにペンキの跡だろう、乱雑に赤い印がつけてあった。消えかけた赤色、ぼくにはそれが恐ろしい警告のように思えた。
「すぐ下だ、行こうよ」
和田は洞窟への道を降りていく。ぼくは恐怖に負けて、その場から逃げ出した。
和田が背後で何か叫んでいるが、振り向きもせず山道を駆け上がる。落ち葉に滑り、木の根に足を取られ、何度も転びそうになった。
しめ縄を見つけて、遊歩道に出たときには心底安堵した。全身が汗びっしょりだ。振り向いてみると、和田は追いかけてこなかった。
ぼくは、和田を待たず山を下りた。
それから気まずくなって、夏休みの間和田とは会うことを避けていた。
新学期が始まっても和田とはよそよそしくなってしまった。クラスの友達に、和田が茶臼山の鬼の風穴を探検したことを話しているのを聞いて、友達を置き去りにして逃げたぼくは後ろめたい気持ちでいっぱいだった。
以来、僕はひどく臆病になってしまった。
***
「あのときのこと、ごめん」
和田の思わぬ謝罪に、俯いていたぼくは顔を上げた。
「なんで和田が謝るんだよ。逃げたのはぼくだ」
「あのな、俺、嘘ついてたんだ」
和田の言葉に、ぼくは目を見開いた。学校では、鬼の風穴を探検したと吹聴したけれど、実は怖くなって穴を覗かず逃げ出した。それが心に重くのしかかっていたのだと。
結局、和田もぼくも、鬼の風穴を覗くことはできなかったのだ。それが今も澱のように心の隅に溜まっている。
「なあ、もう一度茶臼山に行ってみないか」
「うん」
ぼくは一も二もなく頷いた。
地元の駅で電車を降りて、自転車で茶臼山の麓へ向かった。空き地に自転車を停めて山を登る。あっさり頂上に到着した。
「こんなに低い山だったかな」
和田の言葉に、あれ以来山に近付いていないことを思い出す。御陵を抜けて、遊歩道へ。
あのしめ縄はあるだろうか。もし見つけられず、鬼の風穴に辿り着けなかったら、そんな不安が胸を過ぎる。
でも、杞憂だった。しめ縄はあの時と同じように風に揺れていた。
降り注ぐ蝉時雨の中、脇道を降りていく。小学生のとき、怖々下った山道は舗装されていないものの、落ち葉は取り払われ倒木を並べて道としての形が整えられていた。
驚く程あっという間にあの広場に到着した。広場には最近建てられたと見える看板が立っている。
「鬼の風穴だ」
それは三世紀の古墳群のひとつで、この地で暴れた鬼を葬ったという伝承があるが、実際には地元有力者の墓だという。
ぼくと和田は少年に戻り、鬼の風穴への石段を下っていく。小学生のぼくはここで引き返した。今も正直、怖い。しかし、洞窟を絶対に見てやろう、という気持ちが勝った。
赤色のペンキのついた石段を見つけた。ぼくは一瞬、足を止める。あの時よりも赤色はくすんで見えた。
「どうした村上」
三歩先を行く和田が振り返る。
「なんでもないよ」
そうだ、なんでもない。大丈夫だ。ぼくは赤いペンキのついた石段を思い切って飛び越えた。
盛り土の裏側に回り込む。そこには、暗い穴があった。暗いが、しかしすぐ奥に壁が見えた。夢で見る洞窟よりもずっと明るい。穴は二メートルほどの奥行きで、崩れかけた石棺が安置されていた。
「ははは、こんなに狭い穴だったんだ」
和田が笑い出した。
「何も怖いことなんて無かった」
ぼくも釣られて笑う。そう、穴を覗き込む勇気が無かったぼくは、想像により恐怖心が膨れ上がり、悪夢に見るほどになっていた。
友達を置き去りにした罪悪感と臆病な心が、先の見えない暗い穴となってぼくを悩ませていたのだ。
和田もきっと、友達に嘘をついたという後ろめたさがあったに違いない。ぼくたちはしばらく穴の前で腹を抱えて笑った。空を見上げると、木々の間から眩しい木漏れ日が射していた。
***
翌朝、清々しい気持ちで目を覚ました。もう暗い穴の夢は見ないと確信できた。
友達を置き去りにした正義に反する行為への罪悪感が、弁護士への夢を無意識に否定していたのかもしれない。
あの時の卑怯な自分を記憶から掻き消すほどに恥じていたが、その贖罪は果たされた。
ぼくは夢を諦めずに挑戦しようという気持ちを新たにした。
補習クラスの終了後、鬼の風穴の話で和田と盛り上がっていた。
「あの洞窟、まさかあんなに狭かったなんてな」
「石棺から鬼でも出てくれば面白かったのにな」
和田も過去のしがらみから解放されたのが、始終明るい笑顔だ。
「それ、茶臼山の古墳のことかい」
同じクラスの池内だ。歴史マニアで、古墳にも詳しい。ひとりでよくフィールドワークに出かけている。
鬼の風穴の話をすると、池内は首を傾げた。
「鬼の風穴にあった石棺は二宮駅ホームに移設されたはずだけど」
貴重な古墳時代の出土品を多くの人に見てもらおうと、十年ほど前から最寄駅のホームに展示しているという。
つまり、あの洞窟に石棺は無かったということになる。
ぼくと和田は青ざめた顔を見合わせた。
脳裏に鬼の風穴の石棺が浮かび上がる。今度は不気味な石棺の夢を見るのだろうか。
ぼくには再び鬼の風穴を確かめる勇気がない。
鬼の風穴 神崎あきら @akatuki_kz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
台湾楽旅日和/神崎あきら
★27 エッセイ・ノンフィクション 連載中 9話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます