見えない星も
西しまこ
第1話
小田急に乗って窓の外を見る。
白っぽい色の家が建ち並ぶ。一画ごとに同じような種類の家々が並んでいて、おもちゃの家のようにも見えた。
スマホに目を落とす。通知はない。
わたしはため息をついてスマホを鞄にしまい、窓の外に目をやった。
樹木が多くなってきた。木々は葉の色を黄色に染め、澄んだ青い空に葉を揺らしていた。わたしの心持ちとは裏腹に秋の葉は煌めいていた。スマホは振動しない。
永山駅で京王に乗り換え、調布駅に向かう。調布駅からはバスだ。
小学校の高学年の頃、父に連れて来てもらった記憶がふいに強烈に蘇る。
そうだ、あのときもここからバスに乗った。
武91のバスに乗り込む。
あのときは父と二人だったけれど、今日は一人だ。
車窓から外を見る。
それからスマホでバス停をチェックすると、「天文台前」は「大沢橋羽沢小学校」の次だった。
わたしは三人きょうだいの長女で、下に弟と妹がいた。
あの日、なぜか母は怒っていて、わたしは母のお出かけに置いていかれたのだ。親戚のうちに遊びに行く予定で、前からきょうだいみんなで楽しみにしていたお出かけだった。
母が怒っていた理由は分からない。
でもそういうことはよくあって、わたしは何かと理不尽に怒られていた。同じことを弟や妹がしても怒られなかったけれど、わたしは怒られた。例えば、学校のテストも満点が当たり前で、満点でないと怒られた。でも弟や妹は満点なら褒められていたし、満点でなくても怒られるようなことはなかった。友だちを家に呼んでも怒られ、友だちの家に遊びに行っても怒られ、家で本を読んでいても怒られた。母の怒りのスイッチが分からず、昨日と同じことをしても今日は怒られたりした。
そんなわけでわたしはあの日母が怒っていることは分かっていたけれど、なぜ怒ったのかはまるで分らなかった。いつものことだった。
ただ、その親戚の家に行くことはとても楽しみにしていたので、置いて行かれたのは本当に悲しくて、ずっと泣いていた。
そこに休日出勤をしていた父が帰ってきた。
「お母さんは?」
「おばさんちに行った」
「……そうか」
父はそうつぶやくと、「じゃあ、お父さんと出かけるか?」と頭をなでた。
古びた門をくぐると守衛室があって、そこで入館手続きをする。
あのときも秋だった。
葉っぱがたくさん落ちていて、わたしは年甲斐もなく、わざと葉っぱの上を歩いた。かさかさと音を立てる感触が楽しかった。小学生だったあのときは、もっと傍若無人に落ち葉を踏んでいた。かさかさかさ。かさかさかさ。
樹木に抱かれる形で国立天文台はあった。
敷地には様々な木々があり、黄色や赤色の木々がきらきらしながら優しく揺れていた。もみじの木もあって、それは赤く色づいていて、でもその赤は一様ではなく、薄い黄緑から黄色、そして赤色、濃い赤色とグラデーションを放っていて、さらにそこに陽の光が射し込み、なんとも言えず美しかった。赤い葉に光が透けていた。
小学生のわたしが走っていく幻影を見た。
黄色いスカートをひらめかせながら。
お気に入りにスカートだったから、はっきりと覚えている。お出かけを楽しみにしていて、前の晩から準備していたのだ。
天文台というから、小学生だったわたしはプラネタリウムに行くのかと思っていたら、違った。そこは歴史ある様々な望遠鏡がある場所だった。最初わたしはがっかりしたけれど、古い建築物の中の古い大きな望遠鏡を見て歩くうちに、こころが満たされていくのを感じた。
あの日、わたしははしゃぎながらも父と会話することなく、紅葉の中、古い建物と歴史を背負った望遠鏡を見て回った。父は普段から無口な人だった。でも、わたしは言葉が少ない父から確かな愛情を感じていた。それは、あたたかな紅葉と一緒にわたしのこころの中に優しく沁みこんだ。
目が悪いと星も見えない。
大きな望遠鏡を見上げながら、この望遠鏡でなら余すことなく星を見られるだろうかと想像する。満点の星。けぶるような天の川。
大人になって、久しぶりに星空を眺めて驚いた。
父親と一緒に大きな望遠鏡を見て以来、わたしは星空を眺めるのが日課となっていたが、しだいに星を見ることはなくなっていた。久しぶりに見る星空は小さいころのそれとは異なっていたのだ。星が見えない。
もちろん、周りが明るすぎるから星が見えなくなったという理由もある。
でも、目が悪くなったことも大きな理由なんだと気づいて愕然とした。
目が悪くなったことは自覚していた。
人の顔がよく見えない。
だけど、見えなくていいやと思って生きてきた。
顔と同じように、誰かの思惑も見えなくていい。
「俺、エリカが何を考えているか分からないよ」
「え?」
「いっつも笑顔でさ。でも、時々、その笑顔が笑ってないんだよね」
「……」
「ほら、その顔だよ。なんで笑うの?」
「ごめんなさい」
「だから、どうして謝るの? 謝る場面じゃなくない?」
「……ごめんなさい」
「そうじゃなくて。……ねえ、俺はエリカが何を考えているか知りたいよ。エリカはそうじゃないの?」
「……ごめんなさい」
「だから、謝って欲しいわけじゃないんだ。……もういいよ」
星も顔も誰かの思惑も見えないままでいい。
そうやって、色々なことを見ないようにして生きてきた。
でも。
でも、タクミ。あなたの気持ちはちゃんと知りたいよ。それが本当のことだよ。
65センチ屈折望遠鏡がドームから顔を出して星を観測するところを思い浮かべる。望遠鏡の屋根がドーム型になっているのは地球が球形だからだと、今さらながら思い至る。赤道儀は日周運動に合わせて星を追う。
わたしのこころの中にも望遠鏡があって、ちゃんとタクミを追えるといい。そうして、あなたの気持ちを知りたい。目が悪くても見えるだろうか。
ふいに涙が零れ落ちた。
ごめんなさい。自分の気持ちを言えなくてごめんなさい。怖くて。
頭ごなしに否定されるのが怖くて。置いて行かれるのが怖くて。
誰の顔も気持ちも見えないまま、ただ合わせていればいいと思って生きてきたんだ。
大きな葉がゆらゆらと落ちてくる。
風景は残酷なほど明るくきらきらとしていて、眩しいほどだった。
ふいにスマホが震えた気がした。
急いでスマホを取り出す。
LINEが来た。
――いまどこ?
――天文台
――待ってて、行くから
――わかった
ベンチで空の青さと黄色と赤の葉っぱを見ていたら、ほどなくタクミが現れた。彼は苦笑いのように笑い、やっぱりここにいたんだね、と言った。
並んでベンチに座って、同じ景色を眺めた。
ちゃんと話そう、と思う。
過去のことのも今の気持ちも。
ちゃんと見よう、と思う。
彼の気持ちもわたしの気持ちも。
「ごはん、食べに行こ?」
握った手がとてもあたたかかった。
秋の澄んだ光の中で、黄色と赤の葉がきらきらと光をはじいて、わたしとタクミを包み込んでいた。
手を強く握り返して、タクミの顔をしっかりと見た。
近づけばちゃんと見える。
あなたはわたしの星。
見えない星も 西しまこ @nishi-shima
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