銃と踊り子 後篇
「被服倉庫に行きなさい」
髪の毛が一本入っていても狂いが出るのに、他人の使っていた沓を履くなんてとんでもない話だ。収容所到着直後に取り上げられた鞄の中に入っていた誰かのトゥシューズ。何百足もあった。これを履いていた若い女たちは何処に行ってしまったのだろう。
ぞっとして彼女は尻込みした。しかし彼女は黙って足に合うものを探し始めた。
愚か者にも分かるように派手に、大技を、愛想よく。それで充分だ。
衣は舞台衣装に近いものを身に着けた。
陰気な顔をした演奏者が細々と音を合わせている。収容所の中には楽団があった。彼らは同胞の囚人たちから極度に恨まれていた。楽団の構成員に選ばれると肉体労働は免除され食事も少し良いものになるが、それだけではなかった。囚人は楽団の演奏に送られて労働に出て、音楽に迎えられながら労働から帰ってくる。親きょうだいを殺した敵に協力し、人を小ばかにするような軽快な曲を奏でている楽団員は囚人たちの気を引き立てるどころか憎悪の的だった。
「素晴らしい。まさに
彼女をその夜の宴に連れ出した若い兵士は感動で真っ先に立ち上っていた。
「重力がないようだった。悪魔の娘オディールそのものだ」
観衆に向ける邪悪な笑顔は今夜ばかりは演技ではなかった。全員が戦死しますように。そう願って彼女は黒鳥の踊りを終えたのだ。
「約束だ。欲しいものを云って」若い兵士が昂奮しながら走ってきた。
ようやく拍手が鳴りやんだ。彼女は卓上に並んでいる料理を指した。
「今は胸がいっぱいだから、持ち帰って食べたいの」
「後で運んであげよう。他には」
「その拳銃」
「銃」
若い兵士の顔が強張った。その手が腰の銃を隠すように動いた。若い兵士は人が変わったような厳しい声で云い渡した。
「銃は駄目だ」
「冗談です」
オディールが王子を誘惑する時はこうだったに違いないというほどの妖しい笑みを彼女は浮かべた。
兵士の宿舎から収容所への帰りは若い兵士が送ってくれた。懐中電灯が夜道をほそく照らし、林は黒い壁を作っていた。不意に彼女は呟いた。あなたがいなくなったら誰がわたしを護ってくれるのかしら。
若い兵士が弾丸を喰らったかのように愕いた顔をしたのを、彼女は横目でみた。
あなたが死んだら、わたしのグランフェッテを他の誰があんなにも熱をこめて見つめてくれるかしら。わたしは踊り子として死にたい。ここには湖も崖もない。オデット姫のように王子と抱き合って身を投げることは出来ないわ。
先程の余韻がまだ胸に残っている若い兵士が古典の悲恋に引きずられている様子を少しずつ確かめながら、彼女は次第に兵士との間をあけた。若い兵士ははっとなり、大急ぎで闇に消えようとする彼女を追いかけてきた。夜の底に消えようとする黒鳥は腕をつばさのように少し揺らした。おいで、今晩の公演にはまだ続きがあるのよ。高く上げたこの脚でわたしの踊りに見惚れていたお前たちの頭を蹴り飛ばしていたことを教えてやろう。
あなたが去ったら、わたしの踊りを見てくれる人はもういなくなる。
黒鳥はしだいに白鳥に変わりつつあった。彼女はつま先立ちになり、わずかな動きで魔族のオディールから美しいオデットへと変貌してみせた。つま先から頭頂までが天の白い月と結ばれた。死の数を積み上げる地の果てに降りてきた白鳥は漆黒の風におののいて白い細首を夜空に傾けた。
見せてあげたかった、あなたに、わたしのオデットを。
闇の中から白鳥は瀕死の声をほそく振り絞り、不実な王子を責めるように若い兵士に腕を伸ばした。断崖の淵に立ち白鳥は告げた。
これでもう、生きる甲斐も踊り子でいる意味もない。
籠に入れられて、籠ごと背負われて彼女は何処かへ運ばれていた。彼女を背負っているのはあの青年だった。
うっすら眼を覚ました時にはすでに黄昏だった。大きな籠の底に座ってる彼女の上には雲が流れていた。常に空腹だった彼女にはそれが捌かれた鶏肉にみえた。
彼女は頭の上を覆っていた野菜を払いのけて籠から顔を出した。暮れていく空と田園に沈みつつある太陽が別の星の夕暮れのように眩しかった。
「おろして」
やがて彼女は云った。籠を背負っている青年は「まだ駄目だ」と応えた。
「重いでしょ」
「いや。貨車の中でも軽いと想った」
「どうやって逃げ出せたの」
「野菜を運ぶ馬車が来ていた。農夫が荷台に隠してくれた。農家に連れて行き帽子と着替えをくれた。農民を装い、野菜籠を背負ってこの道を逃げろと途中まで送ってくれた」
「あの農夫ね。どうしてそんなことをしてくれたのかしら」
二人は同じことを考えていた。彼がそれを云った。
「俺たちと同じ理由だろう」
彼女も同じ意見だった。
彼は籠を下ろし、道端の叢をかきわけた。彼は手に草を持って戻ってきた。潰して傷口に貼り付けると消毒の代わりになるのだ。
「額。火傷してるぞ」
「あなたとお揃いにするつもりはなかったのよ」
「どうでもいい。何発撃ったかも数えないような人間が銃を持つな」
「バンよりは、ガンだったわ。ガン!」
「背中を蹴るのはやめてくれ」
青年は訊いた。どうやってあの銃を手に入れた。
「届けられた食糧の中に入っていたの。布に包まれて。木箱に残飯がたくさん入っていたわ。久しぶりに食べたチーズにむせそうになるほど、みんな涙を流して歓んでくれた」
崩壊しつつある前線へと今ごろあの若い兵士は列車に詰め込まれて運ばれているのだろう。芸術の分かる純粋な若者。感受性の高い観客の前で昨夜、彼女は彼のためだけに渾身のオデットを踊ってみせたのだ。静謐な青い湖のほとりに立ち、冷たい夜風と魔王の哄笑を聴きながら女は舞った。苦しみと哀しみに身を引き裂かれながら羽根をふるわせて崖に向かい、愛と別れを王子に告げたのだ。寸分たがわず舞台でそうするように。そのくらいはしてやるべきだ。あの若い兵士は死にに往くのだから。
涙を流していた若い兵士を想い出しながら、籠の中で彼女は手首をさすった。
「まだ痺れてるみたい」
「めちゃくちゃに撃ってるのは分かった」
「やっぱり」
「最後が空砲でよかった」
虚を衝かれた看守が慌てて彼女に狙いをつけていた。視界の端でその看守から青年が拳銃を奪い取っていた。監視塔からは見えない死角だった。彼女は無我夢中で発砲していたので重なっているもう一つの轟音が彼の撃った銃声だと分かってはいなかった。「やめろ」こちらに大股に歩いて来る青年が銃を手にしていた。倒れている看守たちは彼の仕業だとその時に知った。彼女は満足して、銃口を額からこめかみに当てなおし、銃の引き金を引いた。
「こっちだ」
前歯のない倉庫番の囚人が倉庫の中に招き入れ、床に掘られた抜け道から彼らを厨房棟の間に逃がした。どこで気を失ったのか彼女は覚えていなかった。
「あなたは何をしていたの」
「いつもの懲罰で手押し車を取りに倉庫に行った。君が包みを持って立っていた。しばらくすると君は包みをほどいて銃を取り出した」
「知りたいのは、抵抗運動を始める前よ」
「都会の学生。君は踊り子だ。初舞台で流れる星と讃えられていた」
「流浪の民に生まれて少女の頃にバレエ団に拾われたの」
身体がやわらかく股関節が開き、片脚を上げても姿勢保持の力が生まれつき強かった。手足が長く、佇まいに舞台映えする華があった。群舞の白鳥たちのひらめく衣が照明に透けると世界は薄い膜に包まれる。身に着けた硝子の宝石や縫い付けた飾りが氷のように煌めき、万雷の拍手は雪のように彼女の上にいつまでも落ちてきた。
音や演目の解釈を表現できる子は大勢いるが、お前はまるで音そのもの。世界はお前のものだよ。
振付師は初舞台へ向かう彼女の手を握った。
驚嘆と賛辞がお前の足許に押し寄せるのがみえるだろう。さあ行って、舞台で見せつけてやりなさい。
「ところが残念なことに、教えられた踊りを教えられた通りに踊るなんて大嫌いだったの」
「へえ」
「元が流浪の民だもの。こんな踊りじゃ満足できないっていつも不満だったわ。箱の中のただの見世物。ピルエットだけが好きだった。あれだけはわたしのトゥで世界をぶち抜いているような気分がしたから」
「いいねえ。三十二回転の超絶技巧をやるくせに、そんな反抗的な心をもった第一演者は君くらいのものだろう」
「遠方への亡命を何度も持ち掛けられたわ。でも断った」
「海の向こうはバレエの後進国だからか」
背後の籠から返事がないのがその答えだった。
「だったら君は踊りが嫌いというわけではなさそうだ」
何処に行っても同じことだった。澄んだ青に青を重ねた空には鳥がとんでいた。眼球が傷むほど見上げているうちに、高みのどこかで空も薄い膜に突き当たっているような気がした。収容所が柵で囲まれているように、青空も人間には開かれず閉ざされていた。
「乗れよ」
「何に」
「飛行機に。戦争が終わったら」
「富豪と付き合ってたのよ。乗ったことくらいあるわ」
「俺と一緒に」
二人は黙った。戦争が終わる頃にはきっと二人ともこの世にはいないだろう。遺体の灰は河に流されて消えるのだ。
「さぞかし、紳士諸君にもてただろうな」
「まあね」
「想い出したぞ。公演のたびに男を変えているらしいじゃないか」
「なんなの。わたしに興味があるの。新聞屋の嘘に決まってる」
「なんであんな真似をした」
「やってみたかったから」
泥で染めた爪。この手で握って。ガンと一発もう一発。世界をはじき飛ばす音だよ。蛆虫どもに弾を撃ち込んで。
「全て嘘よ。そのほうが切符が高値で売れるの。ただ、窒息しそうなこの世界を破ってみたかったのよ」
プリマ・バレリーナ・アッソルータ。そしてわたしのことを憶えておいて。そんな死に方をするプリマはきっとわたしだけだから。
「ひどいな」彼は呆れて笑った。
「筆頭の舞姫には自滅も辞さない片意地も必要なのか」
「どっちだと想う?」
籠ごしに青年に背中をあずけて彼女も微笑した。
「地下組織と連絡をとって手配してやる。反枢軸国は両手を広げて君を迎え入れるだろう。今度こそ亡命するんだ」
「歩く。道におろして」
彼らは水量の多い川に差し掛かっていた。何世紀も使われてきたような石橋が架かっている。橋には高さがあった。動力音が遠くから聴こえていた。追手だろう。
「もう捕まるつもりはないわ。わたしは下の川に飛び込むわ」
「海外で君の公演を観に行くよ。絶品のフェッテを見せてくれ」
「パ・ド・ドゥの相手役に妬かないでね。地獄で待ってる」
欄干の上に立ち上った彼女の手を掴み、彼は大空の一点を指し示した。
空に編隊を組んだ軍機が現れた。機体の色は彼らを救う国のものだった。村が鐘を打ち鳴らしている。解放の音だった。巨大な翼が影を落として何機も頭上を通過した。橋梁を確保するための空挺師団だ。愕いた鳥が畠から飛び立った。腕を伸ばして彼は彼女を橋からおろした。踊り子はつま先から彼の前に降りてきた。大気に軍機の残響が響いた。群舞の白鳥たちのような落下傘が数えきれないほど薄暮の空から降りてきた。空は湖面の色だった。
[了]
銃と踊り子 朝吹 @asabuki
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