銃と踊り子

朝吹

銃と踊り子 前篇


 彼は煉瓦を手押し車で運んでいた。

 雑用を命じられたのだ。さらに晩まで食事抜きにされた。弱った病人を殴っている看守を一瞥したからだ。もちろん彼はその場で殴り倒された。額にしるしがなければ多分あのまま殴られて死んでいた。

 殴られて傷んだ顔を冷やすには、半分凍った泥を使うしかなかった。彼は手押し車の車輪の様子をみるふりをして身をかがめ、地面から泥を少し掬い取り、冷たい泥ごと片手を顔に押しあてた。冷えた泥は青年の顔から骨から、心までを凍らせた。

 隣りで誰かが死んでいても誰も気に留めない。

 ここは柵で囲まれた収容所。

 彼はそこの囚人なのだ。


 看守たちは気分一つで囚人を殴りつけた。彼は看守の腰にある拳銃を見ていた。

「このごみ屑ども。眼の曇った卑しい蛆虫め」

 殴打されながら、彼は笑った。これでこの看守の姿を見ることはもうないだろう。

 彼の考えどおり、彼を殴った看守は即日のうちに異動になって収容所から姿を消した。彼が昏く嗤っているのを見ても他の囚人たちは何も云わなかった。囚人たちは労働に疲れたよどんだ眼をして、彼の顔の、とくに額の一点に視線をそそぎ、それから眼を逸らすだけだった。彼らは知っているのだ。

 あんただけは違う。あんたは、どうせ最後まで無事なんだろ。

「なんだその眼つきは」

 彼を地面に蹴り転がした看守も、彼の額にある傷跡に気づくとうろたえて、彼の腹を蹴り上げようとしていた脚を宙でとめた。この傷の意味を知らない者は此処にはいないのだ。


 殺されなくて済んだかわりに食事抜きと労働が青年に課せられた。前方に車輪が一つだけ付いた手押し車を彼は唇を引き結んで押していた。荷台に積み上げた煉瓦はずしりと重い。地面はぬかるんで、歩みを運ぶことすら難儀だった。

 眼の曇った蛆虫め。

 卑しい蛆虫め。

 お前たちなど殺されても文句はいえないんだぞ。

 膚がひりつくほど寒いのに、彼のこめかみから顎にかけて汗が伝った。

「その顔の傷はなに」

 女の声がした。車が乱れた。彼は手押し車を握る手に力をいれた。女の指が彼の頬にふれる。その傷はなに。

 実際には女は彼には触れていない。しかし青年は女からそうされたように想った。生々しいほどに近かった。立錐の余地もない貨車の中で支えていた半身しか知らないはずなのに、あれからずっとあの女が近くにいる。

 煉瓦置場はまだ先だ。青年は空に浮かぶ真昼の月を睨み上げた。

 

 

 彼女は、青年の姿を鉄条網ごしにみていた。男女に分けられた収容所にも共有部がある。資材倉庫はその一つだ。彼女は彼のことをずっと見てきた。同じ貨車で此処に連れて来られた日からずっと。

「その顔の傷はなに」

 彼は無言だった。彼は彼女を無視すると、作業で使う台車を倉庫管理の男の囚人から受け取って背を向けた。これから煉瓦を積んで広大な敷地の外れまで運ぶのだ。女はすれ違う彼になおも訊いた。頭髪を切られた頭をスカーフで覆っている女は臆することのない尼僧にみえた。

「その傷はなに」

「どいてくれ」

 会話すれば罰が下る。囚人同士が監視の眼をかすめて親しくすることは収容所看守の激怒を招くのだ。

 手押し車を押して行ってしまった彼の背中を見つめている彼女に、倉庫管理の囚人が前歯のない顔で声をかけた。惚れたって無駄だよ。

 彼女は倉庫番を振り返った。囚人が顔に笑いを浮かべる時は、看守に媚びへつらう時か、人を見下せる優越感に浸っている時だ。社会性を失った環境はこの囚人のように矮小な本性をむき出しにする。人の不幸に喜色を浮かべる蛆虫。卑しい蛆虫。

 あの額の傷は、あいつが裏切り者だった証さ。

 彼女は囚人を睨んで、機械にさす油を奪い取るようにして倉庫を去った。

 


 冬は長く、太陽は遠く、泥土は半分凍っている。

 美しい娘さん、こっちを見て。晴れた日には遊びに行こう。

 近隣の農夫が歌を唄いながら馬車で通りかかった。荷台に乗っている子どもがすばやく野菜を転がり落す。収容所の柵の下から腕を伸ばせば手が届くところに色の濃い採れたての野菜が落ちてくる。

 髪に花を挿して家から出てきて。小舟に乗せてあげようか。

 馬車が完全に行ってしまうまで女たちは物陰で待つ。出て行ってお礼を伝えたくとも、それではどんな迷惑が農夫にかかるか分からない。

 分厚い霧の下をかいくぐるようにして、ようやく野菜を取って来る。腐ってない野菜は眼が洗われるような新鮮な色だ。大切に隠しもって女たちは監房に戻ってくる。赤子のように腹に抱えて撫でさする。それは人数分に合わせて細かく切れば一口分にも満たないが、過ぎ去った祭りの日に村中を飾った硝子玉のように色鮮やかだ。

 灰の世界に落ちてきた、南国の果実の色。



 次に食事抜きになったのは彼女だった。

 兵士たちが集まって屋外で焚火を熾して肉を焼き、腸詰めを食べていた。談笑していた彼らは彼女に気づくと軽食の手をとめた。若い女がひとりで何をしているんだという顔をしていた。

 彼らは横切っていく彼女を眺めながらおし黙っていた。彼女は収容所に隣接している兵舎の雑納課に女看守から命じられた品を受け取りに行くところだった。美容クリームと香水と靴下。

 女を揶揄う勇気もないのか、意気地なしどもめ。

 毒づきながら帰りに同じ道を通ったところで、兵士に囲まれて荷物を取り上げられた。

「香水まであるぞ」

「看守に頼まれた品です」

「はいはい、返してあげましょうねお嬢さん」

 奪い返した荷物を持って彼女が立ち去ると、後ろで兵士たちの笑い声がした。

「接吻してやりたくとも、口が腐るからな」

「食事は夜まで抜きだ。煉瓦をはこびなさい」

 監房棟に戻った彼女は女看守から平手打ちを喰らった。兵士が荷物を検分した時に新品のクリームの蓋をあけていた。それが女看守にばれてしまい、「お前が中身を使ったのか」と詰問されたのだ。食事抜きと煉瓦運びは定番の懲罰労働だった。

 大きい石を避けようとして手押し車の向きを変えたところで切り倒された樹の根の間に車輪がはまってしまった。手前に戻そうと無理やり引っ張った。今度は押し車ごと傾いた。遠くから音が聴こえた。

 空気を引き裂く破裂音。

 また誰かが銃殺されたのだ。あの音でこの底打ちの惨めさを終わらせることが出来たら。

 兵士たちに囲まれた彼女は目線を下に落として、彼らの腰にある黒い銃を見ていた。



 羨ましい。監房の中で女たちは溜息をついた。石けんを使って温かいお風呂に入れるなんて。

「残飯を持って帰ってこれないかしら。どうせ宴のあとには沢山あまるのでしょう」

 彼女は壁を向いたまま、「任せて」と女たちに応えた。

「踊り子。本当に。あの劇場で」

 押したり引いたりしても手押し車の傾きが改善しないので、諦めて、彼女は荷台から一度煉瓦を降ろすことにした。煉瓦を一つ手に取ったところで、

「貸して」

 後ろから声がかかった。若い兵士が彼女に手を伸ばしている。兵士の手は彼女の持っている煉瓦を取り上げると荷台に戻し、今度は磨き上げた長靴で車輪を数回つよく蹴って、手押し車を根っこの間から引き出した。

「さっきのことで罰を受けたそうだね」

 先刻の兵士の中にこの男はいただろうか。彼女は想い出そうとしたが顔までは見ていなかった。どうせ間抜け面だろう。ちらっと見てやった。

 手押し車を起こしてくれた若い兵士は崩れた煉瓦も荷台に積み直してくれた。お礼を云う気もしなかったのでそのまま行こうとすると、若い兵士は彼女を追いかけてきた。

「見つからないように食べて」

 食事ぬきの仕打ちまで知れ渡っているらしかった。台車で両手がふさがっている彼女の口に兵士は千切った麺麭パンを押し込んだ。無理やり呑み込みながら彼女は小声で「どうも」と若い兵士に冷淡な礼をした。

「前は何をしていたの。その、此処に入れられる前は」

 侵攻してきたお前たちの国がわたしたちを収容所に入れたんじゃないか。その言葉を苦労して彼女は抑え込んだ。

「ええっ。すごいね」

 若い兵士は心から愕いていた。劇場の名を云うだけで全てが分かるとは育ちが良い。富裕層の息子だろう。

「背筋がきれいだと想った」

 感嘆して兵士はしげしげと彼女の手足を眺めた。

「明日の夜、官舎で前線に向かう兵士の壮行会があるんだ。君がそこで踊ってくれたらみんな喜ぶと想うんだけど」

 さすがに彼女は手押し車を押す手をとめた。莫迦なの?

「駄目か」

 あなたの国は他国を占領してわたしの仲間を殺している。まあ素敵、躍らせてもらうわねなんて云うと想う?

「実はぼくも明後日には戦場に出立するんだ」

 若い兵士は真顔になった。敗退を続けている噂が本当であることをその顔色が告げていた。死ぬ覚悟を決めた顔だった。彼女は兵士を見た。何処でどう死のうが知ったことではないが、若い男らしく、戦地に立つ前に女との優しい想い出が欲しいのだろう。この麺麭はそういうことだ。

 くたばれ。

 彼女は胸中で吐き捨てて、ふたたび手押し車を持ち上げた。

 空き地は監視塔から丸見えだった。若い兵士は彼女の監視をしているふりをしながら付いてきた。悪路に差し掛かると監視塔から見えないように若い兵士は彼女を手伝って手押し車を引っ張った。

「踊ってくれたら嬉しい。何か欲しいものがあれば云ってみて」

 若い兵士は道端であった同級生の女の子に接するような態度だった。

「だって、ぼくは国家警察でも看守でもないからね」

 若い兵士は彼女の横をゆっくりと歩いた。

「最後のひときれ」 

 兵士は彼女の口を開けさせると麺麭を押し込んで立ち去った。粘った唾液しか出てこないが忘れていた焼きたての麺麭の味だ。喉の渇きを呪いながら、傷んだ身体をひきずって彼女は煉瓦を運んだ。帰り道、また何かの罰を受けたのか、煉瓦を積み上げた手押し車をひく額に傷のある青年とすれ違った。



 貨物用の車両に押し込められて、丸二日、飲まず食わずで立ちっぱなしだった。意識が朦朧としてきた彼女は誰かに凭れていることに気が付いた。彼女を支えているその青年は近くの男たちが小声で何か喋っているのを聴いていた。

「戦争で犠牲になるのは女子供だとよくいうが、あれは違う。戦争でいちばん犠牲になるのは戦場に連れて行かれる若い男たちだ」

 男たちが哀しい顔をして囁きかわしている。ああ彼らは間違えている。戦場に連れて行かれると想っているのだ。

 あらゆる伝手からきいて、この先に待つものを彼女は知っていた。

 隣りの車両では耳障りな甲高い声をだして女がずっと叫んでいる。

「わたしは有名なオペラ歌手なのよ。これは何かの間違いです。この列車から出して。劇場の支配人に連絡して」

 有名だろうが無名だろうが、該当民族ならば一律に絶滅させるというのが方針だった。あのオペラ歌手はまだそれを知らないのだ。同じ貨車にいる男たちも。

「切符が取れるうちに亡命しなさい」

 人々は彼女を救おうとを奔走してくれた。過去の恋人もいた。後援者もいた。彼女はその全てを断った。舞台に立てる間は立ちます。

 最後の日、前列には彼女を逮捕する者たちが並んでいた。指揮者も演奏者も踊り手たちも彼女のために泣いていた。連中は立ち上がり幕が下りても拍手を惜しまなかった。そして楽屋から彼女を夜の闇に連れ去った。対外的には病で入院したと発表された。

 線路が分岐に差し掛かり、がたんと貨車が揺れた。

 彼女が身を立て直そうとすると青年の手が彼女の腕を掴んだ。そのまま凭れていてもいいとその手がいっていた。抵抗運動をやっていた。青年が男たちに身の上を明かしている。線路を走る音を聴きながら彼女は眼を閉じ、やがて意識を失った。


 迫害された理由は神に選ばれた民だからだそうだ。ならば、神に告げ口をするとあの連中は想わないのだろうか。

 もちろん、云いつけてやる。

 粗末な板の寝床に転がりながら彼女は鼻の先に迫る上階の寝床の板を見つめて何度も誓っていた。捨て子のわたしには信仰心はないが試してみる価値はある。

 触れたら腐るどころじゃない、神さまの前にいったらまずは媚態をつくってしなだれかかり、その胸におすがりして甘い声で何度も「お願い神さま」、わたしたちをこんな目に遭わせた者どもに世にも怖ろしい報復を頼んでやる。

 整列と点呼を受ける間は顔を拭うこともできず、汗が眼にしみて痛かった。青い河をもう一度見たい。外に出ることができたら、全てを洗い流してくれるその川に身を捧げるのだ。雪山を映す清流に。

「お前たちの神は助けてくれないのか?」看守がせせら笑う。

「これでも他の棟よりは待遇がいいそうよ」女たちが項垂うなだれている。

 彼女と同じ区画にいるのは何らかの配慮で淘汰の順番が後回しにされた者たちだ。額に傷のある青年もそうだった。

「額に銃口を押しあてられて殺される寸前、将軍の息子だとばれた。他の仲間はその場で銃殺された。俺は軍から情報を盗んだり外国と連絡を取り合って国境を超えさせる手伝いをやっていた」

 がたんがたんと揺れ動く貨車の中で青年が名乗っている。複雑な沈黙が車両に満ちた。この若者は同じ民族ではない。敵国の軍人の息子だ。

 あら、素敵ね。

 戸惑いと憎しみと疑いが混じり合った貨車の中に女の声がした。青年が彼女の顔をのぞきこんだ。金網のはまった車窓からわずかに差し込む光が女の顔を照らしていた。

 神さまがこの世界を斃せないのなら、雷は、誰かが落とすしかない。

 あの銃が奪えたら。

 彼女は視線を地面に落とすふりをしながら、兵士たちが携帯している黒い銃を見つめていた。

 彼女はその銃を手にいれた。掴まる前に吹っ飛んでやる。

 こめかみに当てるはずだった。気が付けば両手で銃を握って銃口を額の真ん中に当てていた。まだ火箸のように熱を出している。額に太陽があるみたい。誰かが遠くから彼女に向かって叫んでいた。やめろ。

 彼女は引き金をひいた。青年の声だった。



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