さよならの木立
遥風はじめ
さよならの木立
セミが鳴いている。地上での瞬くような短い生をさらに濃く縮めるかのように、体を震わせ引きちぎるような勢いで鳴いている。
じりじりと押さえつけられているような濃密な暑さの中、それが木立ちのそこら中にいた。
生きていた人間達が大勢いた時より、暑さは変わらないのにセミは多くなっている気がする。
汗ばむ体を重く集中させながら、サキトは長距離スコープを覗き込み、木立の中から、とある家に照準を合わせていた。銃は壊滅した小隊から奪ったM24SWS、対人狙撃銃だ。なるべく持ち歩くようにしてきたので大分手に馴染んできた。
もう長いこと、じっと動かずに照準を合わせている。
家には窓があったが、人影は見えない。
* * *
月明かりで照らされている部屋の壁には、虹色のネコとたわむれている女性の大きな写真が飾られていた。
「早くしろって」
家の外で肉をひきずるような音を聞いたシュウが、サキトを急かした。
「待って。この充電池外したい」
電気もガスも止まってしまったこの世界では充電池は極めて貴重だ。ヘッドライト、携帯式調理セット、MP3プレーヤー。色んな機器に使える。暗い中でも作業できるし、温かいレトルトカレーも食べれる。特にサキトはMP3プレーヤーで音楽を久しぶりに聴きたかった。だがそのためには、このバカでかい何に使うのかよくわからない家電から充電池を取り外さなければならない。
窓ガラスの割れる音が響いた。やつらが入って来たのだろう。
「くそっ」
シュウは体に不釣り合いな、少し大きめの狩猟用クロスボウを構え直した。
「あの音で集まってくるぞ」
『GO AHEAD』と書いてあるニット帽を直しながらシュウは言った。
「ちょっと見てくるわ」
「ああ」
サキトも焦りを感じていたが、なんとか充電池だけは取り外したかった。だが焦れば焦るほど手元がおぼつかない。爪で引っ掛けて取り出そうとしても、電池が硬くひっついてしまってなかなか取れない。
シュウがクロスボウを撃った乾いた音が聞こえた。続けてぐちゃっと何かが倒れ込む音がする。腐敗臭がこっちの部屋まで漂ってくる。家の中に入ってきたようだ。
「一体やったけど、まだ何体かいる! もう出よう!」
姿は見えないがシュウの声が聞こえる。
後少しで電池が取れそうだった。確かバックパックの中にマイナスドライバーが入ってたはずだ。急いでバックパックをあさる。
「まだかよ!? 囲まれるぞ!」
「もう少しだから!」
マイナスドライバーを取り出して、電池のエッジに引っ掛ける。これなら取れそうだ。
シュウのクロスボウは一度撃つと、また弦を掛けなおすために地面に立て、ちょうど背筋力を測る時の姿勢のように、両手を使って弦を目一杯引っ張る必要がある。つまりリロードに時間がかかる。あまり同一地点を死守するのには向いてなかった。
少しずつシュウの声が近づいてくる。追い詰められているということだ。
「まずい。裏からも来た」
シュウがひょっこり顔を出した。
「バッグ渡すわ。一旦こっちで引き付けるから公園で落ち合おう」
シュウは家の中で入手した食料や工具で重くなったダッフルバッグをよこして来た。身軽になって引き付けるから重い荷物を持って逃げてくれということだ。追い詰められた時のいつもの脱出方法だった。今回はシュウが囮役を引き受ける。
軽く頷いて、サキトは荷物を受け取り走り出した。
数十分後、約束通りサキトは公園にたどり着いた。だが、その後シュウが公園に訪れることはなかった。
* * *
近くの木から飛び立った、紙を裂くようなセミの声でサキトは我に返った。
スコープを覗き直すと、家の窓の中に虹色のネコと女性の大きな写真が見えた。その脇に『GO AHEAD』のニット帽をかぶっている青年を確認する。
だがその青年の目はうつろで、口をだらしなく開け手を前に出し、皮膚は土気色で、一部は腐ってどろどろに崩れていた。おぼつかない足取りでよたよたと歩く青年の姿を、サキトは感情の失せた目で静かに見つめた。
シュウは、完全に動く死体へと成り果ててしまっていた。
「GO AHEAD(前へ進め)か……」
あのニット帽はいつか、どこかの家でサキトが衣類収納ケースの中から見つけたものだ。頭になにかかぶるものがほしいとシュウがぼやいていたので、クローゼットやらタンスやら、サキトは重点的にあさっていたのだ。
ニット帽を渡した時、シュウは目を見開いて喜んだ。
その後もシュウはそれを気に入っていて、『よし、GO AHEADだ』などと、よくふざけていた。
サキトはスコープから顔を上げる。唇を噛みしめ眉を寄せるが、瞳は後悔で彩られ残酷な鮮やかさにきらきらときらめいている。
サキトは何度も、息をすうっと吸いながらスコープから顔を上げ、胸に空気を溜め込んでは誰にも言えない秘密を抱えてるかのように息を詰まらせた。変わり果てた友の姿に火のような雫が溢れて視界が滲む。
ずっと一緒に生き抜いてきた友達を楽にしてやりたいとは思っていても、サキトはどうしても引き金を引くことができなかった。
ふと、いつだったかシュウが言ってたことを思い出した。まだパンデミックが起きる前、生きている人間たちが死んだ人間たちよりも多かった時期だったと思う。
「お前はいつも同じところでぐるぐる考えてんだよ」
目を見開いて言うシュウ。
「やってみろよ。それで見えてくることもある」
ぶっきらぼうな言い方だったが、友人になにかを掴んで欲しいという言い方だった。
シュウの目は、冬の日向のように優しかった。
身振り手振りで夢中になって話すシュウ。
空を見上げたり——。
こっちを指さしたり——。
自分を見つめる真っ直ぐな眼差し——。
硬貨が夜の水面に飛び込んだような音が、響いた気がした。
波紋が広がってゆく。サキトは思うより早く、動いていた。
指貫きグローブですっと涙を拭い、手慣れた動作でコッキングハンドルを引き、引き金に丁寧に指を合わせる。GO AHEADに照準を合わせ、大きく息を吸ってから、息を止める——。
銃声が響いた瞬間、鳥が何羽か飛び立った。
やっぱりこういう時って、映画みたいに鳥が飛び立つもんなんだな……。
友に与えた完全なる死よりも、そんなどうでもいいことをぼんやりと考える。
硝煙の煙が立ち上るのをゆっくりと呆けたように眺めるサキト。
徐々に自分の今の状況に意識がシフトしてゆく。
サキトは肘と膝で地面を押しやると、ゆっくり立ち上がり、歩き始めた。とりあえず急いでここを離れる必要がある。銃声は死んだ人間たちだけでなく、生きている人間たちをも引き付ける。時にこっちのほうがずっと厄介だ。
たくさんのセミが、濃密な暑さの木立の中でずっと鳴き続けていた。
生きていた人間達が大勢いた時より、暑さは変わらないのにセミは多くなっている気がする。
さよならの木立 遥風はじめ @hajimeck
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