第3話

 彼は、帰ってこなかった。月には無事に到着したが、あっちで行方不明になったらしい。不思議と、涙は溢れなかった。思い返してみれば、一度も『お母さん』と呼ばれなかったからだろうか。

 

 夕食後。彼の部屋を掃除しに、二階へ上がった。突き当たりにある、彼の部屋。ドアを開けると、異様な存在感のある、あの天体望遠鏡があった。


 古くなって、白かったボディが茶色になっている。彼の手垢がこびりついているのだろう。試しに覗いてみると、いい物を買ったのが良かったようで、まだまだクリアに見えた。もしかすると、レンズなどは自分で変えていたのかもしれない。

 

 確か、今日は満月だ。もしかしたら、彼が見えたりして。

 

 そう思って、月に標準を合わせた。が、倍率か何かの関係で、ぼんやりとしか見えなかった。操作の仕方が分からないので、夫を呼んだ。


「ねえ、これってどうやって使うの?」

「ああ、これはね、ここを右に回すと、倍率が上がって、遠くのものが見えるようになるんだよ」


 夫はそう言いながら、筒の部分を月の方向に向けた。しばらくそのままの状態で、何やら望遠鏡をいじくっている。


「ねえ、はっきり見えるようになった?」

「ああ、うん。もうちょっとで見えるように──」

 

 その瞬間、夫は後ろに飛び退いた。尻餅をついて、後ずさりをしている。


「あなた、どうしたのよ? 何が見えるの?」

「やめろっ! 見るんじゃない!」

 

 夫が叫ぶ。


「何よ、幽霊でも見えたの? 月の幽霊なら、見てみたいわ」

 

 震える夫を横目に、望遠鏡を覗いた。


「……いやっ!」

 

 そこには、息子の顔があった。しかし、実際にあったのではない。月に兎が見えるように、月の陰影が、彼の顔を描き出していた。その顔は、こちらを軽蔑するような、それでいて怒りも垣間見える、複雑な表情をしていた。


──嫌いなものは人類だよ。

 

 確か彼はそう言っていた。何か関係があるのだろうか。あったとしても、私には分からない。彼と私では、住む世界が違うのだから。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月の子 鼻唄工房 @matutakeru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ