月蝕鬼譚
長門拓
月蝕鬼譚~ゲツセマネよりジパングまで~
まるで食いかけの饅頭だ。その他愛ない連想に我ながら苦笑する。
しかしぼやぼやしている
数千年生き延びた我が命をなお
人は我を「鬼」と呼んだ。我はこの呼び名を気に入っている。
〇
鬼となった日の事はよく覚えていない。或いは人の歴史より長かったかも知れぬ。
そして鬼であることに
鬼で居続けるために、我は「あれ」を喰らい続けた。
しかしいつしか、「あれ」をただ喰らうだけでは効率が悪いということに心付く。胃袋とは別の場所に感ずる「空腹」が、ただ無際限に喰ろうているだけでは満たされないのだ。
いくつもいくつも喰ろうている内に、やがてその個体が我にどういった感情を抱いているかにも左右されると知る。最も効果的な感情は「恋」と呼ばれるものだった。
産めよ、増えよ、地に満ちよ。神など信じてはいないが、たまには良いことを言うものだ。
神というと、ふと嫌なことも思い出す。この国土の言葉で
あれは嫌な男だった。それにこの我に火傷を負わせた唯一の人間だった。左の掌にはその時の
美しい月夜のことだった。
オリーブの木の豊かに茂る山に、いつものように愚かな村娘を誘い出し、いつものようにその命を奪った。夢中になって喰っていたからだろうか。我は月が蝕を起こしていることに気付かなかった。空腹は異様なほどに満たされた。これほどに何かが満たされたのは記憶にある限りでは初めてだった。天を見上げると、そこに在る赤く暗き月に物凄く
我は思わず声を立てて笑った。こんなに愉快なのは久しぶりだった。
ふと何かの気配を感じ横を見た。すると庭園風のその暗闇に
光の灯り始めた月からの光線が、その異様な
「お前は何者だ。我に気付いているのだろう」
男は何の感情もないような瞳で我を見た。そしてこう言った。
「悪魔よ。私の祈りを妨げるな」
「我が悪魔と分かってなお、祈りの姿を崩さぬか。余程の馬鹿と見える」
「私の弟子たちは、あなたと違って肉体は弱い。恐らく眠っていることだろう。それは即ち、あなたのことがこの先に伝わらぬということだ。このゲツセマネの園で祈るは私一人だ。安心するがよい悪魔よ。あなたはここでは滅びない。それは私の役目ではない」
「もちろんそうだ。お前如きに我は滅ぼされぬ。他の誰でもそうだ。天地のある限り、我は生き永らえよう」
「それはない、悪魔よ。あなたはいずれ滅びる。なぜならあなたは不完全な悪魔だからだ」
我はその言葉に逆に興味を持った。
「ほう、不完全とはどういうことだ」
「あなたは自分の命を得るために、他を損なっているからだ。いずれあなたは自分の命を得るために、かえってそれを
我は再び声を立てて笑った。だが内心では得体の知れない怒りに近いものがむらむらと沸き起こった。何をほざくか人間風情が。
「お前の肉は不味そうだが、ありがたく喰ってやるとしよう」
「悪いがそうはならない。私は十字架に架けられて死ぬと決まっている。出来ればそうはなりたくないが、今はただ神の
我は話も聞かずに男を襲った。しかし早速掴んだ左手がまるで電気でも流れたかのように衝撃を受ける。慌ててさっと手放したが、もんどり打つほどの痛みが左手にしばらく続いた。じゅうじゅういう音と共に焼け焦げるような匂いさえする。
男はそんな我の姿に憐れみのような視線を投げかけ、ふいと丘を
「待て……、貴様何者だ。一体我に何をした……」
男は振り返らずにこう言う。
「私はナザレのイエスという者。悪魔よ、立ち去るがよい」
我は屈辱に
引き裂かれるような火傷の痛みがいくらか収まった頃に、風の噂でナザレのイエスという男が
〇
我は逃げた。その男の面影から逃げた。教会から逃げ、十字架から逃げた。聖職者の祈りから逃げた。およそ百年前まではそれで済んだが、時代が降るにつれ、奴の言葉を記した書物が否応なしに
いつだったか、東方見聞録という書物を興味本位で読んだことがある。いわゆる黄金の国ジパングと名付けられた国がここであるのだろうか。もしそうであるとするならば願ったり叶ったりだ。あの忌々しい男の面影とは縁もゆかりもない仏教という名の偶像崇拝であると聞く。黄金が山ほど採れるという噂もある。そしてこれは
またこの国土では異形の物のことを「鬼」と呼ぶ慣わしであることも知った。我はこの呼び名が気に入った。悪くない。
〇
まず十数年はその土地に慣れることが先決だ。その土地の言語、習俗をよく知ろうと努める。必要ならばその土地の人間を殺し、面の皮を使わせてもらう。出来れば女を引っ掛けやすいものが良い。何千年も行ってきた儀式のようなもので、我も元の顔がどうであったかとうに忘れている。
一つ懸念があるとするならば、期待に反して、この土地にもあの男の面影が入り込んでいたことだ。耶蘇教と呼ばれているらしい。しかし折からの弾圧によって絶えて久しいと聞く。つい先だっても、どこかの半島で奴らの一派による大規模な反乱が起きていたが、徹底的に壊滅されたらしい。今もって安心するには足りないが、危ぶんでばかりでは始まらぬ。
そうこうしている内に、前回に食べた分の貯金が尽きようとしていることを感じた。そろそろ喰わねばなるまい。この日の為に良い顔立ちを選び、したくもない学習に骨身を費やして来たのだ。失敗は許されない。我は永久に生きねばならぬ。我の滅びる時は、天地の消え去る時だ。
〇
お礼を申し上げます。私のような
夫ですか? ……はい、本来ならばこのことは誰にも明かさないつもりでしたが、わが夫は
言い訳するつもりは毛頭ございませんが、もうその折、私には娘がおりました。如何なることがあろうとも生き延びよとの夫の遺言がなければ、私も
眠れぬ夜、私はうろ覚えの「おらしょ」を口中にて唱えます。もとより意味など分かろう筈もありませんが、これを唱えていると、亡き夫や「ぱあどれ」様達と安らかに祈りを捧げていた頃が甦るようで、心より慰めを覚えるのです。
ああ、その「ろざりお」は! はい、まさしく私の物です。手先の器用だった亡き夫があり合わせの材料で
これを何処で拾われましたか? なるほど、村外れの湖畔と言えば、私が娘と一緒に野宿をしていた場所であります。うっかり
そういえば昨夜はありがとうございました。はい? 何の話かと仰るのですか? てっきりこちらの村の方かと思ったのですが……。いえ、ご親切そうな男性の方が私と娘が眠る所にやって来て、そこは寒いだろうから物置を使うと良いと仰って下さったのです。私は有難くお言葉に甘えることにして、その物置で身を休ませて貰ったのです。「
え、あの湖畔の辺りにはそのような物置はないと仰るのですか。そんな筈はありません。暖かな
ああ、夢という言葉で思い出しました。その夜はいつになく悪夢にうなされたものでございます。何か恐ろしい鬼のようなモノが、私をひと呑みにする悪夢でした。
無論、夢の話でございます。けれど夢とは言え大層生々しく、また太陽を
ええ、村に置いて頂けるならば、どのような仕事でも致します。それで条件とは? ……無論、切支丹であることは隠し通します。「おらしょ」も人前では唱えないように致しましょう。
改めて
〇
我は子連れの女を
娘の方はすっかり寝入ってたので、喰らうにしても後回しだ。早速、女の首筋に牙を立てる。
女は呻き声一つ上げない。欲を言えばここで少しは抵抗されると燃えるのだが、これは人による。余程内心を押し隠そうとする者ほど、抵抗は薄いものだ。まあ都合は良い。第一、大声を出された日にはちと面倒なことになる。
まず、血を余すことなく吸い取ろう。食前のワインのような雰囲気に酔いしれる。天上の月はすっかり蝕まれて、不吉に赤い。それが食欲を急速に満たして行くのがわかる。
本当に月蝕の光は我の空腹を満たす。大陸にいる頃、天文家に数年弟子入りしたことがあるが、月蝕の予測をする上で、あれがとても役に立っている。人間は愚かで弱い生き物だが、まるで役に立たないという訳ではない。
全ての人間は我の養分となる運命だ。血も肉もその知識さえも。我こそが神だ。我こそが悪魔だ。我こそが鬼だ。我こそがアルファにしてオメガだ。我こそが一にして全だ。
愉悦に浸り切っていたからかも知れない。我はその時、女の口元が小刻みに動いていることにようやく心付いた。
ぼそぼそと何を呟いているのかとつい気になった。今思えば、さっさと絶命させておくべきだったのだろう。ところがその時はなぜか気に掛かった。我は耳を
「……でうすの御母さんたまりや、いまも我等がさいごにも、われら悪人のためにたのみたまえ、あめん……」
初めは何のことやらわからなかった。頭の中で文が細分化され、特定の単語に意識が集中する。でう、でうす。たまりや、さんたまりや。デウス。サンタマリア。あめん。アーメン。
「
そう気付いてしまうと、五体を電撃のようなものが貫いた。我は耐え切れずその場にのけぞる。耳の辺りからじゅうじゅうと焼け焦げた臭いがし始める。くそ、何てことだ。こんな最果ての国に今なお、あの男の面影が生き残っていたとは。
我はその時、ゲツセマネの園であの男に触れた衝撃を思い出していた。二度と甦らせたくなかった記憶。畏れ、屈辱。
だがこれしきのことでへこたれる訳には行かない。思い直せ、これは所詮言葉に過ぎない。こんな辺境の女が呟いた言葉など、あの男の面影からは遠く隔たれている。そもそも我の中の恐怖心が過剰な反応を引き起こしているのだろう。そうだ、そうに違いない。
我は女の息の根を止めに掛かる。この女を絶命させねばならない。
震える手を女の首筋に伸ばす。しかしその時、まるで狙い澄ましたかのように、女の着物の袂から何かが我の手に落ちてきた。そして折りしも、蝕まれた月は失われた光を部分的に回復させつつあった。僅かな光線に過ぎなかったが、我の手とそこに落ちた「ろざりお」を照らすには充分な光源であった。それが我への致命的な一撃となった。
我はゲツセマネの園で受けた痛みの数十倍の痛みを味わっていた。あまりのことに呼吸も
何故だ。そう思った。何故あんな不恰好な「ろざりお」が我をここまで打ちのめせるのか。
確かに「ろざりお」は脅威だったが、ここまで致命的なものとなる道理があろうか。それとも、この女が天の異常な加護を受けているとでも言うのか。
しかしあるいは、と思った。月蝕によって我の食欲が数倍に満たされるとすれば、それによって受ける痛みもさらに増幅するということもあり得る。そうだとすれば、何故今までそのことに気付けなかったのか。取り返しの付かぬ大失態だ。
思考は意外に冷静さを保っていたが、体は徐々に脆く崩れ落ちようとしている。薄れ行く意識の中で、我はかつてナザレのイエスが語った予言を思い出していた。
「悪魔よ。あなたはいずれ滅びる。なぜならあなたは不完全な悪魔だからだ」
我の何処が不完全だったというのか。教えてくれ、イエスよ。
「いずれあなたは自分の命を得るために、かえってそれを喪うことになるだろう」
本当の命を得るためにはどうすれば良かったのか。我のような鬼が、悪魔が、そもそも本当の命を得ることなど出来たのだろうか。こうやって何かの拍子に崩れ去るのが、我の宿命であったのか。答えてくれ、イエスよ。
だが神は答えない。救い主は事象の地平で沈黙している。
ああ、どうして我はこのように事切れようとしている時であっても、あの男のことを思い出してしまうのか。どうしてあの男が最後に見せた、あの憐れむような目付きを懐かしんでしまうのか。
死にたくない。心からそう思った。
だが我の言葉も願いも、やがては
何と不公平なことだ。お前の言葉も面影も、こんな辺境の国にまで生き残っていたというのに。我は塵一つも残すことが出来ないのだ。
せめて悪態だけは
月蝕鬼譚 長門拓 @bu-tan
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