月蝕鬼譚

長門拓

月蝕鬼譚~ゲツセマネよりジパングまで~

 夜半よわ湖畔こはんをぐるりと巡っている内に、いつの間にか月がむしばまれていることに気付いた。つい先だってまでは見事な円環を成していたというのに、もう三分ほどがほろりと欠けている。

 まるで食いかけの饅頭だ。その他愛ない連想に我ながら苦笑する。

 しかしぼやぼやしているいとまはない。最早一刻の猶予ゆうよもない。「あれ」は饅頭ほどに美味ではないが、我が為にも喰らわねばならぬのだ。刻限は月がしょくを起こし、光の再び灯るまでの僅かな合間。赤き月下にて「それ」を執り行う。

 数千年生き延びた我が命をなお永久とこしえにするためにも、我は「あれ」を喰らわねばならぬのだ。


 人は我を「鬼」と呼んだ。我はこの呼び名を気に入っている。



   〇



 鬼となった日の事はよく覚えていない。或いは人の歴史より長かったかも知れぬ。

 数多あまたの文明が滅び、また栄え、滅びる様を他人事のように眺めて来た。それはまさしく他人事であった。我はか弱い人とは一線を画する鬼であったから。

 そして鬼であることに躊躇ためらいを覚えたことはない。鬼であることに飽いた試しもない。その意味では、我は先天的に鬼である素質に恵まれていたのであろう。我が為に人の命を奪うことにも後ろめたさを感じたことはない。

 鬼で居続けるために、我は「あれ」を喰らい続けた。

 しかしいつしか、「あれ」をただ喰らうだけでは効率が悪いということに心付く。胃袋とは別の場所に感ずる「空腹」が、ただ無際限に喰ろうているだけでは満たされないのだ。

 いくつもいくつも喰ろうている内に、やがてその個体が我にどういった感情を抱いているかにも左右されると知る。最も効果的な感情は「恋」と呼ばれるものだった。

 優男やさおとこの仮面を被り、いくつもの乙女の「肉」を喰らう。それだけでかなりの空腹が満たされた。決して肉の味がそれほど良い訳ではない。人が生きるためにパンや米を必要とするように、我もまた人の肉を必要とするに過ぎない。我にとって人とは食糧であった。そしてこの食糧は喰えども喰えども地から消失することはなく、無尽蔵むじんぞうに殖えて行った。大地は我の食糧庫である。そう考えていけない理由はまるでないように思われた。

 産めよ、増えよ、地に満ちよ。神など信じてはいないが、たまには良いことを言うものだ。


 神というと、ふと嫌なことも思い出す。この国土の言葉で耶蘇教やそきょうと呼ぶ教えの創始者となった男についてだ。確かナザレのイエスという名だったか。

 あれは嫌な男だった。それにこの我に火傷を負わせた唯一の人間だった。左の掌にはその時のただれた痕が今でも残っている。


 美しい月夜のことだった。

 オリーブの木の豊かに茂る山に、いつものように愚かな村娘を誘い出し、いつものようにその命を奪った。夢中になって喰っていたからだろうか。我は月が蝕を起こしていることに気付かなかった。空腹は異様なほどに満たされた。これほどに何かが満たされたのは記憶にある限りでは初めてだった。天を見上げると、そこに在る赤く暗き月に物凄く総毛立そうけだつほどの興奮を覚えたものだ。少なくとも百年ほどの命を得たように思った。

 我は思わず声を立てて笑った。こんなに愉快なのは久しぶりだった。血塗ちまみれの口元を拭いもせずに、ただ哄笑こうしょうしていた。

 ふと何かの気配を感じ横を見た。すると庭園風のその暗闇にうずくまった男が一人いるではないか。我は一応警戒したが、面倒なことになるならそいつも喰ってしまえば良い。男の肉は固くて不味まずいが、まあ証拠隠滅にはなる。

 光の灯り始めた月からの光線が、その異様な風貌ふうぼうの男を照らす。男は我のいることも知ってか知らずか、ただ一心に何かを祈っていた。まるで我のことなど意に介さないとでもいうかの姿で。我はそれが気にいらぬ。我は男を怯えさせるために、殊更ことさら音を立てて近くに歩み寄った。

「お前は何者だ。我に気付いているのだろう」

 男は何の感情もないような瞳で我を見た。そしてこう言った。

「悪魔よ。私の祈りを妨げるな」

「我が悪魔と分かってなお、祈りの姿を崩さぬか。余程の馬鹿と見える」

「私の弟子たちは、あなたと違って肉体は弱い。恐らく眠っていることだろう。それは即ち、あなたのことがこの先に伝わらぬということだ。このゲツセマネの園で祈るは私一人だ。安心するがよい悪魔よ。あなたはここでは滅びない。それは私の役目ではない」

「もちろんそうだ。お前如きに我は滅ぼされぬ。他の誰でもそうだ。天地のある限り、我は生き永らえよう」

「それはない、悪魔よ。あなたはいずれ滅びる。なぜならあなたは不完全な悪魔だからだ」

 我はその言葉に逆に興味を持った。

「ほう、不完全とはどういうことだ」

「あなたは自分の命を得るために、他を損なっているからだ。いずれあなたは自分の命を得るために、かえってそれをうしなうことになるだろう」

 我は再び声を立てて笑った。だが内心では得体の知れない怒りに近いものがむらむらと沸き起こった。何をほざくか人間風情が。

「お前の肉は不味そうだが、ありがたく喰ってやるとしよう」

「悪いがそうはならない。私は十字架に架けられて死ぬと決まっている。出来ればそうはなりたくないが、今はただ神の御心みこころに従うばかりだ」

 我は話も聞かずに男を襲った。しかし早速掴んだ左手がまるで電気でも流れたかのように衝撃を受ける。慌ててさっと手放したが、もんどり打つほどの痛みが左手にしばらく続いた。じゅうじゅういう音と共に焼け焦げるような匂いさえする。苦悶くもんの声が漏れる。

 男はそんな我の姿に憐れみのような視線を投げかけ、ふいと丘をくだろうとする。

「待て……、貴様何者だ。一体我に何をした……」

 男は振り返らずにこう言う。

「私はナザレのイエスという者。悪魔よ、立ち去るがよい」

 我は屈辱にまみれながら、しかし言いようのないおそれに五体を支配されつつ、ゲツセマネの園からうのていで落ち延びた。

 引き裂かれるような火傷の痛みがいくらか収まった頃に、風の噂でナザレのイエスという男が刑死けいしさせられたと聞いた。その後甦ったという噂もあるが、我は信じない。信じてなるものか。



   〇



 我は逃げた。その男の面影から逃げた。教会から逃げ、十字架から逃げた。聖職者の祈りから逃げた。およそ百年前まではそれで済んだが、時代が降るにつれ、奴の言葉を記した書物が否応なしに巷間こうかん流布るふしていった。それで住み慣れた大陸を東に逃げた。砂漠の海を渡った。もはや何から逃げているのかすら忘れるほどに逃げた。そしてようやく奴の面影の片鱗へんりんだに見出すことの出来ない島国へとたどり着いた。

 いつだったか、東方見聞録という書物を興味本位で読んだことがある。いわゆる黄金の国ジパングと名付けられた国がここであるのだろうか。もしそうであるとするならば願ったり叶ったりだ。あの忌々しい男の面影とは縁もゆかりもない仏教という名の偶像崇拝であると聞く。黄金が山ほど採れるという噂もある。そしてこれは眉唾まゆつばだが、人肉食の習慣もあると書いてあった記憶がある。同じ悪魔同士仲良くなれそうだとほくそ笑んだ。

 またこの国土では異形の物のことを「鬼」と呼ぶ慣わしであることも知った。我はこの呼び名が気に入った。悪くない。



   〇



 まず十数年はその土地に慣れることが先決だ。その土地の言語、習俗をよく知ろうと努める。必要ならばその土地の人間を殺し、面の皮を使わせてもらう。出来れば女を引っ掛けやすいものが良い。何千年も行ってきた儀式のようなもので、我も元の顔がどうであったかとうに忘れている。

 一つ懸念があるとするならば、期待に反して、この土地にもあの男の面影が入り込んでいたことだ。耶蘇教と呼ばれているらしい。しかし折からの弾圧によって絶えて久しいと聞く。つい先だっても、どこかの半島で奴らの一派による大規模な反乱が起きていたが、徹底的に壊滅されたらしい。今もって安心するには足りないが、危ぶんでばかりでは始まらぬ。


 そうこうしている内に、前回に食べた分の貯金が尽きようとしていることを感じた。そろそろ喰わねばなるまい。この日の為に良い顔立ちを選び、したくもない学習に骨身を費やして来たのだ。失敗は許されない。我は永久に生きねばならぬ。我の滅びる時は、天地の消え去る時だ。



   〇



 お礼を申し上げます。私のような何処どこの馬の骨ともつかぬ流れ者を村に受け入れて頂いて、まこと感謝の念に絶えません。女手一つで娘を養いますのも苦労に次ぐ苦労でした。ひと頃など道端で夜を明かしたことも一度や二度ではございません。

 夫ですか? ……はい、本来ならばこのことは誰にも明かさないつもりでしたが、わが夫は切支丹きりしたんでございました。はい、こちらの村が隠れ切支丹の里であることは承知しております。そうでなければ墓場までこの秘密は持って行ったでしょう。無論、私も切支丹です。しかしわが夫は勇敢に先の島原における一揆でイエス様にじゅんじたというのに、私は命惜しさに踏絵を踏んだのです。

 言い訳するつもりは毛頭ございませんが、もうその折、私には娘がおりました。如何なることがあろうとも生き延びよとの夫の遺言がなければ、私も原城はらじょうに篭城していたでしょう。刀剣は林の如く立ち並び、鉛玉は雨の如く降る過酷な戦場であったと聞きます。多くの殉教者の方々の遺体は供養くようもされず、巨石によって潰されたとも聞きます。ああ、彼らは世の終わりの日に甦ることが出来るのでしょうか。私はそれが気掛かりです。


 眠れぬ夜、私はうろ覚えの「おらしょ」を口中にて唱えます。もとより意味など分かろう筈もありませんが、これを唱えていると、亡き夫や「ぱあどれ」様達と安らかに祈りを捧げていた頃が甦るようで、心より慰めを覚えるのです。


 ああ、その「ろざりお」は! はい、まさしく私の物です。手先の器用だった亡き夫があり合わせの材料でこしらえてくれたものです。珠がとおしかなく、しかも「おんくるす」は目立たぬように形を曖昧にしております。それと知らぬ人が見ても、単なる数珠じゅずとしか思わないでしょう。

 これを何処で拾われましたか? なるほど、村外れの湖畔と言えば、私が娘と一緒に野宿をしていた場所であります。うっかりたもとから落ちたのでしょうか。


 そういえば昨夜はありがとうございました。はい? 何の話かと仰るのですか? てっきりこちらの村の方かと思ったのですが……。いえ、ご親切そうな男性の方が私と娘が眠る所にやって来て、そこは寒いだろうから物置を使うと良いと仰って下さったのです。私は有難くお言葉に甘えることにして、その物置で身を休ませて貰ったのです。「きさまりあびと」とはこういうことなのかと身に沁みる心遣いでした。

 え、あの湖畔の辺りにはそのような物置はないと仰るのですか。そんな筈はありません。暖かなわらの良い匂いを、私はよく覚えています。それは夢に違いない? そんなことはないと思うのですが……。

 ああ、夢という言葉で思い出しました。その夜はいつになく悪夢にうなされたものでございます。何か恐ろしい鬼のようなモノが、私をひと呑みにする悪夢でした。身動みじろぎも出来ない悪夢の中で私はほぼ無意識に、一心に「おらしょ」を唱えておりました。

 無論、夢の話でございます。けれど夢とは言え大層生々しく、また太陽をおがめましたことは大変有難く、私は側の娘を抱きしめ、思わず「でうす」様に感謝の言葉を述べておりました。

 ええ、村に置いて頂けるならば、どのような仕事でも致します。それで条件とは? ……無論、切支丹であることは隠し通します。「おらしょ」も人前では唱えないように致しましょう。


 改めてあつくお礼申し上げます。皆さまに「でうす」様のご加護があらんことを。



   〇



 我は子連れの女をたぶらかすのに成功した。心から我に「恋」をさせたとは言えないが、この際贅沢は言ってられない。ペルシャの幻術使いに昔教わった催眠術をここぞとばかりに使わせてもらう。女は焦点の合わない虚ろな目になった。これで我が首筋に牙を立てたとて、うめき声一つ上げないだろう。

 娘の方はすっかり寝入ってたので、喰らうにしても後回しだ。早速、女の首筋に牙を立てる。

 女は呻き声一つ上げない。欲を言えばここで少しは抵抗されると燃えるのだが、これは人による。余程内心を押し隠そうとする者ほど、抵抗は薄いものだ。まあ都合は良い。第一、大声を出された日にはちと面倒なことになる。

 まず、血を余すことなく吸い取ろう。食前のワインのような雰囲気に酔いしれる。天上の月はすっかり蝕まれて、不吉に赤い。それが食欲を急速に満たして行くのがわかる。

 本当に月蝕の光は我の空腹を満たす。大陸にいる頃、天文家に数年弟子入りしたことがあるが、月蝕の予測をする上で、あれがとても役に立っている。人間は愚かで弱い生き物だが、まるで役に立たないという訳ではない。

 全ての人間は我の養分となる運命だ。血も肉もその知識さえも。我こそが神だ。我こそが悪魔だ。我こそが鬼だ。我こそがアルファにしてオメガだ。我こそが一にして全だ。


 愉悦に浸り切っていたからかも知れない。我はその時、女の口元が小刻みに動いていることにようやく心付いた。

 ぼそぼそと何を呟いているのかとつい気になった。今思えば、さっさと絶命させておくべきだったのだろう。ところがその時はなぜか気に掛かった。我は耳をそばだてた。それが致命的な事態を招くことになろうとはいささかも思わなかった。我は明らかに油断していた。


「……でうすの御母さんたまりや、いまも我等がさいごにも、われら悪人のためにたのみたまえ、あめん……」


 初めは何のことやらわからなかった。頭の中で文が細分化され、特定の単語に意識が集中する。でう、でうす。たまりや、さんたまりや。デウス。サンタマリア。あめん。アーメン。


天使祝詞アヴェ・マリア」だ。あの忌まわしいカトリック教会!


 そう気付いてしまうと、五体を電撃のようなものが貫いた。我は耐え切れずその場にのけぞる。耳の辺りからじゅうじゅうと焼け焦げた臭いがし始める。くそ、何てことだ。こんな最果ての国に今なお、あの男の面影が生き残っていたとは。

 我はその時、ゲツセマネの園であの男に触れた衝撃を思い出していた。二度と甦らせたくなかった記憶。畏れ、屈辱。

 だがこれしきのことでへこたれる訳には行かない。思い直せ、これは所詮言葉に過ぎない。こんな辺境の女が呟いた言葉など、あの男の面影からは遠く隔たれている。そもそも我の中の恐怖心が過剰な反応を引き起こしているのだろう。そうだ、そうに違いない。

 我は女の息の根を止めに掛かる。この女を絶命させねばならない。

 震える手を女の首筋に伸ばす。しかしその時、まるで狙い澄ましたかのように、女の着物の袂から何かが我の手に落ちてきた。そして折りしも、蝕まれた月は失われた光を部分的に回復させつつあった。僅かな光線に過ぎなかったが、我の手とそこに落ちた「ろざりお」を照らすには充分な光源であった。それが我への致命的な一撃となった。


 我はゲツセマネの園で受けた痛みの数十倍の痛みを味わっていた。あまりのことに呼吸もままならない。苦悶の声が洩れる。そうしている内にも、天上の蝕まれた月は我の辛苦しんくも何処吹く風とでも言いたげに、元通りの円環にじわじわと回帰しようとしている。


 何故だ。そう思った。何故あんな不恰好な「ろざりお」が我をここまで打ちのめせるのか。

 確かに「ろざりお」は脅威だったが、ここまで致命的なものとなる道理があろうか。それとも、この女が天の異常な加護を受けているとでも言うのか。

 しかしあるいは、と思った。月蝕によって我の食欲が数倍に満たされるとすれば、それによって受ける痛みもさらに増幅するということもあり得る。そうだとすれば、何故今までそのことに気付けなかったのか。取り返しの付かぬ大失態だ。


 思考は意外に冷静さを保っていたが、体は徐々に脆く崩れ落ちようとしている。薄れ行く意識の中で、我はかつてナザレのイエスが語った予言を思い出していた。


「悪魔よ。あなたはいずれ滅びる。なぜならあなたは不完全な悪魔だからだ」


 我の何処が不完全だったというのか。教えてくれ、イエスよ。


「いずれあなたは自分の命を得るために、かえってそれを喪うことになるだろう」


 本当の命を得るためにはどうすれば良かったのか。我のような鬼が、悪魔が、そもそも本当の命を得ることなど出来たのだろうか。こうやって何かの拍子に崩れ去るのが、我の宿命であったのか。答えてくれ、イエスよ。


 だが神は答えない。救い主は事象の地平で沈黙している。


 ああ、どうして我はこのように事切れようとしている時であっても、あの男のことを思い出してしまうのか。どうしてあの男が最後に見せた、あの憐れむような目付きを懐かしんでしまうのか。

 死にたくない。心からそう思った。


 だが我の言葉も願いも、やがては黎明れいめいの光の中で青ざめ、風にさらわれ、初めからなかったもののように痕も残らないのだろう。

 何と不公平なことだ。お前の言葉も面影も、こんな辺境の国にまで生き残っていたというのに。我は塵一つも残すことが出来ないのだ。


 せめて悪態だけはいてやる。くそったれGODDAMN!!!!!!!!!!

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