たった一つの生存手順

湾多珠巳

The Only Order to Survive


 その瞬間、長彦おさひこは反射的に手を伸ばしていた。

 名前すら覚えてない、いかにも登山には不慣れそうなそいつが、八合目の急斜面で足を滑らせた時のことだ。長彦はザイルを掴み、しかし止めきれずに共に氷壁から転落した。

 七十度近い斜面というのは、ほとんど真っ逆さまの感覚だ。回る風景。何度も入れ替わる天地。頬をかすめる強烈な氷気。

 すでにザイルを握る意味はない。むしろ、放した方がいい、いや、放すべきだ。だが。

 ――マサミ……。

 長彦が恋人の面影を見たと思ったのは、峰の氷壁だったか、激突間際の凍った雪原だったのか。


 二十四世紀、すでに登山趣味は骨董品扱いになっていた。過酷な自然の領域へ気楽に足を向けるには、昨今の人間は科学文明に漬かりすぎていた。わざわざ氷と岩の厳しい世界に身を晒したがる者は稀有だ。

 ゆえに、長彦のような登山家は特別天然記念物級で、大金持ちになれる故もない代わり、ごくまれに高報酬の仕事をつかむことがある。

 さる医大からの、いささか得体の知れないミッション。雪山に登る調査団のガイドとサポート、という内容だ。だが、当日に現れた面々は、山に不慣れな人間ばかりなのが丸分かりで、長彦はこの契約を早くも後悔し始めていた。

 経済的な理由がなければ、違約金覚悟でその時に断っていただろう。

 そう、金だ。長彦は今回の報酬で、長らく待たせてきた恋人にプロポーズするつもりだった。

 この機を逃せば、当面チャンスはない。なんとしても成功させて、もちろん生きて帰る、そう強く決心した――のだが。



 意識が戻った瞬間、長彦は右足からの激痛にうめき声を上げた。

 膝から先が変にねじれている。折れてるな、と思った。自力での移動は難しそうだ。おまけに、ピッケルはおろか、荷物も全部飛んでいってしまったらしい。

 どれだけ時代が進んでも、何の装備もない人間が、過酷な自然の中で生き延びるのは難しい。捜索者に見つけてもらうことはなおさらだ。

 さて、と周りを見回したら、すぐ横に人影が座り込んでいるのが見えた。

「この組み合わせでいくしかない、か……」

 手の中を見つめて、妙なことを呟いている。

「おい……無事か?」

 声をかけると、相手はひょいと立ち上がって長彦に顔をぐいと近づけてきた。

「!……」

「ふむ、意識障害はなし、と。では――」

 声からすると女性らしい。同行者にそんな隊員がいただろうかと記憶を探るが、全員最初からモコモコの服装にサングラス姿だったから、分かりようがない。

「あ、あんたは」

「失礼。おかげで私の方はほとんどケガもなかった。さすがは山の男。あなたの判断は上も高く評価するだろう」

「いや、それはいいんだが……あんた、荷物は?」

「マシロと呼んでくれ。下に滑り落ちた時には、全部なくなっていた」

 つかの間感じた希望が、その瞬間に潰えた。

「ええと、マシロさん、あんた無線デバイスとか体内に埋め込んでたりは……」

「しない。残念ながら、今の私はあなたと同じぐらい、この状況に無力だ」

「なら何か、木の枝みたいなものはないか? すまん、その辺を歩き回って――」

「どうもその時間はないようだ。吹雪になる」

「何だって!?」

 まるでその一言を待っていたかのように、強烈な雪嵐になった。山の天気は変わりやすいと言うが、これはあんまりな急変ぶりだ。見る間に長彦もマシロも雪だるまになっていく。

「おい、マズいぞ、せめて岩陰とか」

「ない。ここはこのまま我慢だ」

「いや、我慢って」

 何を考えているのか、と思った。急低下する気温下で、吹雪が治まる気配はない。なのに、別段焦る様子はなく、かと言って体力自慢のタイプにも見えない。なぜ落ち着いていられる?

 いいかげん、横になった体が埋もれそうになった頃、不意にマシロが言った。

「ところで、質問がある」

「こんな時に何だ?」

「あなたがアメーバであるとしよう。そして、今急変している環境下にいる。周りにエサはない」

「な、何の話なんだっ?」

「二つ道がある。一つは現状でひたすら我慢する。もう一つは分裂して体を半分にし、分かれた相手を食べる」

「…………」

「分裂直後なら、相方には意志も感情も宿っていないとする。さあ、どうする?」

「……そういう条件なら、選択は一つしかないと思うが」

「うむ、いい返事だ」

 突然、長彦は口の中に雪の塊と何かのカプセルを押し込められたのを感じた。そのまま無理やり飲み込まされて、咳と足の痛みで七転八倒する。

「こぼっ、な、なにを……ぐほ、げほっ」

「すぐに分かる」

 ようやくその頃になって、長彦はマシロに恐怖を感じ始めていた。同行パーティーの一人には違いないようだが、考えてみたらこいつら全員、どこの何者なのかも聞いてない。だいたい、何で医大が雪山登山に金を出した? 今どきの医薬品業界など、遺伝子某とかナノ某みたいなものを弄んでる奴らだ。まさか、俺を食用にするなんてオチじゃ……。

 十分近く経った頃か。いきなり長彦は、感じたことのない体の変調に見舞われた。おかしな感覚だ。まるで全身の細胞が自分の意志でじわじわと動き回っているような。

「な、なんか変なんだけどっ、おい、俺は――」

「大丈夫。あなたの健康は保証される。一応」

「いやっでも」

 痛みなどはあまりないが、こんな異常な感覚は耐え難かった。気がおかしくなりそうだ。

 自己喪失の怖さから逃れるため、長彦はなりふり構わず喋り続けた。今、胃の底が前にせり出した、腹の中で何かが丸くなっていってる、おい、背中から何かが生えてないか?

 マシロはその全てを、なぜだか目を輝かせて聞き入り、長彦の手を取って励まし続けた。手を取ると言うより脈を測っている感じだったし、やたらと経過時間をまめにチェックしている風情ではあったけれど。

 ――いつのまにか裸になっていたようだ。いや、記憶はある。体のあちこちが服の中に収まりきれなくなった段階で、マシロが脱がせたのだ。半分パニックで恥も何もかなぐり捨てていた中でのことだった。

 今、ようやくにして長彦は、自らの体に起きた事態を悟った。悟らざるを得なかった。

「なあ、これ……タヌキだよな?」

 全身これ、信楽焼きのアレになってしまっているのだった。

「さっき飲ませたカプセルって……」

「そう、まあ獣人化を起こす即効性ナノデバイスと思っていただければ」

「なんでそんなものがっ」

「持っていたんだから仕方がないじゃないか」

「それを自分に使おうという発想はなかったのか?」

「あなたの骨折の対処が優先だったし、このナノカプセルは一つしかなかった。いいから、まず雪かきを済ませてくれんかな? その体なら二人用のカマクラぐらい、作れるだろう?」

 言われて、折れた足がおおむね治っているのに気づいた。全身を再構成したからか? 毛皮の体は保温も万全で、雪穴ぐらい簡単に掘れそうだ。下半身がどうも重いが――そこは今は突っ込まないで、とりあえず吹雪の中で作業を済ませた。

「やあ、ご苦労さま。少し休みたまえ。膝枕してあげるよ」

 疑い深そうにマシロを見ながら、それでも長彦は横になった。つい、つぶやきが漏れる。

「腹が減ったな」

「その問題をこれから解決しよう……あなたが自ら答えた通りに」

 キラッと薄闇の中で何かが光ったと思ったら、股ぐらに切り裂かれたような激痛が走った。――いや、実際に切り裂かれたのだ。何を? ナニを!

「お、お、お前は〜〜〜!! なんてことをしてくれたんだぁーっ!」

「済まない、心からお詫びする。が、生き延びるための食料は、身を削って作るしかない。で、生存に不要で、かつそれなりの質量の部位と言うとだな……」

「そ、そのためにタヌキにしやがったのか……」

「ご明察」

 ひどい。

 男の敵だ。いや、全人類の敵だ。これってカニバリズムじゃないのか。

 いっそ殺意を感じるほどだったが、現実的な方法はそれしかなかったようだ。しかし、こんなものを食うなんて……まあ俺自身はともかく、この女、いったい……。

 痛みと混乱の中、いつの間にか長い眠りについていたようだった。目が覚めると長彦は、またしても体の変調を感じた。いつの間にか人間の体に戻っているようだ。それはいい。結構なことだ。……が、この体は……。

「ナニを失ったのは分かるとして……この胸とか体型とかはいったい」

 声まで少年時代の甲高いのになっている。事態はもう訊くまでもなかった。

「うむ、これで生き延びられる。皮下脂肪が多い方が生存に有利だってこと、理解できるだろう?」

「同意はするが」

 肌と肌を重ね合わせながら、時々タンパク質の塊を頬張りつつ、長彦達は雪穴の中で微睡み続けた。体の相当量を食料にした分、体格が小さくなったような気がしたが、それで却ってマシロと抱き合うのに都合がよかった。アレがない分、性欲も減って、抱擁はひたすら穏やかだった。

 救助がやってきたのは十日後だった。ヘリの準備を待ちながら、長彦はマシロと最後の会話を交わしていた。

「大学側には我々の記録をそのまま提出したらいいだろう。予定の依頼とは違うが、規定の報酬は払うはずだ。私も口添えしておこう」

「あんた達の調査ってのはいったい……」

「ある種の高山植物が、この製品のいい触媒になる可能性があったんだ。まあ、法的に問題のある調査よりも、今回の臨床結果の方がみな喜ぶだろう。……ん、あれはあなたのお連れさんではないのかな?」

 ヘリの窓から若い女性が顔を出していた。長彦が手を振ると、首を傾げながらも振り返す。

「ええと……男に戻せるカプセルはあるんだろう?」

「あるにはあるが、失われた器官までは再生できないよ。……ま、今のままで同性婚でいいじゃないか。彼女も分かってくれるさ」

「山で女になって、もう一人の女とずっと抱き合ってたという俺の事情をか?」

「……大自然では、色んなことが起きるもんだよ」

 長彦は山の稜線を仰ぎ見た。峰々は無慈悲なまでに白く、空は残酷なまでに青かった。


  <了>

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