終章

最果ての薔薇園

 ティンカの冬は長く、厳しい。

 

 他の地域なら、とうに春の陽気が満ちあふれてやまない五月といえども、ティンカではまだ春の階が見えるに過ぎない。

 しかし、大地には緑の靄がかかり、この果ての地でも、命は急速に蘇りつつあった。

 待ち望んでいた季節が、また巡ってきたのである。

 

 アシュリンとクラウスがこの地に流されてから、早くも三年の年月が経過していた。

 

 ふたりがティンカに足を踏み入れて、まず目にしたのは、荒れ地の続く大地である。岩がごろごろと至る所に転がり、砂塵が風に舞う。春だというのに、なんて寂しい地なのだろう、とアシュリンは慄然とした。

 だが、そうとばかりはしてはいられなかった。これからは両腕を失ったクラウスを支えて、なんとかこの地で生きていかねばならないのである。かつて流刑囚が使っていたという、あばら屋も同様の家屋の中で隙間風に震えながらも、アシュリンに絶望に打ちひがれている暇はなかった。

 

 何よりもクラウスが、生きて傍にいてくれることが、アシュリンは嬉しかった。それを考えれば、どんな困難をも乗越えられるような気がした。


 細々した暮らしのすべてが、アシュリンの肩にのしかかった。しかし、彼女は決して弱音を吐くことなく、ただひたすら、クラウスとの生活に己の全てを捧げた。

 同時にアシュリンは、庶民の暮らしに溶け込んでいる初級魔術を、少しずつ習得しようと日々努力を重ねはじめた。それは次第に実を結び、季節が初夏に至るにおよび、アシュリンは、湧き水を浄化したり、立て付けの悪い扉を直したりと、生活に密着した初級魔術をなんとか操れるようになっていた。


 それでも彼女は満足せず、ときには夜が更けるまで、魔術の勉強に打ち込むこともあった。クラウスに「もう休みましょう」とやさしく声を掛けられて、ようやく寝床に就く夜も、少なくなかった。


 毎日が苦難の連続であった。でも、アシュリンは、幸せだった。

 なぜなら、隣で眠るクラウスの寝息を聞きながら寝台に横たわるとき、彼女は、いま自分が、このティンカの地で生を燃やしていることを、なによりも強く実感することが出来たのだから。


 こうしてティンカで生活を始めたふたりのもとに、少し離れた寒村の長老がやってきたのは、その年の夏の終わりだった。彼はクラウスの経歴に興味を持ってわざわざ訪ねてきたのだという。

 訝しがるクラウスとアシュリンに長老が打ち明けたのは、思いがけない話だった。


 その長老の住む村にも、かつて流刑囚がたくさんいて、そのなかには権力闘争に敗れて落ちのびてきた元貴族も多かった、と長老は昔を懐かしむ。そしてこの果ての地で生きるにあたり、彼らは共同で広大な薔薇園を作ったのだという。

 果たして、長老の願いとは、こうであった。

 

 時を経て、いまは廃れてしまった薔薇園をなんとかクラウスに再興してもらえないかというのだ。


「薔薇園の再興は、村人のなかでも長い夢じゃったんだ。しかし、この地の果てまで来てくれる庭師はついぞ見つからなかったし、ここ最近に至っては例の「庭師狩り」のおかげで、庭師自体が絶えてしまった。だが、そんなところにあんたが来てくれたのはなにかの縁かと思ってね。もう一度望みを繋いでみることにしたんじゃよ。どうだね、クラウス・ダウリングとやら、興味はないかね?」


 そう話を締めくくった長老の前で、アシュリンとクラウスは思いもかけない僥倖がこの地で待っていたことを知り、喜びに打ち震えた。だが、身を震わせつつもクラウスは、長老にこう述べずにはいられなかった。


「それはありがたいお話ですが、私は今、魔術も使えない上に、ご覧の通りの身体です。これでは庭師としての務めを果たすことは到底出来ません」


 すると長老は思いもしないことを言い出した。


「それは心配ない。実は私の村には、腕の良い義手を作る職人がいるんだ。最果ての流刑地と王都の者どもは我々を馬鹿にするが、どっこい、彼らの目の届かないここには、さまざまな難を逃れてきた者によってもたらされた技術が息づいておってな。どうかね? 我々はあんたに義手を提供し、その代わりにあんたは薔薇園を再興する。良い交換条件だと思わんかね?」


 思わずアシュリンとクラウスは、顔を見合わせた。願ってもない話だった。


 

 しかし、だからといって薔薇園の再興がすぐ始まったわけではなかった。まず、クラウスに合った義手を作るのに一年ほど時間が掛かった。そして出来上がった義手をクラウスが上手く使いこなせるようになるのに、さらに一年の時間を要した。義手は初級魔術を介して動く仕組みだったので、いまや魔術を使うことの叶わないクラウスには相応の鍛錬が必要だったのだ。

 しかし、クラウスはそれに耐え抜いた。上手くいかないときは、彼はアシュリンの初級魔術の力を借りた。そうやってアシュリンはクラウスを補い、支え、ふたりは一日も早く薔薇園を蘇らすことができるよう心を尽くした。


 だが、長老はこう言って笑うのだ。


「我々はこの地に庭師が来るまで、長い時間待ったんじゃ。一年や二年待つことなど、なんの問題も感じんよ。のんびりやってくれ」


 そんなわけで、ふたりがティンカにやってきてから二年あまりが経過して、ようやくクラウスによる薔薇園の再興が始まった。義手を使っての慣れない作業にクラウスは最初こそ苦戦したが、アシュリンは献身的に傍に寄り添ってはクラウスを手伝い、やがてその甲斐あって、薔薇園は少しずつその形を整え始める。

 

 そして、薔薇園の再興が始まってから、最初の春が来たのだった。



 その日の朝、アシュリンはクラウスに付き従って、蕾のつき始めた薔薇に虫がついていないか点検する作業に追われていた。すると、少し先を歩いていたクラウスがアシュリンを呼んだ。その声はやや興奮に震えていて、アシュリンは何事かと慌ててクラウスの元にスカートを翻して駆けていく。

 

 クラウスは薔薇の茂みのうえにかがみ込んでいた。そしてアシュリンを見て、焦茶色の瞳を細めて微笑みながら、ゆっくりと義手で青々とした茂みを指さす。


「アシュリンお嬢様、見てください」


 彼の指さした茂みを見ると、そこには、ふたりが薔薇園の再興を初めて以来、最初の薔薇が花開いていた。それはなんの変哲もない、薄ピンク色のちいさな薔薇である。

 特別な輝きはないけれど、禍々しさを感じることもない、素朴だが、力強く美しい一輪の薔薇の花だった。


 ふたりは、作業の手を止め、並んでその薔薇に見入った。

 やがて、アシュリンは感無量といった顔のクラウスに声を掛ける。


「クラウス、やっぱり、あなたはすごいわ。最高の庭師よ」

「何を仰います。お嬢様、それを言うなら……」

 

 そう言いながらクラウスが、いつかの旅の途中のように、義手をぎごちなくアシュリンの肩に差し出し、そっと置く。

 そしてこう彼女の瞳を覗き込みながら、囁いた。


「あなたは私の薔薇です。私の薔薇は、アシュリン、あなただったんです」

 

 暫しの後、クラウスは、アシュリンを初めて敬称を付けずに呼んでしまったことに気づき、顔を赤らめた。

 それを見たアシュリンが笑う。笑いながら、肩に置かれたクラウスの手を握り、抑えきれぬ愛情のままにその身へと寄り添う。

 

 最果ての薔薇園の上空を、蒼い五月の風が渡っていく。


 これ以上ない幸福に包まれながら、今一度、花開いた薔薇を見つめるふたりの男女を、祝福するように。


 了

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匂い立つは黄金の薔薇 ~花園の令嬢と最後の庭師~ つるよしの @tsuru_yoshino

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