ティンカーベルの肩甲骨

山田あとり

妖精の羽根は


 煙草の匂いは嫌いだ。

 そう思っていた。でも違う。


 嫌いなのは煙草の匂い。それと。

 煙草を吸う人。

 喫煙所の湿った空気。

 突然他所の家の換気扇から流れ出すコソコソとした罪悪感。

 道端に重なり落ちる、誰かを待ちぼうけた痕跡と切羽詰まった苛つき。あるいはヤニ仲間の歓談とその周囲への無頓着、気遣いのなさ――つまり煙草にまつわる諸々の何もかも。


 だけど敷きっぱなしの布団の上、毛布をかぶり横を向いて丸まるあたしの後ろにいる男は煙草に火をつけてぼんやりしていて、あたしはそれが嫌いではない。

 嫌いなんていう感情も、あたしとこいつとの関係も、それぐらいに曖昧なものだ。


 空気清浄機が微かな音をたてる。

 これも申し訳でしかない罪悪感と自己正当化。つまり言い訳。


 毛布の中にモゾモゾと手を突っ込んであたしの肩甲骨をなぞる。

 女の骨はおもしろい、とこいつは言う。

 細くてかたくなで、骨盤が張っていて、軽いような重いような、と。


 死んで、焼いて、セラミックのようになってしまえば重くはないだろう。でも生きて飛べるほど軽くはない。

 そもそも今のあたしに羽根はない。


 生まれる前には羽根があったのかもしれない。

 神の国だかなんだか知らないけれど、空から飛んできて人の腹に入った。あたしはそう覚えてる。


 あたしの肩甲骨に生えていたのは、鳥の羽根でも天使の羽根でもない。

 きっと虫のような羽根。

 よくいえば、ティンカーベル。でもブブブブ、と小さな音をたてて飛ぶんだ。

 やっぱり妖精ではなくて虫。

 虫のように生きているから、虫でかまわない。


 生まれた時にもがれたその羽根は、母の子宮に残っているのか。それとも胎盤と共に産み落とされて始末されたか。


 男の指が肩甲骨から背骨に移る。

 あたしは体を伸ばし肩甲骨を羽根のように立てる。

 あたしが羽化する。


 あたしはバサリと毛布をはねのけ、脱ぎ捨ててある下着を身に着けた。名残惜しそうに男の手がその中に入ってくる。でも散らかったTシャツもジーンズも容赦なく拾っては着る。

 着ても寒いので男の膝の間にもぐりこむ。煙草臭い。不機嫌になって後ろを向き、キスをする。やっぱり煙草臭い。腹が立つ。

 それでもキスしたいもんはしたい。

 その場で思ったことしかできない。虫だから。


 あたしはティンカーベルにはなれない。もう妖精じゃない。

 こいつもピーターパンじゃない。煙草吸って酒飲んで、することしてるくせに少年とか言わせない。


 あたしの元・ピーターは片手であたしを抱え込む。少し伸びた髭が擦れる。痛くて苛つくけど嫌いじゃない。

 煙草も髭も万年床も、ここにあるものは嫌いじゃない。

 床に散らかしたままのコンビニ袋。つまみのパック。落っこちた割り箸。倒れた空き缶。脱いだままの上着。畳んでない洗濯物。全部ひっくるめてこいつの匂いがして嫌いじゃない。

 焦燥感も現実感も煮詰まって溶けていく。


「なあ、今度、生でしよう」


 何言ってんだ、こいつ。


「だめ。かも」

「産めよ」


 ――何言ってんだ、こいつ。


「育てるからさ。稼ぐし。おまえが帰っちゃうの嫌なんだよ」


 こいつも虫だ。したいことしかできない。

 した後にあたしが帰るのが嫌だから、一緒にいたいから、子どもを産めって。どんな論理の飛躍だろう。


 さっき飲んでた空き缶のプルトップをグニグニと千切り取って、あたしの指にはめようとする。小さい。小指にも入らない。阿呆。


「そんなのいらない」

「え、でもこういうもんだろ?」


 結婚するつもりなのか。こんな最低なプロポーズ聞いたことない。

 こんなんで、あたしとこいつの曖昧な時間は終わるのか。あたしがはっきり言えるのは、嫌いじゃないということだけなのに。


「煙草やめる?」

「げ」

「あたし嫌いだよ」


 嘘。こいつの煙草は嫌いじゃない。

 でも言っとかなきゃ。あたしの腹に妖精を迎えるのなら。妖精はたぶん煙草が好きじゃない。

 あたしの肩甲骨にはもう、羽根はない。あたしは妖精じゃない。でも妖精の親になれるかもしれない。

 そうか、世の中の親はみんな、妖精を人間に仕立て上げてきたんだ。


 この部屋の薄暗い天井。あたしの目に映る夜の中にも、そのうちに見えるのだろうか。

 空の国から舞い落ちる羽根が。








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ティンカーベルの肩甲骨 山田あとり @yamadatori

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