君の記憶、薄紅色の道(後)

 一月半ば。

 センター試験の前日、三年生は午前で放課になる。その日の昼休み、下級生は部活の先輩たちに応援メッセージなどを渡すのが恒例だった。

 その日、わたしも文芸部の先輩に「きっと勝つ!」みたいな名前のチョコの小袋にメッセージを書いて、入院で渡せていなかった修学旅行のお土産とともに渡しにいった。

 そしてそれが済むと、迷いながらも意を決して久しぶりに見る先輩のところへと向かった。廊下の壁に寄りかかってバスケ部の後輩たちに囲まれた先輩の様子を窺った。このまま昼休みが終わったらどうしようと、焦りながら待ち続けた。

 そしてようやくわたしの番が来た。

「先輩、お久しぶりです」

「あ、舞香ちゃん」

「文化祭ではお世話になったので、頑張ってください」

「わざわざ、ありがとう」

「でね、ええと、これがセンターの応援で、これが修学旅行のお土産、あと二月は忙しいと思うのでこれは早いけどバレンタインです」

 最後だけ、少し小声になっていた。さすがにそれは抜け駆けみたいに感じていたし、ついでを装ってみたりした自分のずるさが少しイヤだった。

 それでも先輩は嬉しそうに、

「マジ?」と答えた。

「マジです。義理だし、ついでみたいで、たくさんになってごめんなさい」

 対するわたしは気弱になって、義理を強調する。ほんと、ダメなわたし。

「嬉しいよ、ありがとう。明日からがんばるよ」

「はい! がんばってください」

 やっぱり少しズルいよねと思いながら、わたしは三種類の贈り物を手渡す。その時、昼休みの終了を告げる予鈴がなった。

「じゃ、わたし、これで。がんばってくださいね!」

 気恥ずかしさと、それ以上に自分のズルさ加減にいたたまれず、わたしは逃げるように二年生の棟に戻った。続く清掃で、床のリノリウム板の継ぎ目にたまった砂埃をこれでもかというくらい掻き出し続けたのは覚えている。


 センター試験を終えると三年生は自由登校になった。必要な授業だけを受けて、やがて私立大学、国公立大学と立て続けに試験に向かっていく。当然、三年生との接点なんてない。

 先輩のことは色々と気になってはいたけれど、わたしも二年生の三学期は忙しかった。日々の授業は急に課題が増えていった。そして文化祭についての記事作成依頼がいくつか舞い込んだ。生徒会新聞、PTA新聞、同窓会新聞……と、掲載紙ごとに視点と内容を微妙に変えるのに苦慮した記憶が残ってる。

 そうこうしているうちに、寒い時期は過ぎていった。

 

 次に先輩と会えたのは寒さも和らいだ卒業式の日だった。

 だけどその日の放課後は、部活動ごとのお別れ会。そして同級生同士の別れの時。最後に少しだけでもお話がしたかったけれど、そこに委員会が同じだっただけのわたしなんかが入り込む余地などなかった。

 それでも、なんとなく下校時間ぎりぎりまで待てば、わたしの時間がやってくるような気がして、図書室で課題を解きながらわたしは時間をつぶした。

 図書室の窓から見た校内には、早咲きの河津桜がちらほらと舞っていた。下校時間を告げる校内放送が鳴っても、あたりは多少暗さを感じる程度で、十分に明るかった。そんな中で、わたしの目に映った桜の薄紅色はぼんやりとしていて、どこかほの白くもあった。

 そして、この日ばかりは他の生徒の姿もなく、わたしはひとりだった。

 ──卒業式の日に、こんな時間まで残って何をやってるんだろう。

 重い足取りで靴を履き、自転車小屋を経由して校門を出る。

 何も起こらない。

 当然。


 でも、


 「舞香ちゃん!」

 不意にかけられた声。そしてわたしは振り返った。自分がどんな顔をしていたのか、そんなことは解らないけど嬉しかった。

「自転車があったから、教室でだべってた。この前のお礼も渡してないし」

「お礼ですか?」

 小さな紙袋を差し出された。

「受験旅行のお土産と早いけどホワイトデー。過ぎてるけど誕生日の分も増量しといた」

 実はセンター試験の日だった、わたしの誕生日。今までにわたしからもらった様々なものの返礼だと強調して先輩は紙袋をわたしに押し付ける。受け取ったわたしに先輩はポツリと言った。

「国公立の発表はまだだけど、ホワイトデーの頃には家探しとかでこっちいないと思うから」

 その言葉に、三月中旬にはこの町から先輩がいなくなることを知る。

「ありがとうございます。受かってるといいですね。でも、先輩は律儀ですね」

 嬉しかったはずなのに、そしてそれ以上に寂しさを感じていたはずなのに、わたしはそれを覆い隠すように素っ気ないことを言ってしまう。悪い癖。でも、たぶん表情は隠せていなかったと思う。

 それから、六月の文化祭の頃のように、わたしは自転車を押して先輩と並んで歩いた。あのころとは季節が違って、散り始めの河津桜とちらほらと芽吹き始めた染井吉野が中途半端に街を薄紅色に染めていた。

「寂しくなりますね。先輩と、こうやって帰れて楽しかったです」

 六月の時と違って、会話はとぎれとぎれになる。理由は知っていた。

 もしもわたしが告白すれば、もしも先輩が「好きだ」って言ってくれれば、わたしたちが付き合えるのはわかっていた。遠恋になるけど。

 でも、遠くの街に行く先輩には、新しい生活、新しい出会いが待っていることも理解していた。わたしなんかが、その新しい日々の邪魔になってはいけない。そう思っていた。

 先輩も、わたしが受験生になることを多く口にした。真面目で誠実な先輩は、わたしの受験の邪魔にはなりたくないと思っていたのだろう。この時の会話の中に、それはひしひしと感じられた。そして先輩は、わたしの志望は先輩が進学する街とは全く別の地方だということも知っていた。


 好きを突き詰めれば、相手の未来の可能性に干渉する。今ではなんとなくわかるそのことも、甘い理想に生きる高校生のわたしたちはまだ知らなかった。お互いに強引さも持ちあわせず、お互いの未来への可能性を尊重しすぎていた。そんな正義感めいた気持ちに二人とも満ちあふれすぎていた。

 だから結局、お互いに言葉もなく、そのまま交差点が見えてきた。

 わたしたちは立ち止り、でも、またねともさよならとも言えなかった。

 どちらが先だったか、それは覚えていない。でもわたしは言った。

「先輩。***に行っても頑張ってくださいね! 応援してますから」

 わたしは恋心をそっと胸に封印することにした。

 淋しくもあり、辛くもあったけど、これでいい、これが正しいと、幼いまっすぐな気持ちでわたしは思った。

「受験頑張ってな。文化祭、今年よりいいの作れよ、

 先輩はそう言ってくれた。それで十分。

 わたしは嬉しかった。


* * *


 自転車を押して歩く高校生の姿は小さくなっていた。薄紅色に彩られた世界を歩く制服姿の二人に、わたしは往時の自分の姿を重ねていたようだ。

 あの日、交差点で別々の方向に分かれてから、先輩と会うことはなかった。

 淡い後悔、でも正しく誠実であったと誇らしくもあった。もちろん痛みが皆無ということは無かった。

 でも三年生の日々の忙しさの中で、やがてそれも薄れていった。


 実行委員長として迎えた三年次の文化祭。副委員長の二年生は女の子で、わたしたちは和気藹々と文化祭に向けて準備をした。その年の放課後補習は文化祭終了後に始まるということもあり、約束だから去年よりいいものをとわたしは頑張った。 

 そして閉会式。去年のわたしとは違う、副委員長の朗々としたスピーチ。でもその途中で、彼女は突然「やっぱり今年も、最後は舞香さんのお話聞きたくないですか?」なんて全校生徒に呼びかけた。何のことかわからない一年生を取り残して、二三年生から無責任な拍手が湧いた。本部席で焦りながら「だめ!」とバツを作って彼女に合図を送ったわたしを、なぜか先生が「行って来い!」と放り出した。グルだったっぽい。

 おずおずと前に立ったわたしは、アドリブが苦手でやっぱり言葉に詰まり、やり遂げた達成感の中でまたしても泣きそうになった。

 そして前年と同じような黒歴史が繰り返された。

 ひとつだけ違ったことは、後悔の念に襲われたこと。一年前、わたしもこうして先輩を閉会式に立たせたらよかったのかも、そう思って後悔した。

 先輩のことをこんなに思い出したのは、その文化祭以来だろうか。


 今、何をしているのだろう。元気でいるのだろうか。

 

 暖かくなったとはいえ、ときおり肌寒さも感じる。

 空気の冷たさを感じたわたしは、ベンチから立ち上がって空を見た。風に流れる花びらが、靄のように世界を包み込んでいる。

 ──戻ろっか。

 自転車のハンドルに手をかけて押し歩く。でもビンディング・シューズでは歩きにくく、歩調がぎこちない。そうして道に出ようとして、わたしは動きを止めた。

 舞い散る桜が視界を霞ませる。そして薄紅色の花びらが道を覆いつくしていた。

 なんとなく自転車にまたがる気になれなかった。

 ──もう少しだけ、君を押して歩いていこうか。

 せめて、この薄紅色の街路が尽きるまでは押していこう。あの日、胸にしまい込んだ淡い恋心にも似た、朧な景色。その中で、立ち止まって目を閉じた。

 気持ちの良い風、頬にあたる花びらのふわりとした感触。


 春は、静かに花を散らし続けていた。

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自転車とわたし 舞香峰るね @maikane_renee

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