君の記憶、薄紅色の道(中)
文化祭の準備に悪戦苦闘して、下校時刻ギリギリに校門を出る。すると、いつの間にか先輩と合流している、そんな日々が続いた。
それは補習でたまにしか委員会に顔を出せない先輩とわたしの、正副実行委員長同士の定時連絡みたいなものだった。本番一週間前の準備期間に入ると、さすがに三年生の補習も中断となったが、それまでは三年生が委員会に毎日顔を出すことは難しかった。だから、この下校のひとときはありがたく、わたしは困っていることを先輩に相談することができた。
二年生主導で動いている実行委員の構想と、最後の文化祭に臨む三年生の各団体がしたいことの間には、幾度となくずれが生じていた。そのため、円滑な行事運営を目指す実行委員会と三年生の考えが衝突することが多々あった。
当然、三年生からは不満の声が上がってきていた。
この下校のひととき、自転車を押しながら先輩に相談したことの大半は、そうした三年生がらみの問題だった。
三年生の気持ちを出来るだけ汲んで、わたしたち二年生の実行委員や生徒会の先生は計画を立てていたけれども、全ての団体を満足させることは難しい。どうしても妥協点が見出せないことも多かった。その調整役が実行委員だったけれど、下級生には荷が重い状況に幾度となく直面した。
どうすればいいのかわからなくて、わたしは泣きたくなることもあった。けれども、先輩に話せばすぐに三年生の実行委員たちが動いてくれた。「三年が準備に関われていない以上、頑張ってる二年に文句を言わせるな」が、先輩の掲げた三年生実行委員のスローガンだったらしい。先輩たちは、わたしたち下級生を庇って、不満を漏らす三年生の各団体の責任者と話をつけてくれた。下級生のお願いや先生方の説得よりも、同学年同士の話し合いは何よりの解決策だったようだ。
そして次の日の下校時には「こういう風にしといたから」って、自転車を押してその横を歩くわたしに、涼し気な口調で先輩は言ってくれた。
そんな下校のひとときは三週間ほど続き、文化祭まであと数日というある一日が訪れた。わたしはその日が先輩の誕生日だということを知っていた。前に、模擬試験の受験カードで志望校を見せてもらったことがあった。その時に、生年月日欄を見て「文化祭の※日前なんですね」って会話をしていた。
この頃には、わたしは先輩のことをとても頼りにしていて感謝もしていた。
なので誕生日を知ってしまった以上は、何かプレゼントした方がいいかななんて考えるようになっていた。
でも、わたしは先輩のことは何も知らなかった。彼女さんがいたらもらっても困るだろうし、いなくても扱いに困るようなものは避けたい。何を渡せばいいんだろうと悩んだ。
考えて考えて、でも何も決めきれなかった。
結局その日の朝、ちょっとかわいらしい紙袋を家から持ち出し、苦し紛れにコンビニで、渡せなければ自分で食べればいいやと、パッケージにやたらと余白の多い板チョコやこまごまとしたお菓子をいくつか買って、それをカバンに忍ばせた。
今ならスマホ一つで、待ち合わせなんて簡単にできる。
わたしは親との連絡用にスマホを持たされていたけれど、先輩は家の方針で持っていなかった。明日も一緒に帰ろうなんて約束しているわけじゃないから、校門で合流できるようになんとなくお互いに時間を擦り合わせた結果、その日もわたしは先輩の隣で自転車を押して歩いていた。
取り止めのない話の数々。
傍目にはつき合っているように見えていたかもしれない。
でも、そうなるには時間が短すぎ、わたしたちはまだお互いのことを知らなさすぎた。
その日のわたしはプレゼントらしきものを渡すか渡さないかで頭の中がいっぱいで、気もそぞろだった。そしていつものように、交差点で先輩が「またね」と告げた時、慌ててわたしは「待ってください」と口に出してしまった。
言ってしまってわたしは焦った。
二月の義理チョコみたいなものなのに、慌てふためいた。
「先輩、今日お誕生日でしたよね。朝気づいて、こんなものしかないけれど、よかったら。おめでとうございます」
言い訳がましい噓を織り交ぜて、板チョコを取り出すと、わたしは教科書を下敷きがわりに、自転車のハンドルを机がわりにしてパッケージの表面にメッセージを書いた。街灯の頼りない灯りと気恥ずかしさで、理想的とは思えない字になってしまった。そして、絶対にコンビニにはおいてない紙袋に詰め込んだお菓子とともに、少しだけ震えながらそれを差し出した。
「まじ? サンキュー。大事にするわ」
「いえ、早めに食べてください」
そんなやりとりをして、二人ともなぜかそそくさと別れた。
──お誕生日、おめでとうございます。文化祭、成功させましょうね。受験勉強も頑張ってください。
そんな他愛もないメッセージだった気がする。
それからは何の変哲もない日常。
文化祭自体も滞りなく終了した。いや、一点だけわたしの想定外。
スポットライトに照らされた閉会式のスピーチで、わたしは言葉に詰まってしまった。それだけが想定外。
実質的には委員長として、いろんな団体の板挟みになったこと。実行委員もまとまりきれない時が多くあって、自分の不甲斐なさに落ち込んだこと。他の委員が部活で抜けて、生徒会の先生と二人で作業を進めたこと。ギリギリまで進行の心配をしたこと。最後はみんな、協力してくれたこと。いろんなことが込み上げてきて声が震えた。
そしてわたしは泣きそうになって、ついには発する言葉を失くしてしまった。
どこからか「頑張れー」なんて声が聞こえてきた。わたしは感極まったアイドルみたいなノリで、声の聞こえてきた方に、はにかんで手を振った。それは泣きそうになった気恥ずかしさを誤魔化す行為だったけれど、「かわいー」なんて茶々も聞こえてきた。そこからはグループを卒業するアイドルみたいな勢いでその場を切り抜けたけれど、何を言ったかしどろもどろ。今考えると恥ずかしい黒歴史だ。
込み上げてきたことの中に、先輩と一緒に帰る時間も終わったんだ……というのもあったのは誰にも内緒。
この時には、すっかり先輩を意識している自分がいた。
実行委員も無事に解散となり、わたしの下校時間と補習で忙しい先輩の下校時間は完全に合わなくなった。校舎の棟が違うので、三年生とは普段の接点もなく、せっかく仲良くなった先輩とも疎遠になっていった。
今ならSNSで簡単にやりとりはできるけど、先輩はスマホもケータイすらも持っていないからどうしようもなかった。誰か別の人を通じて……ということができるほど、わたしは恋愛にオープンな性格ではなかったし、何より先輩は受験生だった。
一度経験してしまえば、受験なんて「こんなものか」って話だけど、高校生だった当時のわたしは、受験は何やら得体のしれない、でも厳然とした恐るべきもののように感じていた。馬鹿みたいに思われるかもしれないけれど、そんな恐るべきものに直面している受験生に近づくなど畏れ多い、なんてわたしは考えていた。
そんな生真面目すぎる高校生のわたしは、芽生えてしまった感情に戸惑った。好きを意識していたけれど、もう少しいろんなことを知る時間は欲しかったし、何より先輩の受験の邪魔にはなりたくなかった。
だから、何の進展もない。
体育祭の時に少しばかりお話できたけど、人数合わせで召集された三年生のフォークダンスでは先輩まで順番が届かなかった。
おまけに、わたしは二ヶ月近い入院をしてしまい、二学期後半は学校生活すら送れなかった。弱々しい姿は誰にも見られたくないし、両親も娘のそんな姿を誰にも見せたくないから、面会は謝絶。先輩はおろか、クラスメイトからも隔絶された。
お医者様や両親の計らいで、十二月の修学旅行には参加できた。けれどもその後、念の為に再び病院に入って、わたしはそのまま二学期の終業式を迎えた。
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