薄刃の石

三條すずしろ

薄刃の石

――2万年前の武蔵野台地は冷涼で針葉樹林が繁り、海岸線は今よりもっと遠くにあった――。



きんっ、きんっ、と高く澄んだ音がひびき、つぎつぎに石が薄くするどくはがされてゆく。

おじいが皮にくるんでひざにはさんでいるのは、まっ黒な氷のかたまりみたいな石。

おれたちがいま寝ぐらにしてる森から、お日さまの沈む方へずっと行ったところでとれたものだそうだ。


おじいはその黒い石に短く切ったシカの角のさきっちょを当てがい、その上から手に持ったちいさい石をこんっと打ちつける。

すると黒い石はきんっ、とないて薄くするどく、縦にながくはがれてゆく。

これだけでもう、シカでもウサギでもどんな肉もバラバラに切れる刃ものとしてつかえるんだ。

おれがいまよりもっと小さくて足の皮もまだやわらかかった頃、それを踏んでたくさん血が出たことがあった。

でもおれは、おじいが石の刃ものをつくるのを見るのが大好きだ。


この黒い石をはがすと、裏には必ず水たまりにしずくが落ちて広がっていくような模様ができた。

シカ角を当てたところの近くはおやゆびのつけ根みたいにぷっくりふくらんで、小さく欠けたところは日の光にあたってきらきらといろんな色にひかってみえる。


黒い石をはがしてできる道具はたくさんあって、えものの皮をはいでなめすときに脂をかきとるやつや、皮にちいさな穴をあけるやつや、木や骨にほそいみぞを彫るやつなんかもつくれる。

もちろんえものをしとめるためのだいじな道具もつくれるけど、おれはまだ黒い石をたたかせてもらえない。

なぜならとても貴重で、へんなはがしかたをするともう使いにくくなってしまうからだとおじいはいう。


おれは早くこの石で、おじいみたいにいろんな道具をつくれるようになりたい。


おれたちは寝ぐらをちょっとずつ変えながら、えものを追ってくらしている。

けれどおかあやほかの子のおかあに赤んぼうが生まれて、動けないのでここしばらくは同じところに住んでいる。


おれのおとうという人は、おれが生まれてすぐの狩りで死んだんだそうだ。

とても大きなヘラジカの角に刺されて、がけの下に落ちたんだそうだ。

狩りはいのちがけで、ほかの子のおとうが死ぬのもめずらしくなかった。

おれも早く、おれのつくった道具をもってえものを狩りにいけるようになりたい。


でも、おれのしごとはまだ木の実をひろったり虫を集めてきたりすることだけだった。


しばらくの寝ぐらをこの森にきめてから、おれにはひみつの場所ができた。

木の実をひろいながら森のはしまでいくと、ここが高台だとわかるながめのいい岩かげがある。

おれはそこで、そのあたりに落ちてる石で道具づくりのまねをするようになった。

いろんな石を手あたりしだいにたたいてみたり、おじいが剥がした黒い石のかけらをこっそり集めて日の光にすかしてながめたりした。

その辺に落ちている石はきれいに割れることもあったけど、だいたいはがんっとにぶい音がしてびくともせず、石を打ちつけた手がしびれてしまった。


お日さまが沈むほうでものぼるほうでも、どこか「むこうのほう」からやってくる人たちはみんな旅人だ。おれたちもふだんは場所を変えながらくらしているから、そういう人たちとときどき出会うことがある。

なかにはすごくすごく遠いところからやってくる人たちもいて、道具をつくる黒い氷みたいな石もそんな旅人がもたらすものだ。

おじいやほかの子のおとうたちはびっくりするくらいたくさんの肉と黒い石をとりかえていたので、やっぱりおれにはまだ触らせてもらえないほど貴重なものだとよくわかる。


旅人は何人もの集まりのことが多いけれど、その人はたったひとりでおれたちのところへやってきた。

もちろんおれよりは年かさだけど、ほかの子のおとうたちよりは年下にみえる若い兄ちゃんだった。

その兄ちゃんは顔つきも身につけているもの一つ一つも、おれたちとはちょっと違っている。

口で話すこともおじいたちとはよく通じなかったけど、それはどの旅人もおんなじことだ。

兄ちゃんはひとりで獲ったのか、おれたちへのおみやげに大きなシカの肢を担いできていた。

大人たちが身ぶり手振りで聞きだしたところによると、その兄ちゃんはお日さまの沈むほうの黒い石がとれる山より、もっと遠くからやってきたのだそうだ。


兄ちゃんのことを歓迎して火が大きくたかれ、たくさんの丸石がそこにくべられた。

熱々にした石に葉っぱでくるんだ肉なんかをのっけて、ふんわりと焼き上げる。おみやげのシカ肉も切りわけられたのだけど、そのとき兄ちゃんが取りだした刃ものにみんな目をうばわれた。

それは見たこともない濃い灰色をしていて、するどくもずっしりとした頼もしさを感じる、木の葉のような形の刃ものだった。

びっくりして遠くからじっとそれを見ているおれに気付いた兄ちゃんが顔をあげ、ちょっと笑いかけてくれた。


しばらくおれたちの寝ぐらでいっしょにくらすことになった兄ちゃんは、すごく狩りがじょうずな人だった。もちろん石の割りかたもうまくて、はじめて見る道具のつくりかたにはおじいたちも感心していた。


話していることはよくわからなかったけど、よく笑う楽しい人だったので子どもたちもすぐなつき、女の人たちも兄ちゃんがいるとなんだかそわそわしているような感じがする。


でもおれがひそかに気になっていた女の子までが兄ちゃんのことを熱っぽい目で見たり、おじいがけっしておれには触らせない黒い石の割り方を兄ちゃんに教えたりすることに、ちょっともやもやと落ち着かない気持ちにもなってしまう。


ある日おれはいつもみたいに、ひみつの場所で石を割ろうとしていた。おじいや兄ちゃんの手しごとをながめることは許されていたから、それを真似して手にもった小さな石で大きな石のかたまりを叩いてみる。

けれどがきっ、がきっ、とかたい手ごたえがはねかえってくるだけでいっかな石は割れない。

そこへ、ひょっこりと兄ちゃんが現れた。

びっくりしてかたまってしまったおれと石を交互に見て、にっこりと笑う。

兄ちゃんはいつも背負っている皮のふくろから何かを取り出すと、そっとおれに持たせてくれた。

それは、兄ちゃんが使っている刃ものと同じ、濃い灰色の石のかたまりだった。つめたくてずっしりしていて、いかにも頼りがいのありそうな石だ。兄ちゃんはおれからそれを取ると手近でたいらな石の上にのせて片手でささえ、もう一方の手にもった小さな石を打ちつけた。

かきんっ、ときれいな音がして、薄くするどい石の刃が剥がれおちた。


けれどその姿は、いつも見なれた刃ものとはちがう。

黒い氷のような石は縦にながく剥がすことが多いのにくらべて、灰色の石は横にながい形で剥がれた。

裏を見てみるとあの水たまりにしずくが広がっていくような模様がしっかりあるけれど、黒い石ほどはっきりとはわからない。

刃の部分はいかにも丈夫そうで、欠けやすい黒い石とはその点もちょっとちがう。


兄ちゃんが、身ぶりでおれにも割ってみるようすすめてくれているのがわかった。

おじいにも道具づくりのための石をさわらせてもらえてないおれは、うれしさで胸の奥がカッと熱くなる。

兄ちゃんがしていたように灰色の石を支えて、さっき打たれて白っぽく色が変わったところ目がけて手の石を打ちつけた。


かきんっ、と高く澄んだ音がして、兄ちゃんがもってるような石の刃が剥がれた。

刃の片側をちょっとずつ剥がしながらつぶして、手待ちがいいようにととのえたら完成だ。

それを兄ちゃんはないしょでおれにくれた。

なんだって切れそうな石の刃は、おれのたからものになった。

でもそれからまもなく、兄ちゃんはおれたちのもとをはなれてまた旅にでていった。

北、というほうに向かっていったのだとおじいはいっていた。


――手足が伸びて黒い石での道具作りを覚え、俺は何頭も獲物を仕留められるようになった。

幼い日に旅の若者からもらった西の石でできた刃物は、今も肌身離さず携えている。

俺は折に触れてあの若者のことを思い出し、やがて自分も旅に出ることを選んだ。

なんでもここよりずっと北の地には、ものすごい量の黒い氷のような石があるらしい。

そしてそれを薄く長く剥がす技があり、尖らせた木や角の両側に埋め込んで何度も刃を取り替えられる狩りの道具にするのだという。

生きてそれに出遭えるかは分からないが、どうしてもこの目で見てみたい。

俺は灰色の石の刃ものを大切に握りしめて、ゆっくりと「北」へ向けて歩き出した。

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薄刃の石 三條すずしろ @suzusirosanjou

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