07話 ー勝てば必ず今日より良い明日がやってくるー
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「試合も決まって、バーツさんがこうやって飯も寝るところも手配してくれたんだ。こそこそ夜中に出歩く必要ねえだろう」
オグマとの試合が正式に決まり、それまでバーツの所有する小屋でケンキチと寝泊りすることになった頃の事。
「試合まで、だろ。どうせみんな、俺が無様にやられるところを期待してる。無様にやられて役目を果たしたらお払い箱。また橋の下のドブネズミだ。それまで蓄えは作っておかねえとな」
二段のベッドの上段でキッドは寝ころんだまま答えた。
「おめえってやつは……」
「心配すんな、もう盗みはしてねえよ。落ちてるもの、捨てられてるものを拾ってるだけさ」
上段から顔をのぞかせ答えるキッド。
ケンキチは悪びれないキッドの態度に呆れるしかない。
「今度、教えてやろうか。結構、落ちてるものでも食えるものあるし、割と金目のものもあったりする。水の調達場所とか貴族連中のゴミ捨て場とか。酒だって手に入るんだぜ、飲みかけばっかだけどな」
「キッド、おまえはボクサーなんだ。ボクサーってのはただ殴り合いをするんじゃねえ。みんなの前で己の人生をかけてリングに上がるんだ。もっと誇りを持てよ、意地ってやつはねえのか」
「殴り合いなんだからケンカだろ、蹴らなきゃいいだけの。あんたの前いた世界ではどうだか知らねえけど、ここでは剣や魔法と違っていじめの道具にしかなってねえじゃねえか」
「あいつらのことか……」
ケンキチは橋の下の河原でキッドがオグマ達に囲まれていた光景を思い返した。
「やられたらやり返す。オグマの野郎には今までのうっぷんをしっかり返させてもらうぜ。リングの上なら後ろから羽交い絞めもできねえだろうし、一対一で真っ向からやりあえるんだ。あいつの動きはこの身体に染み付いてる。徹底的にぼこぼこにしてやる」
キッドは拳で手の平をパンと叩いて、闘志を燃やす。
「しかし、あんたの世界もおかしなもんだよな。剣や魔法じゃなくて殴り合いに勝った人間がほめたたえられるなんて。ま、俺みたいな人間にはお似合いだけどな」
へへっとキッドは指で鼻の下をこする。
「おめえは世の中を知らなさすぎる。俺のいた世界もおめえの生まれたこの世界も、生きているのは同じ赤い血の流れる人間だ」
「おーおー、神官様のお説教みたいなことを。なら一つ賭けといこうじゃねえか」
「……賭け?」
「今度のオグマとの試合で俺が勝つ。ぼこぼこにしてな」
キッドは当然のように宣言した。
「そのあと、周りの連中が俺をほめちぎるかどうか。……俺は何も変わらない方に賭けるぜ。上っ面ではどうだかしらねえけど、心の底では〝橋の下のドブネズミ〟ってバカにし続ける。世の中、何も変わらない。みんなそっぽを向いて去っていく」
「……いいだろう。俺はお前が勝てばみんながほめてくれる方に賭ける。みんながお前を見る目が変わる方に賭ける。いや賭けじゃねえ、変わらないわけがねえんだ。勝者が報われないなんてことはありえねえ。勝てば必ず今日よりいい明日が訪れる。絶対にな」
ケンキチもまたキッドに力強く宣言した。
*****
リングの中央で向かい合う、キッドとネズミ。
キッドの目には涙があふれ、ネズミはキッドを見上げたままだった。
「やっぱり、賭けは……俺の勝ちじゃねえか」
それみたことか。俺の言った通りだ。
この世界に橋の下のドブネズミを助けるやつなんていやしない。
あんたのいた世界とは違うんだ。どうだ、まいったか。
キッドの勝利宣言は言葉にならない。涙で声が震えてまともにしゃべることもできない。
ぽろぽろとキッドの目から涙が落ち、リングのマットを冷たく濡らす。
頬の赤い血は固まり、石をぶつけられたところから流れる血も頬まで筋を作ったところで止まっていた。
キッドの握った拳は震え、目から涙、嗚咽が口から洩れる。
それでもまだ、キッドは震える足でリングの上に立ち続けた。それが勝者として残された、最後の意地。
パチパチパチパチ……。
どこからか拍手が聞こえてくる。それは自分には聞こえてくるはずのないものだった。
それがなぜこうして耳に届いてきているのか。
キッドは涙をぬぐい、左右を見回す。
リング周辺には群衆が減ってはいるものの、まだまばらに人が残ってはいた。
だが、誰一人拍手はしていない。ただ誰もが茫然と口を開けていた。
青コーナーのマロンとバーツも拍手はせずに辺りを見回しているのが見えた。
足元のネズミを見ると一方に視線を送っていた。
キッドはネズミの見ている方向に視線を送る。
そこには貴族達の去った来賓のテントの奥で仮面をつけ、白い法衣をまとった人間、フィスト・ナックルが立ち上がり、リングの上のキッドに向かって拍手を送っていた。
パチパチパチパチ――。
フィストはテントの外に歩み出て、なお拍手を送り続ける。会場でたった独り、リング中央で勝者として立っているキッドに向かって。
それはやがて同じテントにいるゴンゾーにも伝わり、会場の中に残っている人々にも伝わり始めた。
拍手の音がだんだんと、だんだんと、少しづつ大きくなり、それはやがて会場に残っている全ての人間がキッドを讃える拍手となり、キッドを讃える歓声となった。
よくやった、えらいぞ。お前は立派だ、キッド。勝ったんだから胸を張れ、キッド。
拍手と共にキッドの名前が呼ばれはじめる。
拡声魔法のかかったロッドも使っていないのに、大きくしっかりとキッドの耳に届く。
誰もが立ち上がってキッドの名を呼び、キッドを讃え、笑顔で大きく拍手を送っていた。
マロンもバーツも、試合を運営していたレフェリー、タイムキーパー、アナウンサー、そしてフィストの従者もゴンゾーも。
仮面で素顔が覆われているフィスト・ナックルですらも、キッドを笑顔で讃えていることが見て取れた。
会場の拍手と声援が温かくキッドを包む。
足元のネズミもまた、温かく優しい眼差しをキッドに送っていた。
キッドは物心ついた時から今まで、他者から受けてきたものは侮蔑と嘲りだけだった。
それが今は、会場にいる誰もがキッドを讃える温かい拍手と優しい声援を送っていた。
キッドの瞳からぽろぽろ、ぽろぽろと、温かい涙がとめどなくこぼれ落ちていく。
初めての体験にキッドは立っていられず、膝からくず折れてただ泣きじゃくる。
きゅー。
自分を心配するネズミの鳴き声にも応えられない。
キッドはわき上がる衝動にまかせるまま、観衆の人々から祝福を受けながら、ただただわんわんと声を上げて涙したのだった……。
*****
マロンの胸に抱きかかえられた、金の首輪のネズミが一匹。
キュ。と挨拶のよう一声鳴いた。
茫然としているキッド。
「これが……ケンキチのおっさんだってのかよ」
「ええ、間違いありません。確かめてみますか?」
マロンの後ろに立っていたバーツが、キッドに金の装飾が施された腕輪を渡す。
キッドが腕輪をはめると、キッドの頭にケンキチの声が響いてきた。
『やっハロー』
「やっハロー、じゃねえだろ! なんでおっさん、ネズミになってんだ!?」
『いやあ、色々わけがあってだな』
「色々ってなんだよ、オグマのやつとの試合はもう
「セコンドには私とマロンの二人がつくよ」
「え、うちもですか?」
「もちろん。休憩の時に水を飲ませるだけでいいから。アドバイスは私がケンキチさんとその腕輪でやりとりして、伝えるから」
キッドに加えてマロンも茫然とした。
『がんばろーな』
そう言ってきゅきゅっ。と明るくネズミもといケンキチが鳴いた。
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