03話 ーファイティングポーズー
ラウンド終了のゴングが鳴り、次のラウンドまでの60秒のインターバル。
拘束の解けたキッドとオグマはそれぞれのコーナーに戻り、椅子に座り、呼吸を整える。
それぞれのセコンドはマウスピースを受け取り、足元の桶の上で水洗い。
キッドとオグマは水で口をゆすいで、セコンドが差し出した桶に吐き出した。
キッドへのうがいを済ませたマロンは、キッドにマウスピースの洗浄にも使った瓶の水を飲ませる。
「キッド、ただ逃げてただけじゃん。結局一発もこっち手を出してない」
「いいんだよ、奴をカッカさせるのも作戦てやつさ」
マロンの率直な感想に、キッドはにやりと笑みで返す。
「キッド、次から行ってください」
コーナー下から桶を下げたバーツが、キッドに告げる。
そしてバーツは肩のネズミと目くばせをして、両腕を立ててキッドを見上げる。右腕の袖から手首に巻いた金の腕輪の光が見えた。
「キッド」
「わかってるよ。奴の動きが見えていても、気をぬくなってんだろ」
キッドはバーツではなく、肩にいるネズミに視線を向けて言った。
オグマもセコンドのジャンとスネイルから、マウスピースの洗浄とうがいを済ませていた。
「オグマさん、奴のペースに乗っちゃだめですよ。ネズミみたいにちょろちょろ」
「わかってるよ」
オグマはいら立ちを隠さずにグローブで、うがいをした口元を拭う。
「腹をぶっ叩いて、ブッ倒してやる」
「そうですよ、得意のボディアッパーで突き上げてやりましょう!」
レフェリーがリング中央に出てインターバル終了の合図。
オグマとキッドは立ち上がり、スネイルとマロンはリング下に降りる。
「第2ラウンド」
「ボックス!」
ラウンドのコールは黒衣のアナウンサー、開始のコールは白衣のレフェリー。
カーンと鳴り響くゴングの鐘の音はリング下のタイムキーパー。
「いけ、オグマさん!」
ジャンの激を背に受け、オグマはキッドに挑みかかる。
今度はキッドは逃げずに両腕を上げて構えを取った。
互いの腕が交差する一瞬。
オグマの右拳はキッドの左肩に阻まれ、キッドの左拳はオグマの顎を打ち抜いていた。
フラフラとオグマはリングのマットに両手を着いた。
「ダウン!」
レフェリーが宣言し、キッドとオグマの間に割って入る。
キッドはニヤリと笑ってから、白いポールのコーナーに歩いていく。
ボクシングのルール上、加撃によってマットに足以外の身体の一部を着けた場合、10のカウントを終えるまに立ち上がり、闘う意志、ファイティングポーズをとらなければならない。
その間、相手のボクサーが待機をするのは赤でも青でもない白のニュートラル・コーナーである。
レフェリーのカウントが続く中、会場は静まり返っている。
「へっ、ざまあみろ」
キッドはリング中央でひざまづいているオグマに向かって、吐き捨てるように言った。
テントの来賓達も驚きを隠せない。
「カッカきて打ちに行ったところを完全に狙われたか」
ゴンゾーのつぶやきに来賓達が注目する。
「一発で倒れるものなのですか」
「おそらくオグマ選手にはキッド選手のパンチは見えていませんでした。見えない角度から打ったのでしょう」
フィストが補足する。
「見えない角度!?」
言葉とともに一同がフィストに振り向く。
「目の前にいるのに、相手の拳が見えないなんてあるわけが――」
「あるのです、それがボクシングですから。少なくともオグマ選手には見えていなかった。でなければ、ああもやすやすとダウンはしません」
リング上では驚きと悔やしみと戸惑いが入り混じった表情でオグマが立ち上がり、闘う意志――ファイティングポーズをとっていた。
「ボックス!」
レフェリーの再開のコールと共に向かってくるオグマ。
キッドはレフェリーの自分に向けられている視線に気づく。
陽の光がレフェリーの頭髪の無い頭に反射し、キッドは一瞬目がくらむ。そして、すぐさまその意味を理解し、フッと笑った。
「やろうか、正々堂々と!」
キッドも闘う意志を見せ、オグマを迎え撃つ――。
*****
雨の季節を終え、晴天の日々が訪れた頃。
キッドは橋の下の河原で水を入れた革袋を両手に持って立っていた。
「なあ、ケンキチのおっさん。こんな重いもん両手に持って、何させようってんだよ」
持ち上げるのは簡単だが、それを持ち続けるのは容易ではない。
ケンキチはなぜか10歩ほど歩いた先でキッドを待ち構えるように立っていた。
「ここまで、その革袋を持って歩いてこい」
キッドは言われるまま一歩、足を踏み出す。
「そうじゃねえ! 構え方と進み方は昨日、教えただろ。言われた通りやれ」
ケンキチの怒声にキッドはムッとしながらも、言われたまま構えをとる。
キッドは右利き。右利きなら左足を前に出し、後ろの右足で蹴って前に進む。
それがボクシングの基本的なフットワークであり、左利きならその逆となる。
難しいのはかかとを上げて常につま先で立ち、足を入れ替えてはいけないことである。
キッドは左足を浮かせ、右足のバネを使って、前に踏み出す。
なんだこの滑稽な動きは。この季節になるとよく見る、後ろ足でジャンプして大きく進む虫のような動き。
前に出した左足が地面に着いたところで、キッドはバランスを崩し、前から地面に倒れこんだ。
革袋も放してしまい、水がこぼれた。
「ダメだダメだ。持ててないのに歩こうとするからだ。しっかり膝の上で持て。こうやってな」
ケンキチは足元に置いていた革袋を両手に持ち、そのまま一歩、二歩、三歩と歩く。
ケンキチが歩いても、持っている革袋は微動だにしていない。
さっきは自分が歩くだけで革袋が揺れて、前に倒れてしまった。いったい何が違うのか。
「持て」
ケンキチがキッドに革袋を渡す。ずっしりと重みが伝わる。
「構えろ」
キッドは革袋を握ったままの拳を顎の高さまで上げて、構えをとる。
「まだ低い。目線の高さだ」
キッドは拳を目線の高さに上げる。革袋の重みがずっしりと増す。
「膝の上に肘を持ってこい」
言われた通りにすると、少し腕にかかる重みが軽くなった気がした。
「かかとを上げろ。アゴも引っ込めろ」
キッドは両足のかかとを上げ、つま先立ちになり、アゴを引いて上目遣いで前を見る。
「しっかりひざを曲げて、重心をとれ。もっと足を前だ。腰も引けてる!」
キッドは左足を前に出し、下っ腹を前方にせり出す。
慣れない体勢に全身が小刻みに震える。水の革袋を持ちながらでは、倒れないように立つだけで精一杯。
おかしい。ボクシングは拳で殴り合うのではないのか。なぜこんな事から始めるのか。
「ボクシングってのは構えが大事なんだ。殴り合いの前に相手を殴れるように、そして殴られないようにするためのな」
キッドの表情を読み取ったのか、ケンキチが特訓の説明をした。
「さあ、言われた通りに歩いてみろ」
キッドは苦しさに震えつつ、ケンキチをにらみながら歩き出した。
*****
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます