08話 ー拳闘に生きる人々ー


『賭けはワシの勝ちだな。言っただろ、勝てば必ず今日よりいい明日が来るって』


 二段ベッドの上段で仰向けになっているキッドの胸の上で、ケンキチが誇らしげに立ち上がって宣言した。


「よく言うぜ。ほとんどの連中は帰ってたじゃねえか。ガキには石ぶつけられるしよ」


 両腕を後ろに回して枕にしているキッドは言って、そっぽを向いた。頬と側頭部の傷はあの場にいたフィスト・ナックルの従者に治癒魔法をかけてもらったため、もう跡形もない。本来は興行のスタッフとしてドクターが用意されるのだが、今回はフィストの従者が医療の心得があるとのことで兼任していたとのことだった。キッドには何のことかさっぱりだったが。


『いうて、気分はよかったろ?』


「うるせえな。おっさんだってあの後、お姉ちゃん達にだっこされてデレデレだったじゃねえか」


 キッドは照れてさらに顔をそむける。実をいうとキッドも勝利を祝ってくれたお姉ちゃん達に抱きしめられて、いい気分になっていた。


『照れるな照れるな。ワシだってお前が怒鳴り始めたときは、正直どうしようかと思ったぞ。よくあそこでこらえてちゃんと挨拶に行ったな、えらいえらい』


 おっぱいまみれになった感触を思い返しながらしゃべっているのか、ケンキチの鼻の下は伸びきっていた。


「俺だってどうなるかと思ったぜ。あの仮面の女の人が居てくれなかったらどうなったことか」


『フィストさん、ああいうところはしっかり見てくれてるからな』


「おっさん、知り合いなのかよ」


『もちろん。向こうの世界でボクシングで食うためには、絶対世話にならなきゃならん人だったからな。世の中ってのは、絶対どこかで誰かが見てるもんなんだ。くさらず生きてりゃいいことあるさ』


 エッヘンと自慢げに語るケンキチ。


「酒びたりの破れ傘がよくいうよ」


『……なんか言ったか?」


 キッドのつぶやきをケンキチは聞き逃さない。


「あのフィストって人、女なのにケンカの世話役たあ、変わってるな」


 キッドはとりあえず話をそらした。あえてボクシングもケンカと言い換えた。


『……ちょっと待て。なんでお前、フィストさんが女の人って知ってるんだ』


 驚いたケンキチはキッドに詰め寄った。


「だってどうみても女の人じゃねえか。拍手の仕方とか、歩き方とか。女だから仮面つけて、他の連中になめられないようにしてるんだろ」


『お前、それだけでわかるのか』


「違うのかよ」


『……とんでもないやつだな、お前』


 ケンキチはキッドの洞察力に心底驚き、舌を巻いた。


「それよりおっさん、その姿でいいのかよ」


『ん、……ああ、これはこれで悪くないさ。お姉ちゃんにも大人気だし。それに異世界にまで来て、ただボクシングのトレーナーやるってのも面白くないしな。これはこれで悪くない」


 大事なことなのか、ケンキチは最初と最後で同じことを二回つぶやいた。


「……トレーナー、か」


『そう、人を育てる仕事だ』


 誰を? 俺を? ……何のために?

 ケンキチからボクシング指導を受けたこの三か月。自分のために寝食まで共にしてくれたのはケンキチが初めてだった。

 有無を言わせぬ厳しい指導だった。

 だがケンキチが真剣に指導をしてくれていたことは、キッドには理解ができた。だから辛く苦しくても逃げようとは、逃げ出そうとは思わなかった。

 だが自分の姿をネズミに変えられてまで、となると話が変わってくる。

 ……それは本当に自分の為なのか?

 その問いかけをキッドは口にすることはできない。……今はまだ。


「俺はもう寝るぜ、ケンキチのおっさん。おやすみ、いい夢見ろよ」


 キッドは腕輪を外す。

 まだ話は終わってないとばかりにきゅーきゅー鳴くケンキチを尻目に、キッドは毛布を頭からかぶるのだった。



 闇夜の中、ランプ一つでブラシをきゅっきゅっと屋敷の門の壁にかけているのはマロン。


「まだやってるのかい?」


 バーツも杖を突きながらランプを持ってやってくる。


「もう終わります」


「すまないね」


「いいえ、うちは。それよりあの居候のこと、どうするんです?」


「どうって?」


「ボクシングとか言うの、バーツ様が面倒みていくんですか。こうやって泥をかけられたり嫌がらせされても」


 マロンの問い詰めにバーツは答えられない。


「うちはあの二人のこと、嫌いじゃないですけど。こうやって嫌がらせされるんなら反対です。屋敷のみんなにも迷惑がかかるんならやめてもらいたいです」


 マロンはカン、と石の敷き詰められた門の通路をブラシの柄で叩いた。


「バーツ様は貧しい人間に優しすぎるんです。貧民は自分の事しか考えていません。自分のためなら相手に迷惑をかけても心が痛まないんです。……手を差し伸べても裏切られるだけですよ」


 マロンはバーツから視線をそらし、モップをぎゅっと握った。


「……自分の事しか考えていないのは貴族も一緒さ。だからこそ、彼らには利用価値がある。貴族だって色んな考え方の人がいる。今日だって彼らを讃えてくれる貴族だっていただろう?」


「あれはあの仮面の人がいたからじゃないですか。人なんてどうとでも変わります。みんなが石を投げれば、同じように石を投げてきます」


「そう、人は変わる、どうとでもね。君の言うとおりだ、マロン。だからこそ、私は少しでも良い方に世の中を変えていきたいんだ。私の目の届く範囲だけでもね」


 マロンはバーツと目を合わせようとしない。この言い方はマロンにとってあまり好ましくない言い方なのである。

 バーツはマロンの頭をそっと撫でる。


「私だってバカを見る正直者じゃないさ。うまくやるよ」


「お願いしますよ」


 マロンはモップを強く握りながら小さくつぶやいた。



 夜空に輝くのは二つの青い月と赤い月。

 宿のベランダに独り立つのは、フィスト・ナックル。

 フィストが仮面を外すと長い紫の髪が月の輝く闇夜に舞った。


「お嬢さん」


 二人分のワインの入ったグラスをトレイに載せてやってきたのは、ちょび髭のゴンゾー。

 振り向いたフィストの端正な顔立ちはまだ少女の面影が抜けきっていない女性のもの。


「ありがとう」


 声は仮面のときとは正反対の高く透き通る声。


「今日はわざわざお越しいただいたのに、失態をお見せしてしまいまして」


 フィストは笑う。


「あんなの前の世界でも日常茶飯事だったでしょう?」


「まあ、みんな自分の事しか考えていませんからな」


 ガハハとゴンゾーは笑った。


「それにしてもボクシングをこの世界に広めるなんてことを言い出した時は驚きましたよ。そして、片っ端からトレーナー経験者を召喚した」


「またその話? 人が争うのは本能でしょう? 剣と魔法で命を落とすような争いよりも、ルールの確立された拳での戦いなら平和的に解決できるんじゃないかと提案したまでです」


「しかし、貴族達の中には誰かれ構わず戦う技術を教えるのには反対する輩も多い」


「人は常に向上心を持ち、高みを臨まなければならない。過去の実績に満足し安寧するのは愚かな事。今、反対しているのは自らの地位に甘えている者たちだけ。そんな者たちに人の上に立つ資格はない」


「これは手厳しい」


「本来、人は善良なるもの。悪に染まるのは道を見誤ってしまうから。ならば正しい道を示してあげればいい」


「今日、あの少年にやったように、ですか」


「剣と魔法がこの世界のことわりとなっていることに反感を覚えている人達も少なくはない。それは今は小さな芽でもやがて大きな大樹となって、世界に災いをもたらす。だからこそ剣と魔法とそして、拳。第三極を作ることで世界の均衡は保たれる」


 フィストは自分の目の前に腕を立てて、ぐっと拳を握った。


「物は言いよう、ですな」


 ゴンゾーは苦笑する。


「ま、そのおかげで私もこうして、この異世界で食いっぱぐれずにこんな贅沢ができるのですから、そこはお嬢さんに感謝しなければいけませんな。かつての世界ではとてもこんなことはできませんでしたから」


 ワイングラスを掲げるゴンゾーの演技がかった物言いにフィストは微笑んだ。


「乾杯」


 フィストとゴンゾーは軽くお互いのグラスを合わせ、かつての世界とは違う、二つの月が輝く夜空の下でワインを口にした。

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俺は拳で成り上がる!-異世界転生してまでボクシングのトレーナーなんて馬鹿げてる- 西川悠希 @yuki_nishikawa

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