イントロはE♭6で

湾多珠巳

Start the introduction with E flat 6.


 若くもなければナイスガイでもない、外的魅力のことごとくにイマイチな男性ピアニストが生き残るにはどうすればいいか? 仕事を絶やさないことだ。どんなオファーでも、いかなるステージでも、誠心誠意勤め上げる。これに尽きる。

 そのモットーを胸に三十数年。おかげさまで、芸域だけは広がった。昔は室内楽やジャズセッションの真似事もこなしていたが、最近はソロ中心で身軽になった分、硬軟大小なんでもござれ、だ。世界中探しても百人ぐらいしか聴きたがらないような前衛新作の初演をニューヨークでこなして、その翌日の昼にジブリメドレーでシカゴの子供たちを沸かせ、同日の夜にフィラデルフィア音楽院のワークショップでブルースコードの真髄をレクチャーする。器用貧乏? とにかくそれで食っていけてるんだ。結構なことじゃないか。

 そんな俺にも、時間と気合をこめて準備したい舞台というものは時々あって、それが今度のコンサートだ。どちらかと言うとポピュラー寄りのディナーコンサートで、お客達は耳の肥えた専門家揃いというわけでもないのだが、毎年同じ時期に続けているうちに常連客も増え、その町のホテルではちょっとした名物イベントになってしまっている。

 難しいことは言わないが、音楽の良し悪しを体で知っている、そんなお客達を、俺は愛し、お客達も俺を愛してくれている。実を言うと、そのホテルはちょっとした思い出のある場所でもあった。いくばくかの感傷も手伝って、知らず、俺は必要以上にこの仕事へ入れ込みたい気分になっていた。

 自宅を離れて、三日間の予定で準備作業にかかりっきりになったのも、まあ一つには、そういう高揚感のなせる業だったのだろう。滞在先は俺の仕事用の別宅。と言っても、賃貸マンションの一室である。そこにはデジタルキーボードとパソコンその他があって、近年ミュージシャンの必須科目になってきた動画作成だとか、たまに注文が来る音源データの作成だとかに特化した環境が整えられていた。防音もしっかりしてる。手狭な自宅にこの手のスペースを作るのは難しく(アメリカ人がみんな庭付きプール付きの豪邸に住んでいると思ったら大間違いだ)、夜中にガサガサ動き回っても家族に迷惑がかからないので、時々俺はここにこもる。

 ……それだけが理由じゃないだろうって? そうさな、否定はしない。いやいや、妻に嫌気が差したとかじゃないんだ。娘ともうまくやっている。ただ、家のピアノだと……まあいいじゃないか。今回の準備は、ここでやってみたかったんだ。それだけだ。



 プログラムは手慣れたレパートリーも含めての十数曲。いくつか新作……というか、新アレンジを入れたくて、初日は夜までピアノに向かい合っていた。

 が現れたのは、三曲目のイントロ部分で行き詰まっていた時だ。現れた、と言うのは不適切かも知れない。でも、俺にははっきり感じ取れたのだ。露骨に舌打ちして、誰もいないマンションの部屋で俺は吠えるように怒鳴ってやった。

「また出やがったのか! ここまで来るのかよ、ったく」

 途端に部屋の空気が不穏なざわめきを発し、局所的なつむじ風が起きて譜面立てにあった五線紙や鉛筆が宙に舞った。まるで……いや、比喩はいらない。正真正銘のポルターガイストだ。

 空気の渦はネコが暴れまわってるぐらいの範囲で、さらに大きくなる様子はないものの、うかつに手を突っ込むと切り傷の一つ二つじゃ済まない剣呑さがある。

 とは言え、いつまでも紙と鉛筆がぽんぽんぶつかり合っているのを眺めていられるほど、俺は暇じゃない。

「なんで今年も出るんだ……」

 言っても仕方ないことを呟いて、とりあえずこんなこともあろうかと用意していた方策を試すことにする。オーソドックスと言えばその通りだが、物の怪を退けるのは聖書だろう。あるいは聖句の朗読、あるいは聖句を用いた音楽。

 つむじ風はキーボードの二メートル前で暴れ続けている。鍵盤に指を這わせるのは可能だった。

 さあ、聴くがいい。大バッハの「マタイ受難曲」、その感動深きアリアを! まあ、歌詞は入ってないがな。

 曲はもちろん俺のアレンジによるものだ。後で考えたら、適当な原曲の音源を鳴らせばよかったのかも知れないが、まあいいさ。スピーカー越しのオーケストラよりは、生音なまおとで世界に一つしかないピアノソロアレンジを届ける方が、効果的だったはずだ。……ま、デジタルピアノの電子音だがな。

 はたして、風はぴたりと止んだ。おお、さすがはバッハ! と思ったもんだが、どうも様子がおかしい。何と言うか、暴れるのを止めたネコが、クローゼットの上に固まったまま、胡乱な目をじーっと向けたままというか。

 ちょっと気に入らない。聖句が効いているなら、もっとこう、悶絶するとかの動きがあってもいいものだが。

 と思って、今さらのように原曲の歌詞を思い浮かべて、あ、と思った。

「そうか。ここのアリア、聖書からの直接引用じゃなかったんだな」

 つい口にしてしまったのが運のツキだ。さてはそんな狙いだったのかっ、と嘲るように、つむじ風が復活した。警戒して損したと思いやがったのかも知れない。

 ならば、と手当たりしだいになけなしの記憶から聖句を曲にかぶせてみる。この際、マタイに合おうと合うまいとどうでもいい。

「人がもしその頭から毛が抜け落ちても、それがハゲならば清い」

 なぜか暴れ方が激しくなったような気がする。なぜだ。これは正真正銘聖書の文句のはずだが。

「――もしその額の毛が抜け落ちても、それが額のハゲならば清い。けれども、もしそのハゲ頭または、ハゲ額に赤みを帯びた白い患部があるならば、それはそのハゲ頭、あるいはハゲ額に――」

 構わずセリフを続けていると、心なしか風が弱まってきたようだ。いいかげんバカバカしくなって暴れ疲れたようにも見えるが……ここは聖句の量に比例して効き目が現れたと見るべきではないか?

「――祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない……」

 レビ記十三章の途中で、どうやら敵は退散したようだった。やれやれ、と落ちたものを拾い、やっとのことで元通り譜面立てに五線を置く。

 うむ、頼るべきは聖書だ。どう見ても皮膚病の説明書にしか読めないんだが、どんなものでも使い道はあるということだ。

 しかし集中がすっかり途切れてしまった。夜も更けたし、続きは明日……と思ってふと五線を見ると、妙なことになっていた。鉛筆がぶつかった折に汚れがついたのか、俺が書いたイントロの和音に、一つ音が追加されてるように見える。これは……E♭メジャーがE♭6になっている?

 まさか、と思ったら、風もないのに鉛筆ががたがたとキーボードの端から端を無理やりという感じで転がっていった。こいつ……まだいるのか。してみると、これは落書きじゃないって言いたいのか。

 気に入らなくて消しゴムを取ろうとしたら、それはあっさり部屋の端まですっ飛んでいきやがった。悪霊めっ。




 続きはまたも夜、それも同じ曲のアレンジに悩んでいた時だ。

 二日目も朝から仕事してたんだが、問題の曲から始めると、例の物の怪がやってくるような気がして、つい後回しにしてしまった。結局他のアレンジは終わってしまい、これだけが残ったということだ。

 だが、今日はポルターガイストという感じじゃなかった。まるで蜃気楼おばけのような。

 最初はそれの仕業とも思わなかった。ふと窓を見ると、なんだか妙なものが映り込んでいる。夜の闇を背景に、部屋の風景がそのまま反射しているはずなのに、どういうわけかトロピカルな南国の風景が映っているのだ。

 昨日のE♭6からどうつなげるか、呻吟していた時のことだ。六の音は昨日の騒ぎでついた落書き……のはずなんだが、不思議とイントロに合うような気がして、けれどもイントロから先にいけなくて、途方に暮れていた最中のことだった。

 疲れて幻覚を見始めたのかと思った。なにしろ、静止画でなくて動画なのだ。フロリダあたりの――いや違うな。あんな下品で大衆的な場所じゃない。どこかのプライベートリゾートで、いかにもな水着美女たちが、高級化粧品のコマーシャルみたいに魅力を振りまいている、そんな映像が窓に映ってる。

 ノートパソコンの動画が拡大映写でもされているのかと思ったが、電源自体入っていない。

 そのうちに、水着美女が妻ジュディスの若い頃そっくりなのに気づいて、さては、と思った。

「そんな安っぽい観光ビデオで俺が鼻を伸ばすってか? 甘く見られたもんだな」 

 言ってみると、案の定、映像がさらに大化けした。デブデブのおばちゃんが海岸に寝転がってるシーン、ダサい水着のばあさんが混雑したプールの中を犬かきしてるシーン、やせこけた年齢不詳の女性がひどいフラダンスを踊ってるシーン、そのどれもがジュディスの顔をしているのだ。悪意でからかってるとしか思えない。

「また出やがったのかっ」

 言わずもがなのことを叫んで、俺は再度、魔を祓う体勢に移った。昨日はさすがにずさんすぎた。今日はちゃんとやろう。

「マタイ受難曲」の珠玉のアリアを、俺自らの喉で披露してくれる。

 あのアリアは聖書の言葉じゃなかったはずではって? そう、でも、何しろ三百年近く、神のみもとで実際に演奏してきた受難曲なんだから、霊験がないはずはない。一晩考えて、そう結論した。悪霊ならこれで退散するはずだ。

 さあ、聴くがいい!

 一小節目から俺は音楽に酔いしれた。バッハの中では、ある意味、もっともお涙頂戴的なメロディーの曲だ。それに俺のキーボードアレンジが加わって、感動ものにならないはずがない……のだが。

 いやいやなぜだ? なぜ人畜無害な環境ビデオ映写魔が、つむじ風に化けなきゃならん? そうか、苦しんでいるのだな。うん、効いてるじゃないか。

 部屋中をばさばさと旋風で引っ掻き回しながらも、窓の蜃気楼は消えなかった。むしろ、だんだん映像のきわどさが増していくというか、露悪的なものが混じりだしてる。

 しまいに映像は、ジュディスの顔をした若い女性が、誰かとの不器用な行為に没頭している光景を見せ始めた。誰にこんなモノを観せてるんだ、と笑いたい気分だった。童貞の高校生相手ならまだしも、俺みたいな輝かしいキャリアを積んだ男に。

 が、その相手の男が俺のン十年前の姿だと見えた途端、俺の理性は消し飛んだ。

「お前っ、あれを覗いてやがったのかぁっ!」

 あはははは、と微かに女の笑い声が聞こえて、風と映像が不意に途切れた。どうやら苦し紛れに最大限の嫌がらせを残していったつもりらしい。

 いや、まだいた。妻の顔をかぶった女が、突然ドアを開けて俺の前に現れたのだ。

「これ以上いったい何の用だ!」

 怒鳴った俺に、その顔はきょとんとした表情を返して、訊いた。

「あら、お邪魔だった?」

 本物のジュディスだったのだ。あやうく楽譜の束を投げつけるところだった。特に深い事情もなく、ただ様子を見に来ただけだという。口先でごまかすことも出来ず、またごまかすことでもないので、俺は昨日からのこの部屋での怪異について、一通り説明した。

 ジュディスは五分ぐらい笑い転げていた。

「そりゃイタズラなゴーストじゃなくても怒るでしょうよ。バッハへの冒涜だってね」

「失礼なことを言うなっ」

「あなた、スティーブとかマリエラが昔何て言ってたか、忘れたの? 『演奏家生命に関わるから、舞台の上で絶対にハミングをするな』って忠告してくれたのよ?」

「そうだったかな」

 わざとつまらなそうに返してから、俺はさっきの――露悪的な演出が入る直前の――トロピカルな映像を思い出していた。いったい何が言いたかったのか。あんなヌルくて気怠い、脱力系の映像など――そう思っていると、自然、それに合わせたリズムコードを叩いてしまう。……いや、もうちょっとスローな感じの……そうそう、これだ。ボサノヴァのパターンで……ん、ボサノヴァ?

 E♭6からアルペジョを波のようにゆったりと何回か、それからボサノヴァ。お、いけるんじないか、これは?

 いやでもこの曲は……まさかラテン風アレンジにするなんて――。

 アレンジに没頭しだした俺を見て、妻は黙って帰ってしまったようだ。俺がそれに気づいたのは、アレンジの八割を終えて、早起きの小鳥の声に気づいた時だった。ふと見ると、小鳥に合わせてキーボードの端っこがキン、キンとリズムを刻んでいる。

 ま、静かにしてるんなら、文句はないさ。俺はそのままもう少し譜面を仕上げ、ようやく床についた。



 昼前に起き出して、ゆっくり食事、それからアレンジ作業の最後の追い込み。

 明日は昼前までに現地入りしないといけない。そろそろ準備もキリをつけないといけないんだが。

「このアドリブがやはりな……」

 例の難航している曲は、当初の予定だと後半部分にたっぷりアドリブっぽい展開を入れるつもりだったのだが、どうにもいい感じに楽譜が書けない。アドリブは即興でやるもんだろうって? まあな。四、五人のセッションでワンコーラス分を受け持つぐらいなら、その場の流れでどうにかするさ。その程度のことはできるし、そうした方がいい音楽になることも多い。

 だが、ソロで即興「風」の曲調を何分間か持たせようとすると、さすがに事前準備と楽譜が欠かせない。少なくとも俺はそうだ。まあ、そこまでやっておいて、アドリブと称して即興で弾いているような顔をするのは、確かにインチキっぽくはあるんだが。

「少し詰めるか……いや、いっそ曲順変えて、メシアン風のアダージョってアレンジで妥協するのも」

 我ながら不穏なことを軽く口走った、その瞬間。

 ノーっ! とでも言うように、キーボードの全部の鍵盤がフォルテで鳴った。白鍵も黒鍵も全部。

 つい飛び退きかけた俺の目の前で、キーボードはそのままあちこちが勝手に上下し、ペダルまでなめらかに動作して、なんだか明るい曲想のリズムを奏で始めた。考えるまでもなく、またしてもポルターガイストだ。今度はキーボードに直接取り憑きやがった!

 しばらく見ていると、少し置いて同じパターンが繰り返されてるのに気づく。

 何なんだこいつは。俺はお前なんぞと遊んでる暇はないのだ!

 パターンを読んで、鳴るはずの鍵盤を俺が先に叩く。すると、それを見越していたかのように、別のパッセージが上声部で鳴る。こしゃくなっ、とそのフレーズも和音で消してると、最低音域でベースがゴキゲンなシンコペーションを鳴らしだす。

 おお、いい度胸だ。俺とインプロヴィゼーションで競い合おうってのかっ!

 もうその先はケンカ越しのセッションだ。不意を打ち合い、裏を掻き合い、奇襲を掛け合う。正直、どんな音にどんなコードで反応してるのか、自分でもいちいち考えてられない。

 こいつを祓うには、このド突きあいに勝利するしかないのだ!

「ねえちょっと、いいかげん終わりにしたらどう?」

 ジュディスの声が聞こえた時は、俺はほとんど疲労困憊して、同じパターンをただ惰性で弾いていたところだった。鍵盤上のポルターガイストは、いつの間にか収まっていた。勝ったのだろうか?

「今日は夕食は家族一緒でって言ったの、あなたでしょ? パティも下で待ってるのよ」

「ああ……そうだったな。いや、最後の一曲がうまくまとまらなくてね」

「なかなかいい感じになってたと思うけど? あれで十分じゃない」

 え、と妻の顔を見返す。ジョークを言ってるようではなかった。

 あれが音楽になっていたというのか。あんな鍵盤の叩き合いが?

 聴き直したくても、録音していたわけじゃないし……と思って、ふと思いついた。デジタルピアノには自動記録のオプションがあって、俺はよくそのチェックを入れたまま、ムダにディスク残量を削っていることがあるのだ。

 見てみると、俺の三日間の悪戦苦闘ぶりはすべて記録に残っていた。さっそく最前のファイルを再生してみる。途端に、ネコがキーボード上で悪ふざけしているような、跳ねっ返りでイキのいいパッセージがスピーカーから流れ出してくる。

「あら、懐かしいこと」

 ジュディスが目を細めて頬に手をあてた。

「これって、あなた達のオーサカ・コンサートの時の音と、ほとんど生き写しじゃない?」

「そんな風に聞こえるってのか? ……なんてこった」

 夕闇の迫る窓には、やたらと不機嫌そうな壮年男性の顔が、こちらに疲れた目を返している。と、その顔が若い頃の俺に変わった。……おいおい、まだ遊び足りないってのか?



 ラヴェルの「メヌエット」の最後のG9が、響板の奥で微かな名残をたゆたわせている。俺はこの上ない優しさを持ってペダルを上げ、その幻のような響きをそっと消してやった。

 数秒置いてから、湧き上がるような満場の拍手。いい反応だ。ほんとうにしみじみと感動してくれた時の、ピアニスト冥利に尽きるお客の反応だ。

「さて、次はいよいよ最後の曲となりました。レイモンド・サルハシ・ディナーコンサート、大トリの一曲というわけですが……レイ、これはアレンジなんだね、もちろん君の編曲した?」

 丸ぽちゃでメガネが似合いすぎている小男が、馴れ馴れしく俺に話を振ってくる。ジェイクと言ったか。愛想は悪くないし、今日も昼前からほとんど喋りっぱなしなんだが、なぜだろう、早くこいつとのトークが終わらないかと、残り時間が気になって仕方ない。

「もちろん私の。ええと、今日のために、アレンジを一からやり直した最新のバージョンで」

「おっと、それは素晴らしい。今日のホテル・ガラリアのお客様は幸せだね。今回の趣向はどういう?」

「それは聴いてのお楽しみということで」

「OK、最高のアレンジを期待しているよ。ところでレイ、先ほど小耳に挟んだんだけど、君はこのホテルとは長いそうだね。もう十五年以上?」

「そうだね」

「聞いた話では、その当時はピアノデュオだったそうで、十年ほど前からソロに切り替えたとか。あるいはこの曲は、そういう過去へのオマージュという意味も?」

 ああそうか、と納得した。ジェイクは知らないのだ。だから、気遣いも何もなく、どこかデリカシーに欠ける印象がつきまとう。

「そうだね。そういう気持ちがないと言えば嘘になるよ」

「過ぎ去った人たちや、過ごしてきた場所、そして変わらずにあるこのホテルとこの町、そういうもの全体への想いを込めて、というわけだね?」

 俺は素の表情ですこしだけ微笑み、客席の前の方で、娘と一緒に聴いている妻を見た。その後ろには、常連客のみなさま方。全員、やや苦笑気味だ。

 こういう、過去を知らないMCが、当たり前のように俺の担当を務める時代になったのかな、と、みな思っていることだろう。そして、いつになく懐かしんでいるのかも知れない。俺にピアノ・デュオの相方がいて、世界中をツアーしていた時代のことを。今でもそうだが、俺たちは断じてスタープレーヤーではなく、オケラになってはいつもこのホテルに戻り、小金を稼いではまたツアーに乗り出していったんだっけ。

 幾人ものお客も巻き込んでの、いろんな喜悲劇があった。俺とドロレス、そしてドロレスの姉でマネージャー役のジュディス、この三人はホテルをほとんど下宿代わりにしてた。俺とジュディスはもう結婚していたが、そこはいい年の男女三人、時々ムダにスキャンダルのネタを提供しては町じゅうを沸かせたもんだ。

 だが、それらはすべてプライベートなことだ。俺たちと、毎年やってくるお客たちとの視線の中にだけ大事にしまっておくべきもの。プログラムの冊子にも、コンサートの案内にも書くべきことではないし、MCに滔々と語ってもらうべきものでもない。

 たとえ物語が、ドロレスの急死という、この上なく心を揺さぶる結末で幕が下りていたとしても。

「ジェイク、君は何歳だい?」

「うん? 今年で二十八だけど?」

「そうか。あと二十年したら、君にも分かるよ。この曲の言わんとするところが」

 狐に包まれたような顔をしたジェイクだったが、すぐに気を取り直すと、そつなく曲名紹介をやってのけた。

「では、聞いていただきましょう。さまざまな言葉にできない想いを込めて――本日最後の曲、The way we were」

 ステージの最後は、どんなヴェテランでもいくらかの感傷が入る。

 俺も、いつになくセンチメンタルな気分で、亡き相方を傍らに見る気分で――

 と、慣れないことをやったせいで、失敗した。最初のコードをE♭6でなく、元のE♭で叩いてしまった。

 途端に、ステージのピアノが大荒れになった。俺が弾くまでもなく、なんだかラフマニノフ風のすごい「追憶」になってしまってる。

 明らかにピアニストが何もしてないのに、自動演奏みたいなことになって、お客が大きくどよめいた。常連客は大喜びだ。「おお、二年ぶりだなっ」などと気勢を上げてるやつもいる。

 ジェイクが飛んできて、真っ青な顔で俺に尋ねた。

「ど、どうなってるんだ? 何が起こって――」

「ああ、気にするな。ちょっとコンピュータの調子が悪くてシーケンサーがな」

「いや、それ、ただのアコースティック……」

「君もあと五年ほどここで務めていれば分かるさ」

 そう言って、軽く両手を広げてから、俺は演奏に戻った。まあ、ギャラ分の仕事はしなければならんからね。

 ったく、ドリー、このじゃじゃ馬め!



 ネットで検索したら、ちょっといかがわしい感じの記事中に、その動画はある。

 どう見ても自動演奏がバグって大騒ぎしてるだけの映像だが、そのイっちまってるピアノと互角にやりあってるピアノ弾きには、そこそこ称賛のコメントがついている。自作自演と決めつけて白けるだけのコメントは、優にその十倍はあるが。

 解る者が解ってくれりゃいいさ。あれはなかなかのセッションだった。常連客の皆々様も満足して帰ったことだろう。何しろ、ソロピアノコンサートの締めに、連弾のインプロヴィゼーションで三十分近くの「追憶」を堪能できたんだからな。

 またホテル・ガラリアの逸話が増えたってことだ。きっと来年も大入り満員だろう。

 ということで、そろそろ決着をつけようじゃないか。いや、そこでこの文章を読んでいる君じゃない。

 お前だ、ドロレス。

 いったいどういうわけだ? もうガラリアのコンサートは終わったんだぞ! せめて来年まで大人しくしてられないのか? 死人は死人らしく、棺の中で終末を待っていればいいんだ。毎回毎回アレンジにちょっかいばっかり出しやがって。

 なに? やっぱり生で弾くのが最高? カーネギーホールで連弾かデュオやりたいって? おい、勘弁してくれよ! 神は何をしてるんだ! ちくしょう、やっぱり聖書はダメだ。ジュディス! お前も笑い転げてないで、なんとかしろよ! 全く、お前ら姉妹ときたら――


   <了>



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