四 倭の王
……舞台と時代は再び、京、源頼政と以仁王との「密会」の後の夜に戻る。
猪早太は早くも京の夜を跳梁する「その影」を捉えた。
「待て」
早太の声にも構わず、「その影」は走る。
速い。
何かの異能を感じる。
だが、それはこの早太も同じこと。
「…………」
早太は息を止め、一瞬で跳躍し、「その影」に迫った。
「!」
掛け声など、不要。
早太はその手を伸ばし、「その影」の襟首を掴もうとした。
刹那。
「
大陸の言葉。
渡辺津には、宋人自体は稀にだが来ている。
そうでなくとも、宋人と会話するため、大陸の言葉を知る者も多い。
早太は「その影」の斬撃を躱し、逆に体を捌いて、肩を当てた。
「拳法……」
「その影」の驚愕に乗ずる。
早太はその腕を蛇のように
「ぐっ」
「無益な殺生はせん。一つ聞く。お前はぬえか」
「…………」
早太の腕が押し上げられる。
この腕。
痛いのは早太の方といっていい位置なのに、何故動く。
ヌエ――吉次はこのまま早太に逆らうのは得策ではないと判じた。
「分かった。話す」
「良し」
早太はあっさりと腕を戻した。
だが、その眼光は油断ない。
「おれは、ヌエだ」
「何しに、京へ」
「以仁王」
教えられたのはその名前である。
そして、書状が一通と宋銭が一枚。
あとは任せると言われて、やって来た。
「誰に」
「奥州」
これも、言っていいと言われた。
どうせ、言ったところで、証にならぬとも言われた。
「…………」
早太もそれは思った。
この、ヌエなる人物が奥州藤原氏と言い立てたところで、奥州の王、藤原秀衡が無視なり否定なりすれば終わりだ。
「……お前はそれでいいのか」
早太は懐剣をちらつかせる。
ヌエの父を殺した懐剣を。
「わが
今のヌエが金売吉次として、秀衡からの「最初の使命」を果たすにあたって、その過程で、この国の言葉を完璧に習得していた。
早太は少し考えると、新たな質問を放った。
「その……
「知れたこと。宋の、壊滅」
いっそ誇らしげにヌエは言った。それこそがこの海の果ての島国に来た理由であり、宋の手先と化した平家を滅し、以て祖国・金に報いるのだ、と。
「金……」
「奥州藤原は、われら
大陸の金は、漢民族の支配のため、
「それと、同じよ。そしてこれからも。あの平家とやらを廃し、都合の良い者に、この国を、盗らせる」
「…………」
早太は、これ以上は主の頼政に委ねるしかないと判断した。
だがヌエは、その一瞬の思考の隙を捉えた。
ヌエが口笛を吹くような動作をする。
「!」
のけぞる早太。
「惜しいな。しかし、暗器の含み針を見抜くとは、やるな」
これも大陸の暗殺術か。
そう思った間にも、ヌエは跳躍し、早太の一足一刀の間合いから、逃れた。
「待て」
「待たぬ」
大陸を吹き抜ける疾風の如き走りで、ヌエはあっという間に消え去って行った。
*
猪早太から事の顛末を聞き、源頼政は唸った。
「奥州かと思いきや、
しかし、肝心の南宋と金は和約を結んでいるはずである。
「……本朝と同じく、分派して争っているやも知れぬ」
それに今さら、宋金和約のことを話したところで、ヌエは止まるまい。少なくとも、一人のヌエは死んでいるのだ。その屍を越えて、果たそうとしているのだ。
「こうなった以上、相国入道、清盛さまに言上するしかあるまい」
腐っても頼政は三位であり、源家の筆頭。
その頼政が縷々説けば、清盛とて信じようし、何らかの手を打ってくれることだろう。
頼政が覚悟を決めて立ち上がった時。
「ち、父上」
「何だ、仲綱」
頼政の嫡子にして、今は摂津源氏当主の源仲綱が、血相変えて飛び込んで来た。
「以仁王が……以仁王が挙兵された」
「何と」
「し、しかも王はわれら摂津源氏が味方するものであると喧伝している」
「何だと!」
あの以仁王が、切羽詰まっているとはいえ、そこまでするか。
これでは、摂津源氏は流されて、以仁王の膝下について、戦うしかなくなる。
「そんなことをしてみろ。それでは、保元、平治の……」
そこで頼政は絶句した。
以仁王の挙兵。
これを機として、虎視眈々と逆襲の、あるいは国盗りを目論む全国の源氏、あるいは武士たちが、立ち上がるのではないか。
その争乱の中。
――都合の良い者に、この国を、盗らせる。
「まさか」
単なる暴発に等しい以仁王の挙兵だが、もし奥州藤原が後についている、とされれば。
小規模の騒ぎにも等しい暴発が、やがてはこの国全体を覆う争乱と化し――
「そうか。そのために、ヌエは京を徘徊していたのか」
おそらく、以仁王を扇動し、その裏で奥州藤原の名をちらつかせ、そして――
「この頼政も、以仁王の麾下にあると喧伝し、その実、仇ということで討たしめんと……」
おお。
頼政は頭を抱えた。
懊悩した。
ただ、宸襟を騒がせる輩を廃すために。
そう、勅命を仰せつかっただけなのに。
「こうしてヌエを討ち、そして新たなヌエに狙われ、我は……我は……」
仲綱が何かを大声で叫んでいる。
早太は沈痛の面持ちで沈んでいる。
すべては無音。
頼政にとっては、すべては、無音だった。
静かだった。
静寂だった。
ただ――憂鬱の淵にいた。
沈んでいたのだ。
源頼政。
以仁王の挙兵に何故付き合ったのかは謎とされている。
しかし。
その陰に、頼政の憂鬱の陰に。
あるいは、宋銭をめぐる、この国の財のあり方か。
あるいは、金の
そういった何かが在ったのかもしれないが。
余人には知る余地もない。
こうして、摂津源氏は亡びた。
ただし、唯一人真相を知る猪早太。
彼は頼政の死後、仏門に入り、藤沢太郎入道と名を変えた。
藤沢太郎入道。
金売吉次を殺した相手として、後に伝えられている。
その藤沢太郎入道も死し、時代は流れ――
藤原秀衡は、いつの間にかこの国の大半を制した源頼朝に追い詰められた。
しかも自らが源家の嫡流に擬した源義経を口実に、彼の死後、頼朝が奥州へ討ち入り、奥州藤原氏は亡びた。
北を制した頼朝は、とある集落を徹底的に
一方で兄弟の源範頼を通じて、朝廷に宋銭使用を禁じるよう言上し、そして――この国を外寇から守るよう、国造りに励んだという。
【了】
源三位頼政の憂鬱 四谷軒 @gyro
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