微睡みnote ♪まどろみのおと♪

蜜柑桜

まどろむnote 微睡みの音

 鍵盤に触れる。

 指の腹に伝わる刺激。

 同じ音形の執拗な繰り返し。でも指先の刺激はそのたびごとに変化して。

 次第に鋭く、強く、でも粗くなく。内に秘める何かが膨らみ、高揚し、抑えられず——解放。軽やかに遊ぶように流れるパッセージへ。

 鎮まりは束の間、舞台は一転。牧歌的な情景に髪を風に靡かせるような快感。でもやはり胸の高まりはだんだん突き上げて、ふわりと触れるようで、なのに弾むようで。

 朗らかな昼の日は終わり、そして。


「うぐぅ」


 急速に交替していた二本の指が止まった。次に下ろすべき薬指は中空から落ち、鍵を沈み込ませることなくだらりと寝そべる。

 左手を弛緩してまた二本の指だけ。極力軽く。指先の神経を瞬間的に緊張させ、解き放つ。


「違うんですよ」


 また薬指が情けなく寝そべる。出番がなかなか来てくれない。

 違うのだ。二本の指が弾き出すテンポ感、軽重の程度、それから一気に突き抜けるあの勢いが。前の二つの部分が持つ律動とは明らかに別種の疾走。

 響子は無造作に左手の指で黒鍵を爪弾いた。低音が素っ気ない返事をする。弾いたのは自分だが。


「どうもねえ、こうじゃないんですよねぇ出したいのは。つまんないつまんないつまんない」


 楽譜を意味なくバラバラと捲る。とっくに覚えているし、書き込んだアーティキュレーションやディナーミクも見飽きてすでに見ていない。単に新しいメモ書きや何か気づくところがないかと置いてあるだけである。

 フェーリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、幻想曲嬰へ短調、作品二八。異なる性格を持つセクションが中断なしに通しで弾かれる。「幻想曲」と銘打たれただけに、一転、二転する曲想は創造力の自由に任せて移ろいゆくようにも見える。

 ただし明確に三部に分かれ、しかもその各部分の性質を考えれば明らかに多楽章ソナタのそれと分かる。決して形式的には伝統に則っていないが、急、緩、急の三楽章構成だ。

 明朗な第二部の楽想に戻ってみる。指が受ける反発が第三部と違うか意識して。続けて第一部。同じ短調で急速。しかしやはり別様に。

 確かに別々。それは間違いない。


「でもなんかなぁ……なんかなぁ」


 究極的には言葉にならないのが音楽。指の感覚ははっきりと差異を証明してくれるが、聞き取った耳が「否」と言っているのだ。拍動、軽さ、音の丸さ、角張り。質感としか言いようのないもの。旋回するような遊びから途端に足取りを揃えるような。その切り替え。その性格。

 掴めそうで掴めない。何かに似ている気がするのだが、どうにも手に入れかかって外れている。

 ぼんやり眺めていた楽譜を譜面台から離し、響子はピアノの椅子から離れた。座卓の上に積み重ねていた楽譜とノートを床へ退避させ、その山の横に陣取る。

 もう覚えていても、作曲家が書いたものに立ち返るのも重要だ。杜撰に流してしまったところがあったかもしれない。改めて分析してみたら新しいつながりが見えてくるなんてしょっちゅうだ。モチーフの関連性、フレーズの親近性、強弱が向かいたいところ、遠いところ。

 シャープペンシルで印をつけながら、頭で音を鳴らしつつ楽譜を冒頭から読み直す。


「フェーリックス、なっがいですよ」


 一曲が長い。十分ちょっととはいえ、楽譜に起こすと相当なのだ。しかも細かい音符の和声を辿っていくと、弾いている時とは違ってどうしたって退屈になる。

 何十回と辿った黒の連なりを追いながら、時々目を瞑ってイメージしてみる。


 ——どこかなぁ足りないの。力の問題かなぁ……


 理想に近づいている気がするのに、何かが納得していない。弾いたほうが良いんだろうか。それとも寝かせたほうがいいんだろうか。

 頭の中に鳴らす音は、おぼろげでまだ形を留めない。



 ♪ ♪ ♪



 ——ん、あぁ、フェーリックスだ。


 遠くから耳に入ってくる。初めは囁きほどの空気の振れ。そして響子が気づいたら、段々と近づき、姿を現すみたいに明瞭に。


 風が林を一気に吹き抜けるような——疾風。でも怖くはない。葉を触っていき舞い上がる。遊ぶ。かと思えばトトトトッと軽妙な……これは足踏み? でも地に完全に着ききらない。


 ——妖精……


 そうだ、羽根だ。

 シャシャシャッと何かに触れて離れてを繰り返すような旋回、そして一様で急速に打つ音。

 まるで妖精が遊ぶ。

 軽いだけではない。時に激しく、厳かで気品あり。しかし決して仰々しくはならず、あくまでも何処か清々しい。

 フェーリックス・メンデルスゾーンに特徴的なエルフのスケルツォ。弦が漣を起こすような、葉擦れを目の前に具現化するようなエルフのスケルツォ。《真夏の夜の夢》を代表とするあの具合とは違うけれど、どこか、なにか、似ているのだ。

 心地いい。

 目を瞑ったまま、響子はふふっと笑った。


 ——第二部は笑ってたのに、今度は違う。悪戯から本気出したかな。


 トトトトットッ

 トトトトットッ


 切羽詰まってではなくて、余裕に過ぎ去るスマートさ。ステップから滑り出す、踵でターン、向きを変えて逆方向。ときどき隙間が空くけれど、個別の音が響子の感覚にぴたりとはまる。


 これだ。


 頭の中でぼんやりしていた律動が、形を得るように響き渡る。そうだ。どこかで聞いたことがある調子だった。道理でもう少しだったはずだ。響子が求めていたもの。掴めそうで、掴めなかった何か。


 シャカシャカッ 

 シャカシャカッ 

 トトトトットトトトッ


 繰り返される規則的な拍動に、メンデルスゾーンの旋律が乗っていく。

 鋭いのだけれどきつくはない。機敏であるが急いではいない。

 妖精が走り回ってる。闇の中で光を発しながら。光が跳ねて線を描くのを、響子が追う。音と一緒に。


 ——ああやっと捕まえた。


 響子の音は、いつしか耳に鳴り響く律動と一体となっていた。指が動く。そうだ、この感じ——




 ♪ ♪ ♪



 甘い匂いが鼻をくすぐる。砂糖が焼けて、バターと一緒に色づくときの。口に入れたらとろけて、ブラック珈琲が欲しくなる。

 記憶の中にある感覚が、響子の体を包み込んでいく。いつしかリズミカルな音は耳から離れ、旋律も遠くどこかに去ったみたい。


「……子。響子」


 ピーッ。

 妖精の森にはあり得ない電子音が、優しい響きに割り込んだ。それと共に、ふっと芳しいショコラの香りがすぐそばに漂う。


「んあ……んれ。あーたくちゃん」

「ドア開けっ放し。音がしないから終わったと思ったら……寝てんだもんなぁ。ったく、夜中までやってるから」


 そうだ。今日は向かいの匠がいたのだった。練習している間に、ショコラティエの新作を作ってもらっていたのだった。

 甘い香りが楽しみでドアを開けていたのは自分だった。


「で、終わったのか。なんか随分おんなじところばっかりやってたけど」

「ん。やっと掴めたのー」


 まだぼうっとする頭を机に預けたまま、霞む目を半分開ける。


「シャシャシャットトトトって。あの感じ。すごい軽くて、夢かぁ……どこかで音でもし……」


 ——あれ?


 ふと思い至る。そういえば、あの音は聞いたことがあった。もしかして……


「たくちゃん、今日のショコラ、なに?」

「新作? ガトー・ショコラのヴァリエーションだけど」


 やっぱり。まさか。


「メレンゲ? と、刻みチョコレート?」

「ああ。刻みながら卵と混ぜてった。配合の割合、加減見ながら変えてみたくて」

「なぁんだ、たくちゃんの音かぁ〜」

「はぁ? 何が」


 なんでもなーい、と答えつつ、響子はくすくす笑いが止まらない。そうだ、あの軽さは匠の泡立て器。足踏みかと思ったのに、チョコレートを刻むあの時の。

 甘い芸術が出来上がるまでの、いつもの匠の音だった。


「ほら、焼きたて食べるだろ。すぐ仕上げ終わるからひと段落ついたなら寝てないで降りてきな」


 座卓の響子を覗き込んでいた匠は、弾みをつけて腰を上げた。調理中に移ったのだろう。机から離れる気配と共に、ショコラの香りが遠くなる。


「王子様のキスがないと、響子さん起きれませんー」


 微睡みから覚めきらない、あの緩やかな心地よさ。瞳を軽く閉じたまま、望むままに口に出す。

 霧が晴れて、音が掴めた。微睡みの中で見つけた音。

 匠の声と一緒になって、なんだかとても満たされる。


「じゃあ寝てろ。先に食べるから」

「ああ嘘です起きます、待って」


 身を包むのは甘くて優しい、いつもそばにあるあの香り。


 ♪Fin. ♩


 





 肥前ロンズ様にタイトルをいただきました。ありがとうございます。



 Mendelssohn op. 28 Fantasy in F-sharp minor op. 28 スコットランド・ソナタ









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