「行け、少年!」

 クロエさんの声と共に、僕は獏めがけて落下していく。獏はそれを迎え撃つように大きくうなり声をあげて、僕から意識を奪おうとする。その時、僕の背後からバシンッという音が聞こえた。僕を追い抜きまっすぐ空を駆ける漆黒の矢は、獏の左目を正確に撃ち抜いた。その瞬間、遠ざかりつつあった意識がまた戻ってくる。僕はまっすぐ手を伸ばし、灰色の毛玉に向かって真っ逆さまに落ちていく。視界が閉ざされ、体が柔らかい何かに包まれたような感触がした。


 暗闇の中で、何かが体に入り込んでくるような感覚がした。それと同時にもやが晴れるみたいに失くしていた記憶が浮かんでくる。


 ——そう、僕はずっと図書室にいた。ここなら誰も話しかけてこないし、僕もいちいち周りの目を気にしなくて済む。満たされない何かをごまかすようにただ本を読み漁って、日が暮れる頃に家に帰る。ずっとそんなことを繰り返していた。


 ……これはきっと僕が獏に襲われる直前の記憶だ。だけど今必要なのはこの記憶じゃない。僕はもっと深く、暗闇の中へ沈んでいく。


 ——中学生活で何か大きな失敗があったわけじゃない。だけど気づくと僕はクラスで一番背が低くなっていたし、運動だって苦手ではなかったはずなのに、皆についていくのがだんだんしんどくなっていた。努力ではどうにもならないものがあるんだと、生まれて初めて実感した。それからは一人でいる時間がどんどん多くなって、友達の数も減っていった。


 少しずつ、時間が遡っている。僕の名前を知るためには、どこまで潜ったらいいんだろう。その時、果てしない暗闇の向こうから、かすかに声が聞こえた気がした。あの時、夢で聞いたのと同じ声だ。僕は声の聞こえた方へ、吸い寄せられるように進んでいく。


 ——目の前にあるのは丸いチョコレートケーキ。父さんと母さんと姉さん、皆笑顔で僕の周りを囲んでいる。僕は恥ずかしいからいいと言ったのに、酔っぱらった父さんが勝手に歌い始めてしまう。それにつられて母さんと姉さんも歌い始める。もう十二歳なんだから、そんなことしなくてもいいのに。そう思いつつも自然と顔がほころんでしまった。

「ハッピーバースデー・ディア——」


「……大輝」

 僕がそう呟くと、何かが弾けるような音がして視界が一気に開ける。もう獏の姿はどこにもなかった。落下していく僕の脳裏で次々と記憶が蘇っていく。これは獏から記憶を取り戻したのか、それとも走馬灯なのか、いったいどちらなんだろう。そんなことを考えていると、さっと黒い影が視界をよぎって、そのまま僕の体をさらっていく。

「少年……名前は思い出せたか?」

「……はい、おかげさまで」

 これでようやく全てが終わったのだ。獏に食われていた他の人の記憶や意識も戻ったことだろう。僕たちはゆっくりと近くのビルの屋上へと降り立つ。それと同時にクロエさんの背中の翼も夜の中に溶けていくように消えてしまった。

「クロエさん、その、腕は大丈夫なんですか……?」

「ああ、心配はいらない。少し休めば元に戻るだろう」

「じゃあ氷室さんのところに戻りましょう。僕もお礼を言っておきたいし」

 僕は階段に続く扉に向かって歩みだす。だがクロエさんはついてくる気配はない。僕が振り返ると、クロエさんは遠く空の向こうを眺めていた。

「クロエさん……?」

「ほら、見てごらん、少年。……夜が明けるよ」

 その瞬間、ビルの影に隠れていた太陽が姿を覗かせる。夕焼けと同じように、朝焼けも空は紅いんだなということを僕は初めて知った。クロエさんの足元にはまっすぐ影が伸びている。……だがクロエさんに異変が起こっていることに僕は気づいた。その夜をまとったようなクロエさんの体が、少しずつ透けていっている。

「クロエさん!? これはいったい……」

「私も影の世界の住人だ。日光は苦手でね。……なに、別に死ぬわけじゃない。元の世界に戻るだけだ」

「でも、それじゃあ……!」

「名残惜しいかい? 少年。でも君は記憶を取り戻したんだ。早く家に帰って家族を安心させてやった方がいい」

「それは……」

 確かにクロエさんの言う通りだ。だけどもう二度と、クロエさんに会えない。そう思うとどうしても足が動かなかった。半透明に近いほど姿が薄れてしまったクロエさんはゆっくり僕に近づいてくる。その細くしなやかな指がそっと僕の頬を撫でた。

「じゃあな、少年。どんな困難にもめげずに立ち向かっていく姿、かっこよかったぞ」

 そう言い残してクロエさんの姿は消えた。クロエさんの影があった場所には、氷室さんからもらった万年筆が落ちている。僕はそれを拾い上げて、ただ昇っていく朝陽に向かって泣いた。


 あの日の出来事はとても一夜のこととは思えないほど濃密な経験として、今も僕の心の中にはっきりと刻まれている。まるで夢みたいな話だったけど、それがまごうことなき現実であることを、握りしめた万年筆が教えてくれる。

「……ここだ」

 アンティークショップ・ミッドナイト。あの日僕たちが訪れた店は確かに現実に存在していた。僕はその場所をネットで調べて、この万年筆を氷室さんに返すためにここまでやって来たのだった。それにあの時、クロエさんは氷室さんのことを「門番」だと言った。氷室さんなら影の世界に行く方法や、クロエさんともう一度会う方法を知っているかもしれない。僕はわずかな希望にもすがる思いで店の扉を開け中に入る。だが店内は薄暗くしんと静まり返っている。

「あの、すみませーん」

 僕が店の奥の方に声をかけると、なにやらがそごそと人の動く気配がする。

「ああ、すまないね。今は店主が不在なんだ。また時間を改めて——」

 そう言いながら赤い食器棚の陰から姿を現したのは、夜のように深い黒がよく似合う若い女の人だった。

「君は……!」

 まるで時間が止まってしまったかのように僕たちは見つめ合う。僕は溢れそうになる涙をこらえて、やっとのことで言葉を絞り出した。

「僕は、青谷大輝です」

「……いい名前だな、少年」

 そう言ってクロエさんはほほ笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワンナイト・ウィッチクラフト 鍵崎佐吉 @gizagiza

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ