Ⅵ
死、という言葉が脳裏をよぎった時、クロエさんの手が僕の手を掴んだ。クロエさんは僕を一気に引き寄せると同時に、着ていた黒いロングコートを脱ぎ捨てて宙に放つ。ふわりと舞い上がったコートはまるで意思を持っているかのように空中を動き、アラジンの魔法の絨毯みたいに僕たちの体を包み込んだ。落下していく僕たちの体は少しずつ減速し、地面から一メートルくらいのところでどうにか止まった。
クロエさんはコートの下には黒いワンピースを着ていた。露わになったその色白の腕に思わず僕は見入ってしまう。
「少年、大丈夫か?」
「あ、はい、大丈夫です」
そうだ、今は呆けている場合ではない。獏はまるで僕たちをあざ笑うかのように、遠くから雄叫びのような鳴き声を響かせている。物理的に考えてもあれほど巨大な相手を一人の力でどうにかできるとは思えない。だがクロエさんの目はただまっすぐに獏を見据えていた。
「……こうなった以上、もう手段を選んでいる猶予は無いな」
クロエさんはそう言うと、万年筆を握りしめてそのペン先を自分の腕に突き刺した。僕があっけに取られている間に、クロエさんの白くて綺麗な肌はまるでインクが滲んでいくみたいに黒く染まっていく。
「クロエさん、いったい何を……!?」
「……少年、こうなってしまったのは全て私の責任だ。だからあれの始末は私がつける。君はそこで待っていてくれ」
すると突然クロエさんの背中が盛り上がり、服を突き破って黒い大きな翼が生えてくる。そして僕の返事を待たずにクロエさんはそのまま飛び去ってしまう。一人取り残された僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
しばらくすると上空から獏の叫び声が聞こえてくる。今までとは違ってとても苦しそうな様子だ。きっとクロエさんが戦っているんだ。僕は近くのビルに入って、階段を力の限り駆けあがる。息を切らしながらたどり着いた屋上から見えたのは、空を舞い踊るように飛び回りながら漆黒の矢を放つクロエさんの姿だった。獏は自分の影から黒い触手のような物を生やしてクロエさんを叩き落とそうとしている。戦いはクロエさんが優勢なように見えるが、その腕にできた真っ黒な
ここに来てようやく僕は、自分がただの足手まといでしかないことに気づいたのだった。いや、そもそも僕が獏に襲われなければこんなことにはなっていなかったはずだ。僕はただ自分の愚かさと無力さが悔しかった。その時、ビルの近くをクロエさんが素早く横切る。一瞬、目が合ったような気がした。同時に、あたりが急に暗くなったことに気づいた。見上げるとそこには黒い触手が伸びており、まさに僕のいるビルに向けて振り下ろされる直前だった。——潰される。直感的にそう思った。
とても逃げる暇なんてなかった。僕は反射的に目をつむり、自分の体が押しつぶされるのを待つことしかできない。しかし予期していた肉や骨が砕けるような衝撃は訪れなかった。僕がゆっくりと目を開けると、僕の頭上すれすれのところで触手は止まっていた。すると次の瞬間にはバシンッという鋭い音と共に黒い触手が弾け飛ぶ。
「少年、大丈夫か!?」
声が響くと同時に僕の目の前に翼を生やしたクロエさんが降り立つ。今、何が起こったんだ? 目の前の現実を理解した瞬間、止まりかけていた心臓が痛いくらいに脈打ち、僕がまだ生きているということを証明する。
「獏が、攻撃を止めた……? しかし、なぜ……」
クロエさんがそう呟くのが聞こえる。それを聞いて思い浮かんだのは、僕が獏に体当たりをしようとした時のことだ。あの時、僕の体は何にも触れなかった。獏が僕を避けたのだ。体格差を考えるとわざわざそうする必要があったとは思えない。だとすると、何かそうしなければいけない理由があったのか。
「獏は……僕との接触を避けている……?」
「……そうか! 獏は食ったものから強く影響を受ける。今、あいつは君なんだよ!」
「えっと……どういうことですか?」
「獏は君の記憶を……君の名前を食ったんだ。そして君に成り代わることで、自分の存在を安定させている。だからこれほどまでの力を得ることができた」
「僕の、名前……」
「君と獏が再び触れ合えば君に名前を奪い返されかねない。だから獏は君を避けるんだ。逆に言えば、君と獏が触れ合えば獏は存在を保てなくなる可能性が高い」
「……! それじゃあ……」
「もう時間がない。チャンスは一度きりだ。……できるか? 少年」
クロエさんの腕の痣が目に入る。もう僕のことはどうなったっていい。ただ、この人を助けたかった。
「行きましょう、クロエさん。あなたとなら、なんだってできる気がします」
「……ふふ、そうだな。じゃあ……行こうか」
クロエさんは僕を背後から抱きかかえて上空へと飛び立つ。正直気が気ではなかったが、今は獏をどうにかすることだけに集中する。僕が一緒にいるせいか、獏もうかつに手出しをすることができないようだ。しかしその灰色の巨体が目前に迫った時、再び獏の雄叫びが聞こえた。それと同時に視界が眩むような強い目まいを感じる。
「これは……!?」
「私たちの意識を吸い出そうとしているんだ……! だが、このまま行けるところまで行く!」
そう言うとクロエさんは大きく羽ばたき、獏の真上へ飛び上がる。建ち並ぶ街並みの向こうで、真っ暗な夜空がかすかに青みを帯び始めているのが見えた。
——もうすぐ、夜が明ける。
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