Ⅴ
「君、コーヒーは好きかい?」
「多分、嫌いじゃないと思います。カフェオレは普通に飲めたし」
「そうか。じゃあちょっと淹れてくるよ」
「……ついでに私の分も頼む」
いつのまにか窓の側にクロエさんが立っていた。
「おや、おはよう。よく眠れたかい?」
「ああ。完全に元通り、とはいかないが、まあ普段の七割くらいの力は出せるだろう」
「君の七割なら充分だね。君もカフェオレにするかい?」
「いや、ブラックで」
「はいよ」
そう言うと氷室さんはまた家具の森の中へ消えていく。その背中を見送るとクロエさんはベランダにやって来て、さっきまで氷室さんがいた椅子に座った。
「……これ、座り心地悪いな」
「なんか針金細工みたいですよね。……もう大丈夫なんですか?」
「ああ、さっきも言ったがある程度力は回復した。待たせてすまないね」
「いいえ、僕が言い出したことですから、気にしないでください」
「……ふふ。なんだかちょっと大人っぽくなったな、少年」
「そ、そうですか?」
「迷いのない良い目をしている。氷室と何か話したのかい?」
「……はい、色々と」
「そうか……」
氷室さんの入れてくれたカフェオレは思っていたよりも苦かったけど、目が覚めるようなすっきりした味だった。
「さて、予報によれば今日の夜明けは五時五十分……ちょうどあと三時間ってところか」
手元のスマホを見ながら氷室さんがそう言う。店の前の道はしんと静まり返って、まるで街そのものが眠りについてしまっているようだ。
「それだけあれば充分だ」
クロエさんはそう言うと氷室さんからもらった万年筆を取り出す。いったいどうやって使うんだろうと思っていたら、クロエさんはそのペン先を空中に滑らせた。するとペン先に沿って真っ黒な線が空中に引かれていく。クロエさんが描いたのは一羽の鳥だった。女の子らしい丸い線で描かれた鳥はどことなく愛嬌があって可愛らしい。
「君、なんでもできると思ってたけど絵心はそんなにないんだね」
「その、僕は好きですよ。こういう絵」
「……別に目的を果たせるなら見た目なんてどうでもいいでしょ」
描かれた鳥の絵はむくむくと膨らみ、やがて黒い大きな塊になって地面に落ちる。スライムのようにぶるぶると震える塊はどんどん大きくなりながら、やがてクロエさんが描いた通りの鳥になった。大きさは二メートルを少し超えるくらいだろうか。クロエさんはその背中にひらりと飛び乗る。
「行こう、少年」
クロエさんは僕にまっすぐ手を差し伸べる。細くて、しなやかで、少し冷たくて、だけど何よりも頼もしい、僕の全てを預けてもいいと思える手だった。クロエさんに手を引かれて僕が背中に乗ると、鳥はその翼を広げて羽ばたき始める。風が起こっている様子はないけど、鳥の体は僕たちを乗せたまま空へと飛び立っていく。振り返ると氷室さんが手を振って見送ってくれているのが見えた。
「聞き忘れていたが、高い場所は平気か? 少年」
「はい、ちょっとドキドキしますけど、怖くはないです」
「そうか。ならこのまま獏を探しに行くぞ」
「はい!」
風に揺れるクロエさんの黒髪から、あの香りが直に伝わってくる。この胸の高鳴りはしばらく収まりそうになかった。
僕たちを乗せた鳥が獏と戦ったあのオフィス街の上空に差し掛かった時、クロエさんが小さく呟くのが聞こえた。
「これは、まさか……」
鳥はそのまま静まり返った街の上を飛んでいく。そして、目の前に現れたものを見て僕は絶句した。オフィス街の上空には巨大な灰色の毛玉が浮かんでいた。その直径は百メートル近くあるだろうか。よく見ればその毛玉には手足や目があることに気づく。
「もしかして、あれが……」
「ああ、あの獏だ。私の魔力を食って一気に強くなったようだ。……おそらくこの街の人間はもう皆やられてると思った方がいい」
「そ、それじゃあ……」
「……夜明けまでにあいつを倒せなければ、この街の全ての記憶が消える。街自体が最初から存在しなかったことになってしまうだろう」
それはもはや災害と言っていいほどの被害だ。僕個人の記憶がどうとか、もうそういう次元の話ではなくなっている。なんとしても夜明けまでにこいつを倒さなければならない。
クロエさんは万年筆を取り出すと、そのペン先を素早く空中に滑らせる。槍のような形状をした矢印がいくつも描かれ、巨大化した獏に向かって飛んでいく。しかしそれは獏の体に触れる直前で、水の中にインクが溶けていくように薄れて消えてしまった。小さく舌打ちをしたクロエさんは、今度は弧に弦を張った弓のようなものを描く。万年筆を持ったままクロエさんがその弓を引くと、ペン先から伸びた線が漆黒の矢となる。バシンッという音と共に弦が弾かれ、漆黒の矢は獏へまっすぐ飛んでいく。その時、獏の体が何かを察知したかのようにぶるっと震えた。そして次の瞬間には地鳴りのような爆音があたり一面に響く。それが獏の鳴き声だと理解した時には、すでに手遅れだった。クロエさんが放った矢も、僕たちを乗せた鳥も、プルプルと震えて輪郭が曖昧になったかと思うと、数秒と持たずに弾けて消えてしまった。僕たちはそのまま硬いアスファルトの敷かれた地面に向かって落下していく。
「少年、手を!」
吹き付ける風を受けながら、クロエさんが僕に手を伸ばす。だけど何も支えのない空中ではうまく姿勢を保つことができない。僕は必死の思いでクロエさんに手を伸ばす。あとわずか数センチの距離が、今は無限の隔たりのように感じられる。眼下に広がる黒い大地は目前に迫っていた。
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