「そこの棚バラしちゃうからさ、ちょっと手伝ってよ」

「は? ……私たちはアルバイトをしにここに来たわけではないぞ」

「でも見ての通りスペースがないからさ。立ったまま眠れるっていうならそれでもいいんだけど」

「……何の話だ?」

「君、もう魔力も尽きかけてるだろ。少し休まないとまともに戦えないよ?」

「今は時間が惜しい。気遣いはありがたいが立ち止まっている暇なんて……」

「ふーん。……なあ、君はどう思う?」

「え、僕ですか……!?」

「このまま獏を探しに行くか、それとも準備を整えてからにするか。どっちだい?」

 クロエさんは何かを言いかけるが、僕と目が合うとその言葉を飲み込んだ。もしかしたらクロエさんは、僕のために一刻も早く事態を解決しようとしているのかもしれない。その気持ちは嬉しかったけれど、だからといって無理をしてほしくはなかった。

「……クロエさん、少し休んでからにしませんか? 僕もちょっと疲れちゃいましたし」

「……そうか。少年が言うなら、そうしよう」

「君、もしかしてやっぱり……」

「だから違うと言っている」

 何も思い出せないけれど、こういう賑やかさはどこか懐かしいような気がした。


 暗闇の中で誰かが僕を呼んでいるような気がした。遠くから響くその声に耳を澄ます。なんだかとても懐かしい声だった。僕は声のする方に手を伸ばす。

「あなたは——」

 そう言ってはっとする。目の前に広がるのは知らない天井と、そこに向かって伸ばした僕の右手だ。ゆっくりと体を起こしてあたりを見回す。明かりの消えた部屋の中は薄暗く、開け放たれた窓から差し込むかすかな月明かりが立ち並ぶ家具の森を照らしている。やたらと細長い白い本棚に窮屈そうに入れられた置き時計を見ると、時刻は二時を少し過ぎたくらいだった。僕の足元の方では曲線的なデザインの斬新な長椅子にクロエさんが横たわっている。ずっと凛とした表情を崩さなかったクロエさんも、今は穏やかな寝顔を浮かべていた。なんだか見てはいけないものを見ているような気がして、だけどそこから目を逸らすことができなくて、僕は布団を出てゆっくりクロエさんに近づいていく。かがみこんでクロエさんと同じ目線になると、かすかにあの不思議な香りがした。僕はそっと手を伸ばして、クロエさんの頬に触れた。

「君、顔に似合わず大胆だねぇ」

 不意に背後から響いた声に、僕は思わず叫びそうになってしまう。幸いクロエさんは熟睡しているようで、軽く寝息をたてただけだった。僕が後ろを振り返ると、開け放たれた窓の向こうから氷室さんが手招きをしている。どうやら窓の外はベランダになっているらしい。僕は音をたてないようにゆっくりとそちらへ向かう。ベランダには小さなテーブルと針金細工みたいな椅子が置いてあって、氷室さんはそこに腰掛けてコーヒーを飲んでいた。

「あの、今のは……」

「うん、見なかったことにするよ。その代わり僕の話に付き合ってくれないかな。彼女の回復にはもう少し時間がかかりそうだし」

「それは、構いませんけど……」

「さて、どこから話そうかな」

 氷室さんは一口コーヒーをすすって、どこか遠くを見つめながらまた話し始める。

「……今からちょうど十年ほど前、とある田舎町で似たようなことがあったんだ。獏がこっちの世界にやって来て、人間の記憶を食ってしまった」

「え……その時は、その、どうなったんですか……?」

「あまり人の多い場所でもなかったから、被害が拡大する前に向こうからやって来たハンターがちゃんと獏を仕留めてくれたよ。……ただし、その時にはもう夜が明けてしまっていた」

「それじゃあ、記憶を食べられてしまった人は……」

「うん、被害者は一人しかいなかったけど、その人の記憶は何をしても戻ることはなかった」

「……その人は、今何をしているんですか?」

「君の目の前でコーヒーを飲んでいるよ」

 僕は何も言えなかった。氷室さんは目を閉じて、ゆっくりとコーヒーの香りを楽しんでいるように見える。

「僕はね、今の生活に満足しているんだ。あまり繁盛はしていないけど自分の店を持てたし、時折こうして予想もつかないことが起こる。夢とロマンのある最高の暮らしだ。……だけど、時々寂しくなることもある。氷室というのは後からつけた名前だ。本当の名前はわからない。もしかしたら今もどこかで、必死に僕のことを探している人がいるのかもしれない。その人と出会えたとしても、もう僕たちの間には何の繋がりもない。それが記憶を食われるということなんだ」

 獏は人の意識や実体のない影まで食ってしまうような存在だ。それに記憶を食われるということは、ただの記憶喪失とはわけが違うということだろう。氷室さんは静かに僕のことを見つめる。

「もし記憶が戻らなかったら、君はどうする?」

 氷室さんの言葉には、きっとたくさんの意味が込められている。僕ではそれを全部すくい上げることはできないかもしれない。だけど一つだけ、確かに言えることがあった。

「……記憶がなくなっても、僕は僕です。だから僕は、僕のしたいことをします」

「うん……いい答えだ。君は昔の僕よりしっかりしているね」

「それは……多分、クロエさんがいてくれるからだと思います」

「なるほどね。……矢印の向きは逆だったか」

「え……?」

「いや、こっちの話だ。気にしないでくれ」

 氷室さんの笑顔はまるで夜空に浮かぶ満月みたいだった。

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