Ⅲ
どうにか獏を追い払ってクロエさんを守ることはできたが、事態はかなり深刻なようだった。クロエさんはさっきのおじさんの元へと駆け寄る。だがおじさんはコンクリートの上に横たわったまま動こうとしない。
「ま、まさか……!」
「大丈夫だ、息はある。だが意識のかなり深いところまで獏に食い破られてしまっている。……このままでは目を覚ますことはないだろう」
「そんな……」
「せめてビルの中まで運んでおこう。少年、手を貸してくれ」
「あ、はい」
二人でおじさんの体を抱え上げて、どうにか屋上へと続く階段まで移動させる。魔女なんだから魔法でさくっと運べないのかな、とぼんやり考えていたが、そこで僕はあることに気づいた。無機質な白い明かりの下、クロエさんの足元だけまっさらだった。そう、影がないのだ。
「クロエさん、その、影が……」
「……ああ。記憶は食われずに済んだが、代わりに影を持っていかれた。影は私の魔力の源だ。この状態では魔法は使えない」
「す、すみません。僕がちゃんと守れていれば……!」
「謝らないでくれ、少年。君は充分よくやってくれた」
しかしこの状況がかなりまずいということは僕にもわかる。夜明けまでまだ時間はあるが、あそこまで大きくなってしまった獏を魔法なしで探し出して倒すというのはほとんど不可能に思える。このままでは僕の記憶は戻らず、このおじさんもずっと眠ったままだ。でも、いったいどうすれば……。
「少年」
クロエさんの手が、僕の頬に触れた。ドクンと心臓が脈を打ったのがわかった。クロエさんは優しく僕に微笑みかける。今ならどんな言葉を言われても頷いてしまう気がした。
「言っただろう? 私が絶対に君の記憶を取り戻してみせる。だから、そんな顔をしないでくれ」
「……そんなに不安そうな顔してました?」
「ああ。迷子のチワワみたいな顔だった」
クロエさんはそう言ってクスクス笑う。すごく恥ずかしかったけど、僕もつられて笑ってしまう。こんな風にクロエさんと笑いあえるならそれもありだな、と思ったらなんだか少し心が軽くなった。
「行こう、少年。一人だけ頼れそうな人間がいる。彼に会って協力してもらおう」
「はい!」
僕たちはビルを出て再び夜の街を歩み始めた。
時刻は夜の十一時過ぎ。すでに道を行く人はまばらで、時たますれ違った人はなんだか怪しむような視線を僕らに向けてくる。確かに常識的に考えて、こんな時間に中学生くらいの男子と黒づくめの女が一緒に夜道を歩いていたら、怪しまれるのも当然だ。もし警察の目に留まったりすれば、まず間違いなく声をかけられる。警察が獏を見つけるのを手伝ってくれるのならいいが、魔女とか記憶喪失とか、到底信じてはもらえないだろう。極力人通りの多い道は避けて、人に見つからないように僕たちは歩いて行く。
「……ここだ」
たどり着いたのは細い路地に面した二階建ての建物の前だった。一階には「アンティークショップ・ミッドナイト」と書かれた看板が出ており、二階は住居になっているようだ。もう遅い時間だというのに一階の店舗には明かりがついている。クロエさんは迷うことなく店の中に入っていくので、僕も続いて店に入る。
柔らかい暖色系の光に照らされた店内には、不思議なデザインの家具や雑貨が所狭しと並べられていた。ほとんど壁が見えないせいで、それほど大きい店ではないはずなのにまるで異世界に迷い込んでしまったみたいな錯覚を覚える。
「
クロエさんが店の奥の方に声をかけると、なにやらガタガタと音がして、真っ赤な食器棚の陰から眼鏡の男の人が顔を覗かせる。歳は三十くらいだろうか。落ち着いた雰囲気で、なんだか国語の先生みたいな感じがする人だなと思った。
「いったい何の用だい? アポなしで君が来るときは大抵面倒ごとが……おや?」
男の人は僕を見ると言葉を詰まらせる。どうすればいいかわからなかったから僕が黙っていると、その人は眼鏡をくいっと持ち上げてクロエさんに向き直る。
「……君、そういう趣味だったのかい? 言っておくがこっちでは犯罪だからね、それ」
「ばっ……!? そういうのではない!」
「えーと……?」
クロエさんは大きく一つ咳払いをする。
「彼は氷室。影の世界との門番というか、まあそういう感じのことをやってもらっている」
「どうも。人間のお客さんは久しぶりだね」
「あ、その、どうも」
「まあ訳ありなのはわかった。とりあえず奥へおいでよ」
そう言って氷室さんは食器棚の陰に消えていく。クロエさんと僕は小さく頷き合って彼の後に続いた。
「——そういうわけで、獏を仕留めるために協力してほしい」
「やれやれ、随分やっかいなことになっているじゃないか。君がこれほどの失敗をするなんて珍しい」
「……返す言葉もない」
「別に責めているわけではないよ。ただ……」
氷室さんは僕のことをチラリと見る。だが何を言うわけでもなく、すぐにふいと視線を戻した。
「まあまずは君の力を取り戻さない限りどうしようもないだろうね」
「なんとかできるか?」
「少し待ちたまえ。確かあれがあったはず……」
そう言って立ち上がった氷室さんは家具の森の中へ消えていく。時折ガタガタと音を響かせながら十分ほどで戻って来た氷室さんの手には一本の万年筆が握られていた。それを受け取ったクロエさんは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「どうだい? いい出来だろう」
「ああ……。拾い物にしてはよく馴染む。これならまた戦えるだろう。……感謝するよ、氷室」
「それはまだ少し早いな」
「……どういう意味だ?」
「つまりこういうことだよ」
そう言って氷室さんがポケットから取り出したのは、鋭く尖った銀色に光るもの……そう、ドライバーだった。
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