時刻は夜の九時を回ったくらいだろうか。中学生くらいに見える僕が出歩くには少し遅い時間帯だ。クロエさんの後に続いて、僕は見知らぬオフィス街を歩く。クロエさんが言うには、獏というのは人間の精神的なエネルギーを食べて生きているから、自然と人が多い場所に集まる習性があるらしい。しかしこれだけ広い街の中からいったいどうやって獏を探し出すのだろう。僕がそう思っていると、クロエさんは不意に立ち止まった。

「……うん、ここならちょうどいいかな」

 クロエさんは目の前の大きなビルを見上げながらそう呟く。いったい何をする気なんだろうか。僕も同じようにビルを眺めていると、クロエさんは急に僕の手を取った。細くて、しなやかで、少し冷たくて、だけどなぜだか安心する、そんな手だった。驚きのあまり硬直して動けない僕にクロエさんが笑いかける。

「少年、手を離すなよ」

「え、あ、はい」

 するとクロエさんは口の中で小さく何かを呟き始める。耳を澄ましてみるけど、どうやら日本語ではないということがわかるだけで上手く聞き取れない。その時、周囲に異変が起こっていることに僕は気づく。僕たちの周りだけどんどん影が濃くなっている。通行人はこの異変には気づいていないみたいだ。そしてついには足元から伸びた影が黒い幕のように覆いかぶさり、僕とクロエさんを完全に外界から遮断する。いったい何が起こっているのだろうか。クロエさんは目を閉じて集中しているようだった。三十秒ほどたって影が払われると、そこはさっきとは違う場所だった。

「ここは……?」

「屋上まで登ったんだ。高いところからの方が探しやすいからね」

 そう言ってクロエさんは手を離す。あたりの景色をよく見ると、本当にビルの屋上にいた。別に疑っていたわけではないけど、クロエさんは魔女で、実際に魔法が使えるんだ。僕がそんな感慨にふけっていると、今度はクロエさんの影だけが伸びて、千切れた影が鳥の形になって夜空へと飛んでいく。

「獏は食ったものに強く影響を受ける性質を持っている。これだけ人間の多い場所ではどんな変化を起こしていてもおかしくはない。大きな危険はないと思うが万が一ということもある。気を抜くなよ、少年」

「は、はい」

 自分からついていくと言ったのだから、ここで怖気づいているわけにはいかない。いざという時には僕が盾になってクロエさんを守らなければ。その時、クロエさんの影がゆらりと大きく揺れた。

「これは……かなり近いな」

 影から生まれた黒い鳥たちは周囲を警戒するようにバサバサと飛び回っている。不意にそのうちの一匹が何かに引き寄せられるように夜の中に消えていった。まるで見えない何かに飲み込まれてしまったみたいだ。

「そこか……!」

 クロエさんは早口でまた何かを唱え始める。するとさっきまで風に揺られる炎のように揺らめいていたクロエさんの影が、巨大な怪物の爪のように鋭く尖っていく。そしてクロエさんが手を伸ばすのと同時に、虚空に向かってまっすぐ影は伸びていく。その真っ黒な手は確かにそこにいる見えない何かを掴んだ。「ギュウ!」という妙な鳴き声と共に姿を現したのは、鼻の尖った見たことのない生き物だった。熊くらいの大きさで、全身が灰色の毛に覆われている。

「もしかして、これが……!?」

「ああ、獏だ。……だが、思ったより大きい。他にも何人か食ってるな」

 クロエさんは険しい表情でそう告げる。僕の時と同じように、被害を食い止められなかったことに責任を感じているのかもしれない。クロエさんが再び呟くと、影の端が伸びて槍のように鋭く細い形になる。これから何をするのか、僕にも想像がついた。影の槍は蛇のようにうねりながら獏の体に突き刺さった。くぐもった低い声で獏が苦しそうに鳴く。少し可哀想な気もするけれど、僕の記憶を取り戻すためにはこうするしかない。

「おい、何をしているんだ!?」

 突然男の人の声があたりに響いた。声のした方を見れば、そこには作業着を着たおじさんが立っていた。このビルで仕事をしている人だろうか。おじさんはクロエさんと獏を交互に見やって立ち尽くしている。

「まずい、早く離れろ!」

 クロエさんはそう叫んだが、おじさんは突然のことで固まってしまっている。「キュウ」と小さく何かが鳴く声がした。まさか、獏が——。そう思った時には手遅れだった。おじさんの体から白いモヤみたいなものが抜け出して、獏の口の中に吸い込まれていく。その途端に獏の体が大きく膨らんで纏わりついていた影を引きちぎった。

「やってくれたな……!」

 クロエさんは次々と影を伸ばして獏を攻撃するが、獏は怯むことなくゆっくりとクロエさんに近づいていく。さっきと同じ「キュウ」という鳴き声がして、それと同時にクロエさんが膝をつく。なんだかとても嫌な予感がした。

 僕はほとんど反射的に獏に向かって走り始めた。勝算なんてこれっぽっちも考えていないけど、前へと踏み出す足は止まらない。そのままの勢いで獏に向かって思い切り体当たりをした。——つもりだった。僕の体はそのままコンクリートの上をゴロゴロと転がる。顔を上げてあたりを見回しても、どこにも獏の姿はなかった。

「少年、大丈夫か?」

 呆然とする僕の元にクロエさんが駆け寄ってくる。僕のことを覚えているということは、記憶を食べられてしまったわけではないらしい。

「いったい何が……」

「獏はどこかへ逃げたみたいだ。……正直、あのままではまずいことになっていた。助けてくれてありがとう。君は勇敢なんだな」

 そう言いながらもクロエさんの表情は険しいままだった。

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