ワンナイト・ウィッチクラフト

鍵崎佐吉

 ここは、どこだろうか。そこは川沿いの土手にある遊歩道のような場所だった。人通りはほとんどない。空を見上げれば、まばらに星が見える。端っこの方では沈みかけの太陽が、ビルの影からわずかに空を紅く染めていた。

 僕はどこかに行かなければならないような気がしたので道を歩き始める。方角がこっちで合っているのかどうかはわからない。それでも歩みを止めてはいけないような気がした。

「そこの少年、ちょっといいかな」

 不意に後ろから女の人の声がした。振り返るとそこには若いお姉さんが一人立っていた。二十代前半くらいだろうか。長い黒髪に黒いロングコートを着た、何から何まで黒づくめの人だった。本来ならこういう格好はファッションのセオリーに反しているのだろうけど、そのお姉さんはこの姿で生まれてきたんじゃないかと思えるくらい黒が似合っていた。その黒がよく似合う微妙に季節感のずれたお姉さんは僕に質問をする。

「このあたりで変な生き物を見なかったか?」

「変な生き物……?」

「大きさは……多分、大型犬くらいかな。色は……うーん、これは確かなことは言えないな。なんかこう、像とアリクイを足して二で割った感じの、とにかく変な生き物だ。心当たりはあるかな?」

「……すみません、ちょっとわからないです」

「いや、見てないというならそれでいいんだ。じゃあ気を付けて帰るんだよ」

「あ、あの」

「うん? もしかして何か思い出したのかい?」

「いや、その逆というか」

「逆……?」

「その、何も思い出せないんです。だから、その生き物を見たかどうかも、ちょっとわからないです」

「わからないって……まさか」

「えっと……」

「君、名前は?」

 僕は少し考える。

「……わかりません」

 お姉さんは一つ大きなため息をついた。何か悪いことをしてしまっただろうか。僕がそう考えていると、お姉さんは突然頭を下げた。

「すまない。私のせいだ」

「え?」

「君はその生き物に……ばくに記憶を食われてしまったんだ」


 あたりはもう暗くなっている。公園のベンチに腰掛けて街灯の明かりにたかる虫をぼんやり眺めていると、コンビニに行ったお姉さんがカフェオレを手に戻って来た。それを僕に渡しながらお姉さんは言う。

「待たせてすまないね、少年。信じられない話かもしれないが、まあそれを飲みながら聞いて欲しい」

「あ、はい。ありがとうございます」

 お姉さんは僕の横に腰掛ける。別に体が触れ合うほど密着しているわけではないのに、なんだかお姉さんの体温まで伝わってくるような気がした。

「まず獏というのは簡単に言うと夢を食う化物だ。本来は寝ている人間の夢を食うだけでさほど害があるわけではないんだが……今は慣れない世界に迷い込んで興奮状態にある。そして君は不運にもそいつと出会ってしまった」

「……それで、記憶を食われた、と」

「その通りだ。夜が明ける前にその獏を見つけ出して仕留めないと、君の記憶は完全に消化されてしまって二度と戻らなくなる」

「それは……」

 心のどこかで何かがずきりと痛んだ気がした。記憶を食われた僕には「帰りたい」という思いが漠然と残っているだけだ。だけど、きっと僕には帰るべき場所があって、僕の帰りを待っている人がいる。何も思い出せないけれど、やっぱり帰らなくちゃいけないと思った。すると僕の不安を察したのか、お姉さんは優しい声で僕に語りかける。

「大丈夫だ、少年。私が絶対に君の記憶を取り戻してみせる」

「……その、あなたはいったい何者なんですか?」

「私の名はクロエ。こっちの言葉で言うなら、魔女が一番近いかな」

「魔女の、クロエさん……」

「私たちは影の世界というか夜の国というか、まあそういう感じのこことは違う場所で暮らしているんだ。だけど向こうでちょっとしたトラブルがあってね、その影響で獏が一匹こっちの世界に飛び込んでしまった。二つの世界が必要以上に交われば、全体の調和が崩れて世界の均衡が保てなくなる。それを防ぐために私がハンターとしてこっちにやって来たというわけだ」

 そこまで言うとクロエさんはベンチから立ち上がる。ふわりと揺れた黒髪から、かすかに不思議な香りがする。今まで嗅いだことのない、なめらかでしっとりとした香りだった。

「私がもっと早く動いていれば、君を巻き込まずに済んだかもしれない。……こんなことになってしまって本当にすまない」

「いえ、そんな……」

「獏は必ず私が仕留める。だから少年はどこか安全な場所で待っていてくれ」

 それは確かに当然の判断だと言えるだろう。僕は多分何の力もない普通の学生だろうし、一緒について行ったところで何ができるわけでもない。だけど僕はクロエさんと一緒にいたかった。それは一人が心細いからとかそういう理由だけではなくて、うまく言えないけれど、最悪記憶が戻らなくてもこの人と一緒なら自分を納得させられるような気がしたからだ。

「あの……僕も一緒に行かせてください!」

「いや、しかし……」

「役に立たないのはわかっています。でも自分の問題を他人に任せきりにはしたくないんです。どうかお願いします」

 ありのままの理由を話すのは恥ずかしかったので、ちょっとだけ嘘をついた。クロエさんは少し悩んでいたが、やがて根負けしたように苦笑いを浮かべた。

「……しょうがないな。それに実を言うと君にも、いや、君にしかできないこともある」

「え、本当ですか……!?」

「獏は物理的な攻撃手段はほとんど持たない。一度記憶を食われた人間は獏の攻撃の対象にはならないだろう。もし私が記憶を食われそうになったら、その時は守ってくれよ? 少年」

「は、はい、任せてください!」

 クロエさんは僕の返事を聞いてくすりと笑った。

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